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自分

 恥ずかしながら、筆者も生物学的にヒトの一員です。なので自分を観察してみようというのが本章の目的……というのはちがいます。そうしたことは誰でもやっていて、筆者があえてその記録を残す必要もないでしょう。人は自分の経験の中で感じることを他人に置き換え、こうされたら嬉しいだろう、ああされたらムカつくだとうと憶測し、他人を思いやることができます。時にその憶測が外れて他人が予想外の反応をすることもよくあることで、そこからまた何かを学びます。そうした自分観察は、みなさんの方が長けているでしょうからお任せしておきます。
 ここでは、筆者がどのように生き物や自然物を見ているのか、その姿勢や態度、発想について述べてゆこうと思います。
 筆者が、生き物を飼育観察する方法の多くは先人から学んだことですし、そのために必要な知識もしかりです。言わば、筆者の行動のほとんどが先人の歩んだ道をトレースしているに過ぎないのでしょう。それでも筆者なりのオリジナリティはあるはずです。何しろ筆者の武器は想像力ですから、理解の及ばないところは憶測で理解したつもりになっていたりします。記述を読んでも判らない場合は人に尋ねますが、必ずしも答えが返ってくるとは限らないし、尋ねる相手がいない場合も少なくありません。また、いろんな人に尋ねていろんな答えが返ってくるなら、生き物を飼って直接尋ねるとしよう、そんな発想で飼育観察に臨みます。
 なので本章で記述することがらは、読者を想定しているというより、筆者自身のためのものなのかもしれません。時と共に移ろう自分の考え方に対し、あの時はこう考えていたぞという記録を残すために書くのかも。もちろん自分以外の人に読んでいただいて理解できるようには書くつもりです。まがりなりにもブログという形でネット上に発信する限りは。しかしながら筆者の文章力が貧弱なゆえに読者の理解が充分に得られない場合もあるでしょう。その時は憶測と想像力を働かせてください。それもまた読者なりの理解ですしオリジナリティです。

ナチュラリストのこと

2014/01/21


 ナチュラリストという言葉を耳にする機会は、私たち凡庸な社会人にはあまりありませんね。日本語にすると博学者となるそうですが、博学というのは様々な学問に広く通じているといった意味合いかと思われますが、ナチュラリストというのはそういうことではなく、自然大好き人間みたいな感じです。ある辞書によると、ナチュラリスト=野生の生物やその他の自然物に関心を持ち、それを愛好または研究する人とありました。
 この言葉を筆者が知ったのはもうずいぶんむかしのことになるのですが、知った当時はなんて素晴らしくもカッコイイ言葉なのだろうと感銘を覚えたものでした。ナチュラル=自然ですから、単純に自然人と訳せばいいじゃないかとも思えますが、自然人というのは野性児みたいなニュアンスがありますよね。筆者は自然と同じくらい科学技術も好きなので野性児ではないです。また、法的には自然人とは、生物学的な人であり法的に人と認められる存在のことだそうです。
 ってことで、筆者はナチュラリストを自認し、幼少の頃からジジイに至る現在まで、あれこれ研究というか遊んできたようなわけで、その主だった行為はですね、生き物を小さな入れ物に閉じ込めて観察する、あるいは山野に出向いて採集や撮影に勤しむといったことだったりします。こうしたことをやっていれば、ナチュラリストを自認して問題ないと思うのですが、ただ見て楽しむだけではちょっと虚しい気もします。

 動植物や地質や天体を観察したり研究したり、それらに親しんだりする人は、筆者にとってはみんなナチュラリストです。そしてナチュラリストには、様々な姿勢や思想、考え方があるわけで、人によってはナチュラリストなんて呼ばれるのを望まない場合もあるでしょう。自由研究者よりも、それぞれの専門分野のエキスパートであったり、ブリーダーであることを望む人の方が多いかもしれません。そしてそうした人たちは、素人という言葉を嫌う傾向があるようです。
 様々な分野で学究に励んでおられる方々にとっては、ナチュラリストという漠然とした呼称では満足できないものがあるかもしれません。だからこの言葉はあまり普及していないのかも。

 筆者は、正真正銘の素人です。大学に行って専門教育を受けたこともありません。動物の飼育や植物の栽培についても、専門書等から得た知識をもとに我流で飼育栽培を行なっています。
 筆者は、地質学や古生物学、とくに進化系統分類学に絶大なる信頼を置いていますが、垣根や境界の概念を好まず、なんでも同じように接しようとします。筆者にとってはヘビもトカゲも同じ生き物です。可能であれば1つのケージで飼います。
 筆者にとって自然とは、野生に限らず人間社会や科学技術もその一部です。同じ尺度でそれを見つめます。小動物を可愛く思うのとアニメのフィギュアを愛でるのとに差異はありません。観察記録を記述することと小説を現すことにも差異はなく、その両方が筆者にとって必要です。
 筆者は、世間で言うところのオタクでもあり、中学生くらいの頃からずっと文学と共にアニメを愛してきました。そして文学もアニメも生物も、筆者にとってはちがうものではありません。

 筆者のナチュラリストとしての武器は想像力であり、姿勢はアマチュアイズムです。生き物を観察し、その進化について学ぶのに最も必要なものが想像力です。アニメを観たり小説を書いたりすることで培われる想像力が、自然を観察し生き物を飼育栽培するのに必要不可欠です。専門知識も道具として用いますが、専門家ならぬ筆者は、そうした知識をどこまで正しく理解しているか怪しいものです。
 想像力とアマチュアイズムといういい加減な思想で物事を見つめ、正解は生き物本人に聞きます。先人が著した記述よりも目の前の生き物の振る舞いを信じます。
 学術的な見地からすると枠をはみ出したこうした態度から、意外なものが見えてくることがあります。人間社会も、社会性というヒトの生態として見ると、もっとシンプルにコアの部分が見えてきます。これはなかなか面白いものです。

 既成概念の破壊であるとか、発想の転換といったいかにもユニークそうな表現が、しばしば持てはやされますが、破壊や転換にこだわる必要はないと思います。従順であること妄信することも時には必要です。妄信を続けた結果ウソを発見できればそれも大きな成果です。またそのウソもウソというよりは精度のちがいによる誤差かもしれません。
 信じるだの疑うだのもあまり意味のないことです。自分の見方考え方ですら時と共に移ろうものですし。答えは常に流動的で、真の正解に到達することはないものだと考えた方がよいかもしれません。流動的な答えとは必ずしも未来に向かってゆくものでもありません。生物の進化は後退しませんが、その振る舞いは必ずしも前進のみを目指していません。このような流動的な判断をじつは自然は常備していますから、観察者あるいは研究者も流動的な答えというものに馴れておかねばなりません。

 筆者の目指すところは……。まったく解りません。では専門家の研究者は何を目指しておられるのでしょう? エキスパートである以上、確たる方法論と目的意識が必要でしょう。職業学者であれば社会的利害を考慮した説の主張も必要でしょう。しかしながら成果や実績を積むことに束縛されて、流動的な答えというものを解さず、自然観察を一方的にしか見れなくなっているとしたら、それは悲しいことです。
 専門あるいは職業という社会的位置づけとは別に、個人としての自由意志と想像力も持っていてほしいものです。
 自然界あるいは人間社会の解明は、ひとりの人間が成す業ではありません。大勢の人間の個性的な見方考え方の集大成として、人知はあるべきです。より多くのナチュラリストの学究への参加と発言を期待したいものです。

雑記帳のこと

2014/01/21


 筆者は若い頃から雑記帳という言葉が好きでした。むかしはパソコンがありませんでしたから、記録的なものはノート等に残すしかなく、様々な観察記録をノートごとに分けるよりも、雑記帳ということでまとめてしまう方法をよく採っていました。雑記帳、便利でいい言葉だと思いません? とりあえず筆者はむかしから今になってもこの言葉が大好きで、こうして電子記録時代になってなお、採用しているわけです。
 雑記帳というと、専門別のノートとはちがって、何でも一緒くたに覚え書のように書き綴るというニュアンスがあるかと思いますが、筆者にとっては雑学ノートみたいな意味合いもあります。たとえば、爬虫類というものを専門的に知識として習得しようとすると、生物学上の位置づけ、進化系統分類上の位置づけといったものを学び、体の構造や解剖学的なことを学び、主だった種や生態について学ぶといった具合に、爬虫類とは何なのかを学習することになるかと思いますが、これが雑学としての爬虫類ということになると、えてして応用編が先行する場合が多くなります。とりあえずあるトカゲを可愛いから買ってみた、お店の人に餌と飼い方を教わった。専門書を見てみるとそれはトカゲの仲間でもヤモリといわれるものの一種で、イモリとはまったく別の生き物だと解った、そんな感じに生き物に直接触れることから始まって、専門知識はあとから学ぶという具合です。
 専門的にものごとを学習するのと、雑学としてものごとに触れ、興味を持ったのでもう少し専門知識的なものを掘り下げてみようというのとでは、概して本末が転倒しています。
 海外のことはよく判りませんが、日本の学校教育や企業内教育では、専門知識の習得が実技より先行することが多いと思います。英語がまったく話せないのに、難解な英文法を次々に教えられ、どんどん英会話から遠ざかってしまいましたし、会社に入ってからも教習所で理論や法令をうんざりするほど教えられ、仕事の現場に出てみるとそれらがあまり役に立たなかったということは、誰しも経験していることではないでしょうか。今から思えば学校教育の英語は、英語という分野で人をふるいにかけて優劣を着けるためのものであって、その代償として英語が話せなくなってしまうというとんでもない代物でしたし、企業における理論先行型の教習も新人の従順さを試すためのもので実際の仕事は現場の先輩が教えてくれるものでした。筆者の知る英会話の達人の方も、学校での英文法は役に立たなかったし、今でも英文法の試験で良い点をとる自信がないとおっしゃっていました。
 爬虫類や昆虫のベテランのブリーダーに、高校での生物の授業はどうだったかと尋ねると、何を学んだか覚えていないとか、何の役にも立たなかったと答える人が少なくありません。彼らは先に本物の爬虫類や昆虫に触れ、それが実際にどのようなものかを自分なりに理解したうえで、専門書を読んで学術知識を会得します。生き物の繁殖と育て方しか知らないというブリーダーはほとんんど聞いたことがありません。彼らはみんな高度な専門知識を有しています。現物を目の前にしているから、専門書に書かれていることもより正確に理解でき、学習も進むようです。
 理論先行型の学習では、実物がどんなものかを体験せずに理屈を学ばねばなりませんから大変です。爬虫類は変温動物で大脳も発達していないと学んだあとで実物に出会うと、彼らが高い学習能力を持ち、日光浴によって恒温性を維持することに驚かされます。ヘビの仲間には発熱して卵を保温するものもいます。変温動物と恒温動物という考え方よりも、体温維持を何に依存するのかという外温動物と内温動物という表現の方がずっと実践的です。
 雑学は、実物先行タイプの学究であると言えます。まず実物に遭遇してそれに興味を持ち、それが何かを調べるために専門書を開きます。専門教育では先に専門書をひもときますが、考えてみれば学術的知識というものは、もともと存在する実物を概論するために分類法や名称をあとから人間が定義したもので、先に実物ありきなのです。文法も同じことです。太古の人たちが言葉を使うようになったとき、先に名詞や動詞を考えてから会話を始めたわけではありません。文法は、より大きな社会のより多くの不特定多数者に言葉を伝えるときに必要になった法則性であって、先に会話ありきなのです。

 高等教育の世界では、専門教育の習熟というものが高く評価され、その努力が一定の単位という基準で認められ、趣味の雑学は軽んじられ、努力ではなく道楽であると定義されます。そんな世間体はどうでもよいことなのですが、専門教育では単位という一定の到達点があるのに対し、雑学にはそれがありません。目標があっても到達度や習熟度を知る基準はありません。
 筆者は、目の前にいる動植物が進化的にどんな経緯をたどって今の姿になったのかを知ろうとしてあれこれ勉強し、それが講じて人間社会の将来性についても考察する羽目になりました。これが雑学のおもしろいところでもあります。生物の進化と生態系と人間社会の将来性なんて、既製の何学なんですか? でも○○学とか○○考としてまとめられそうでしょう? ただそこに社会的に認められない、多くの研究者によって追研究が行なわれないという点がはなはだしく素人なんですけどね。
 専門教育は比較的短期間で概論を習熟しますが、独学はその何倍も勉強してなかなか結論に到達しません。ひじょうに非効率的でそれを職業にするには不向きです。しかしながら、現在のネット社会では、素人研究家が専門知識に触れたり、最先端の学術情報に触れることも不可能ではなくなり、かつまた自身の研究成果を発信できるという機会に恵まれるようになりました。それは素晴らしいことなのですが、ネット上に発信するなんていうことになると、それなりの責任感というか、適当なことを言ってるとたたかれるんじゃないかっていう恐れというか、事故満足の勉強では済まないという思いが出てきます。生まれ落ちるからネット社会が当たり前の世代の人たちは、この現象をどのように消化しているのでしょうね。

 ということで、筆者の雑記帳は、思いつくままに観たもの感じたものを書き綴る一方で、それなりの分類(章分けして整理)をして読者を想定した記事にまとめ、素人なりに高みを目指してゆこうと考えています。 

こだわらないというこだわり

2014/01/21


 人間には誰しもこだわりというものがあると思います。自分なりのテイストやスタイルというものを持たないという人は少ないでしょう。筆者は多趣味である(とよく言われるが本人はそう思ってない)せいか、個性的な方や高い専門知識を持ち合わせた方との付き合いもそれなりにあって、しばしば他人のこだわりに振り回されて来ました。かく言う筆者は、没個性的でこだわりの少ない平凡な人間なもので。
 映画の見方、小説の読み方をあれこれ解説され、そんなもんどうでもいいと言うと、それでは本当に作品を楽しんだことにはならない、作者の意図を読み取っていない、と呆れられます。職業評論家ならぬ素人の自分に、作品の嗜み方なんて重要なのかよ、なんて思うわけですよ。
 筆者の読書傾向を振り返ってみると、漫画やライトノベルというオタク的嗜好のものが多く、次が翻訳もののサスペンスですか。映画や小説ではホラーも好きです。猟奇的でグロテスクな表現も大好きです。陰湿なサスペンスも好きですが、痛快アクションも好物です。筆者の自室には、アニメのフィギュアや人形や、戦闘機やスポーツカーのモデル、動物のフィギュア、ハチの標本なんかが並んでいます。書棚にはアニメのDVDとか若い頃に作った同人誌なんかがあります。机の上にはパソコンのディスプレーと魚の水槽と巻き貝を飼ってる金魚鉢があります。壁にはK-POPアイドルのポスターがあれこれ貼ってあって、ウォークマンにはアニソンやラジオドラマやK-POPが詰まってます。デジタルフォトスタンドには、虫や爬虫類やK-POPアイドルやアニメがランダム表示されます。そしてクローゼットにはなぜかメイド服がぶら下がっています。自宅の駐車場は奥のスペースがガラス温室になっていて、そこに生きた虫や爬虫類を収容しています。
 そんなに多趣味だと、けっきょくアブハチとらずになってしまうだけでは、と多くのこだわりある人たちから蔑視されてきました。でもね、素人だし、アブハチとらずでもいいんじゃね? って思うわけです。人間の生活なんてこんなもんでしょ、とも思うんですよね。人間の生活ってことで言えば、鉄道会社に勤める筆者は、電車の免許も持っていますぜ。乗務員時代は左ハンドルの電車を運転したあとに、右ハンドルの車を運転して帰宅したものさ。
 スポーツ系は得意じゃないけれど、硬式テニスを10年以上続けたし、社内の駅伝大会にも出たし、自転車で四国一周とかもした。最近はスポーツジムで老化防止に励んでます。
 多趣味って言われますが、何かを突き詰めようとすればけっきょくいろんなこと学んだり嗜んだりしなくちゃならないってことになりませんか? 生き物飼うだけでは文章力つきませんし。こうして文章を書けるのも図鑑や専門書を読破したからではなく、アニメ観て言葉や表現を覚え、会社勤めやスポーツを通じて人間関係を学んだおかげですって。
 筆者は、生物の進化に興味を持って生き物を飼い始めたわけですが、そこから生物の社会性、人間の社会性ということに研究は広がりました。これは言わば必然性でした。そして生物学を長く嗜んだ者であっても、生物学的見地からだけでは人間社会を観察することは不可能で、アニメや同人誌仲間と築いた横社会、会社勤めと労働運動で直面した縦社会というものを経験して学んだことが役立っています。

 こだわりある人たちのこだわりには、えてしてこだわり自体が目的っていうケースが多いような気がします。いわゆる形やスタイルにこだわることで、人に見られる自分を磨きたいみたいな。どこにでもたくさんいますよ、こだわりある人たち。アニメでも映画でも、生物業界でも。僕が美少女アニメを見ていると「悪いけど、萌えとか興味ないし」なんて言われますし、ホラー映画を見ていると「こけおどしに専念していると思想がなくなるよ」なんて言われますし、安価なトカゲや採ってきた虫を飼っていると「あなたにとってペットは生きてりゃ何でもいいわけ?」なんて言われます。
 こだわりある人に言わせると、お気に入りの作品、お気に入りの作家、好きな監督、好きなアイドルってものをちゃんと持ってなきゃならないそうです。そりゃ僕にもあるていどはそういうのありますけど、こだわり屋さんほど明確に自分のお気に入りなんて決めてないです。自分が出会った名作ベスト10とか決めてる人って、自分には無理なのですごいとは思いますけど。

 筆者が多趣味なら、趣味の少ない人ってどういう感じですか。筆者は、あまり一般的でない趣味をいくつか持っているからそう思われるだけです。世間には、釣りが好きで、海外旅行もバンバン行ってて、さまざまなスポーツをこなし、ギターが弾けてカラオケも得意で、お酒も嗜むしギャンブルも好き、そんな人っていくらでもいるじゃないですか。そして恋人の影響で英会話も始めた、パンやお菓子作りも覚えた、とどんどん趣味が増えている。筆者はそのいずれもダメです、残念ながら。絵を描いたり楽器を弾いたりくらい少しはかじりたいものです。海外旅行も行きたいし、日本語以外の語学も勉強したいです。人の社会性をもっと学ぶためにも。
 筆者は、無理して多趣味になったわけじゃないし、しょせんは筆者なりの見方感じ方でいろんなジャンルを眺めているにすぎません。それぞれの趣味に応じて自分を変えたり、自分の多面性を発揮したりするわけでもありません。むしろ生き物もアニメもスポーツも同じように接して、そこにこだわりやスタイルを持ちません。それでも自分なりの方法ってものは自然に身につくのでしょうけど、もしそれがあるとしたら、こだわらないというこだわりかもしれません。

 筆者は、スタイルにこだわらないので、いろんな方法を受け入れます。否定や反対や主張はあまり強くはしません。けっこう他人の言うことを信じます。時には騙されて失敗します。多くの失敗をしてたくさん恥をかいてきましたが、それも経験として受け入れるようにしています。失敗や屈辱も授業です。他人の失敗もあまり責めません。失敗の多くは経験の多さです。挑戦者はなまけ者よりも失敗する機会が増えます。
 専門用語や専門ツールへのこだわり、高尚なものと低俗なものとの分け隔て、日本語の乱れや若者言葉への蔑視、そうしたことがらは筆者にとってはあまり有益ではありません。専門用語はかっこいいし嫌いじゃありませんが、専門用語で武装して一般人やその考え方を遠ざけるのは不利益です。知識は専門家や専門書の中にだけ存在するのではありません。低俗とされるものの中にも優れた知識がたくさん隠れています。若者言葉とそれに伴う日本語の乱れこそが活きた日本語です。最近筆者が覚えた“やばい”という言葉なんで、絶妙すぎてやばいです。

 そんなわけで、平凡でこだわりが少ないことが筆者の信条です。テイストやスタイルは、自分でそう決めるよりも、経験を重ねれば勝手に身についているものなのでしょう。それがどんな形なのかは筆者にとっては重要ではないです。どうでもいいです。
 こだわりによって自らの経験や考え方を一蹴されてしまうのは不快です。素人呼ばわりされるのはかまわないのですが、話しも聞いてくれないならその人と関わる意味がありません。知識をひけらかして経験浅薄者を鼻で笑うのも不快です。そういう方を見ていると、自分のスタイルなんて決めるもんじゃないな、とつくづく思います。

稲穂の話し

2014/01/25


 どんな業界にも業界をリードする権威が存在します。誰もがその実力を認めるような人、伝説を築くような人というのは、普通の人間とどうちがうのでしょうか。
 筆者は凡人なので、社会的地位の高い人や世間的に知名度の高い人に知り合いなんていませんが、それでもペット業界のすごい人、スポーツで全国レベルの人を目にしたり話しをしたりしたことがあります。筆者が出会った、誰もが権威と認めるすごい人というのは、一見すると普通で、威光を放っているわけでもありませんでした。何も知らずに気やすく話しをしていて、あとでその人が伝説の達人だったと聞かされてびっくりするようなことに何度か遭遇し、偉人のそうしたおくゆかしさがカッコイイと思いました。
 もうずいぶん以前のことなのですが、筆者に様々な外国産の昆虫を紹介してくれた友人と、昆虫展を見に行った時のことです。世界中の珍虫奇虫の標本を目当てに、様々な人々が集まっていたのですが、その中には自称スペシャリストもたくさん来ていて、昆虫採集や標本作りのツールをひけらかし知識を自慢していました。筆者も幼少の頃から昆虫標本は作っていましたが、最新のツールというのは確かになかなか素晴らしいものでした。スペシャリストたちの得意気な専門用語山盛り解説を、筆者はほとんど傍観状態で聞いていたわけですが、筆者と同じように話しに耳を傾け、感心しているひとりの老人こそが、じつは昆虫研究の第一人者にして今回の素晴らしい標本の数々を展示されたその人だったんですね。彼が発見し彼の名を関する虫も多数にのぼり多くの著書を著している業界の超大物は、じつに物腰の低い謙虚な人でした。我こそがこの道の権威と言わんばかりの自称スペシャリストたち、少年が持ってきたクワガタムシを鼻で笑っていた彼らが、じつに薄っぺらく見えました。
 話しは変わって、筆者が所属していて会社のテニス部の部長は、社会人テニスの世界では全国レベルの腕前の、業界の有名人でした。運動が苦手で、長らくテニスを続けてもなかなか上達せずに、後から入ってきた新人たちに技術で追い越され、多くの嘲笑を受け続けていた筆者に対して、彼はけっして侮辱するようなことは言いませんでした。ある時、筆者が同人誌を作っていることを聞きつけた彼は、そんな才能があるなんて尊敬するとおっしゃいました。同人誌活動などと言うと、とくに体育会系の人からは「それって楽しいの?」なんて一笑されることが多いのに、彼はまったくちがっていました。才能なんて認められて初めて価値があるものと思っていた筆者は、作品も見ずに創作活動をしていることだけを指してそれを才能と表現した彼の言葉は、まだ若かった筆者には痛烈でした。
 実るほどこうべを垂れる稲穂かな、という有名な俳句がありますが、これは偉大な人ほど態度が謙虚であることを歌っており、人はかくあるべきだと言っている句であると思うのですが、その通りだと思います。真の実力者は自らの業績を自慢したりはしないもののようです。自分の努力や労苦、業績を吹聴する人は、あんがい大した人間ではなく、真の実力者は自分で言わなくても周りがそれを認め、称賛してくれるものなんですね。
 すべての偉人達人が謙虚なのかどうかは知りませんが、少なくとも才能と人格を併せ持つ人は、いばり散らしたり自画自賛に終始して他人を認めなかったりということはないようです。
 ある時、そのことについて文学の先輩と話していると、謙虚で人の教えに耳を傾けるような性格じゃないと真の実力は身につかないだろう、という答えが返ってきました。なるほど、素直で謙虚な態度と生き方こそが、才能を伸ばす秘訣なのかもしれませんね。

垣根の構築と破壊

2014/01/25


 筆者が30代の頃から考えていたことなのですが、人間の知的活動には学習と研究があると思います。学習とは学ぶことですが、もっと研究というのは能動的にものを知ろう解明しようということになるかと思うのですが、そのちがいは受動的であることと能動的であることであると共に、垣根を構築することとそれを破壊することではないかと思うのです。
 これについて述べるのはじつは初めてでして、他人にも言ったことはないのですが、30代に思いついて50代の今でも思いが変わらないので、公表してもいいのではないかと思ったわけです。
 筆者は幼いころから虫と戯れていたのですが、昆虫のポケット図鑑を手に入れてから、虫の世界がますます魅力的なものになりました。公園の集団墓地の土を掘り起こしていて見つけた虫をカメムシと名づけ、図鑑でそれが実際にカメムシであることを発見したときも感動しましたが、図鑑を手にしてからは一見して同じように見える虫たちが、それぞれちがっていることを知り、感動の連続でした。それまでの筆者の知識では、カブトムシのオスはサイの幼虫で、メスはカバの幼虫でしたからね。
 図鑑を手にするまで、クモやヤスデ、ダンゴムシやナメクジ、チョウやハチはみんな虫でした。ところがチョウやハチは昆虫といわれるものの仲間で、その他の虫はまた別の動物であることを図鑑は教えてくれました。昆虫というグループは子供にもけっこう判りやすい形態をしていて、目や口や触角がついた頭部と、1節に1対ずづの脚と羽がついた3対からなる胸部と、それに続く腹部から成り、様々な昆虫はすべてこの原型を様々に変形して形作られています。現生の昆虫は前胸の羽は退化していて中胸と後胸にある2対4枚の羽を持つことが主流で、脚は前中後胸に1対ずつ6本あります。この定義で野生の虫たちを観察すると、昆虫とそうでない虫との違いはかなり明確で、筆者は昆虫とそうでない虫を区分する垣根というものを学習しました。そしてその後の学習で、昆虫の中にもたくさんのグループがあることを知り、それぞれを垣根で区分することを覚えました。
 学校に通うと、これまで筆者が走ったり歌ったり、見たり数えたりした遊びは、体育や音楽、理科や算数というもに区分されるのだと教わり、筆者の頭の中で垣根がどんどん増えて行きました。垣根を正しく作ることが学習すること、つまり学習とは分類なのだと、おとなになってから思うようになりました。

 正確な分類法を知ることこそが、ものごとに精通することであり、学習とはまさに垣根を作ってものごとを区分することなんですよ。分類するということはものごとを本質的に観ることでもあります。昆虫学に精通していない人にとっては、アブとハチのちがいは明確ではないかもしれませんが、精通している人にとっては両者はまったく別系統の動物です。ヘビとチラノザウルスはまったくちがう動物に見えますが同じ爬虫類ですし、小さなトカゲとイモリはよく似た形なのに、トカゲはヘビやツラノザウルスと同じ爬虫類ですし、イモリはサンショウウオや帰ると同じ両生類です。動物の分類に精通している人は、見かけではなくその本質で動物を区分することができ、できない人よりもその道にかけては多くを学習していることになります。
 粘土で造形することと、ある種の和菓子作りはよく似ていますが、その本質と目的は異なります。粘土細工では造形に適した素材選びが重要ですが、和菓子作りでは味覚や衛生面も知識も必要になります。完成品がひじょうによく似ていたとしても両者の間には明確な垣根が必要です。

 学習をあるていど習熟すると、既製の知識や考え方に疑問が生じるようになり、自分の持てる知識と洞察力で本質に迫ろうとします。そこからが研究ですね。人知は人々の研究の積み重ねによって延々と塗り替えられます。学識と技術に最終形態はありません。もっとも確からしい学識は最近の学説のように表現され、もっとも進んだ技術は最新技術と表現され、今のところもっとも信頼できもっとも機能的であるものとされるのであって、今後も研究と開発、学説の更新は続いて行きます。
 学習では、とどまることなく変化(進歩)してゆく知識や考え方のいずれかを学ぶのであり、人はそれを頼りにものごとを考察するわけです。そして研究が知識や考え方を塗り替えます。塗り替えた知識や考え方を、後輩が学習します。
 人は科学者や識者ならずとも研究をします。そしてそのことは分類の見直しであり枠の破壊であると筆者は思うわけです。破壊というと過激ですが、構築に対する対語として用いています。物事を自分なりに判断するだけの知識を習得した者が、目の前の垣根のあり方を再認識し、より適切なものを見いだそうとするのです。よく、常識や既成概念に捕らわれず、斬新な考え方を持とうなんて言われますが、そんなもん程度の差はあれ誰でもやっていることだと、筆者は思います。
 小さな創意工夫、道具の流用、作業の効率化、そうしたことこそが研究の成果であり、枠の破壊です。これまで食器としてのみ使われていたものが、工具として流用するとひじょうに作業効率が向上した、そういう工夫が積み重なって新しい製品も生まれます。

 優れたアイディアをたくさん出す人は、ユニークで斬新な考え方をし、常識や既成概念を常に疑っている人なのでしょうか。常識に捕らわれないことが優れたアイディアへとつながるのでしょうか。筆者はそうは思いません。むしろ常識や既成概念を充分に習熟すること、素直に学ぶことがそこから脱して新たな考え方に到達する道なのです。
 学習は枠の構築であり、研究はその破壊です。それは誰でもやっていることであって特別なことではありません。常識や既成概念にとらわれないこと、とりあえず疑ってかかること、それはしっかり学習した結果自然に生じることであって、逆らうことを考察の姿勢とするのは本末転倒というものです。知識の習熟もなく独創的な考え方をすることに専念しても、新しい発想を産むことはできません。
 変わり者を自認したがる人ってよくいますよね。他人をあまり尊敬せず、常識をあざ笑い、自分がそれはそれは個性的で独創的であると吹聴する人、そういう人が優れたアイディアを出したのを筆者はあまり見たことがありません。あるいは、アイディアマンとして有名な人が、常識や既成概念に常に逆らっているように言われることがありますが、充分な知識の習熟もなしに常識に逆らったとしても産むものはないと思います。やはり学習と努力の結果、斬新な研究とその成果に至ったのだと思います。

 小説などの新人賞募集記事に、既成概念にとらわれない独創的な作品を期待する、なんてフレーズをよく目にしますが、応募する新人作家たちが独創性にこだわるばかりで基本的な精進をおこたるとしたらイヤだなぁ、なんて思ってしまいます。独創性は精進の結果として身に着いてくるべきものなのになぁ、そう考えるのは消極的すぎますか。

引き寄せの法則?

2014/01/26


 最近になって「引き寄せの法則」というおもしろい考え方を知りました。その基本となるのが、自分に起きる出来事は、自分の思ったことからしか起こらないという考え方なのだそうです。つまり身の上に起こる出来事は自分が思い抱いたことに起因しているというわけです。事故や病気が自分の思ったことだと言われたら反対したくなりますが、思えばかなうということが現実味を帯びてくるのだとすれば興味深いですよね。
 これはビジネスに成功する方法として紹介され有名になったのだそうです。関連記事をネットであれこれ調べて見なすと、なんかすごいことが書かれてありました。世界人口の1%以下の人が、世界全体の95%以上の富を独占しており、その成功者はみんな気づくと気づかざるに関わらず引き寄せの法則を実践しているというのです。
 自分は成功したいと念ずるのではなく、そうなることを信じて疑わないことによって成功が自分の身の上に起こるのだそうです。成功せず、人生の勝ち組になれない人というのは、信じる力が足りないのでしょうか。
 人間社会はとかく経済的尺度で計られます。経済効果が高いほど価値があり、経済効果を産まないものは価値がないとされます。しかしながら、経済なるものは流動し続けるもので、その原動力は人間の生活つまり文化のはずなのですが、その文化がことごとく経済的な価値観で計られ評価されるのが現状です。でも本来、経済というものはお金の流れであり、お金というものはもともとモノの価値を数値化したものなのです。原始の経済は物々交換で、それぞれのモノの価値を数値化して便利にしたものが貨幣です。Aさんが油を持っていてBさんがそれを欲しいのだけれど、Aさんが欲しがっているリンゴをBさんは持っていない。しかし経済に貨幣というものを使えば、Bさんは貨幣とAさんの油を交換でき、Aさんは得た貨幣でリンゴを持っている人からそれを交換できます。貨幣はものの価値を計る単位に過ぎないはずなのです。
 それなのに、貨幣のやりとりに利息が生じたり、株式市場で証券というものに変じてその価値が変動したり、国ごとに価値の異なる通過をやりとりすることで、差益や差損が生じたりといった、本来ものの価値を計る単位に過ぎなかったものが独り歩きを始め、お金は持っている人の所に集まる仕組みが出来上がり、正義は失墜し世の中が交配する様になりました。財産が、その人の生産性に応じて配分されなくなってしまったわけです。
 経済的に混濁した人間社会において、引き寄せの法則とはどのように働くと言うのでしょう。自分は金持ちになると信じて疑わなかったらそうなるのでしょうか。なんだかよく判りません。

 それなのに筆者がこの法則が気になり、興味を覚えたのは、それによって経済的な勝ち組になれる可能性を信じたからではなく、引き寄せという現象自体を我々が経験しているように思えたからです。
 筆者は、ご存じの通り幼少の頃から生き物が好きで、多くの動植物と接することを強く夢見てきました。生き物と接しない人生なんて考えられないと思うくらい強く夢見てきました。そのことと幼少の頃に手に入れた昆虫図鑑、虫好きな友たちとの出会い、大人になって筆者に外国産の昆虫を紹介してくれた友人と出会い、ペットトレードの業界のトップレベルの人と出会えたこと、それらはまったく無関係だったのでしょうか。類は友を呼ぶのことわざにもあるように、無意識のうちに同業者と出会う機会が増え、機会が増えるごとに出会いも質の高いものへと進歩していったような気がするのです。出会いは人ばかりではなく、前述の昆虫図鑑をはじめ様々な良書や優れた情報ともであいました。おかげで、自分でもびっくりするくらい多くの動植物と接する経験ができました。
 筆者はまた、アニメや文学にも興味があり、高校時代にはクラスメイトと共に小さな同人誌を作る様になり、それが社会人になってから自費出版の同人誌作りへと発展したのですが、その時期にワープロなる文明の利器が一般化し、同人誌専門の印刷所というものが増え出し、コミックマーケットという市場が開発されました。これらの出来事と出会わなければ、筆者の同人誌活動はどうなっていたことでしょう。
 それから世はネット時代を迎え、様々な動植物と接する機会、様々な人やその知識と出会う機会はどんどん増え、筆者のナチュラリストライフはたいへん充実したものになりました。
 筆者は、やりたいと思ったことは絶対に実行するという信条を若い頃から持っていました。筆者ごときが思い抱くやりたいことなんて、偉人たちからするとたいへんちっぽけなもので、たとえばカブトムシを自家繁殖させるとか、全国から同士を募ってオリジナル創作の同人誌を刊行する会を作るとか、将来は山岳地に居を構えて自然を身近に感じるところで過ごすとか、世界の珍しい獣虫類を飼育するとか、その程度のことですが、それらの事柄でも筆者ひとりの力ではかなわぬ夢で、相応の機会や人との出会いがなければ実現しませんでした。あの時、あの人と出会わなければ、あの時、あの本を見つけられなければ、自分の思いは実現しなかっただろう、そんな有り難い偶然を筆者は山ほど経験し、そのおかげで夢をかなえてきました。思いというものは引き合うものなのかな、そんな感覚を若い頃から持っていました。筆者が引き寄せという語句に気を取られたのはそうした理由からです。
 人は、思いがなければ重要な事柄と出会っても見過ごしてしまうでしょうし、大切な友との出会いも果たせないでしょう。また、思いがあれば出会いや機会は向こうからやって来るものなのかもしれません。
 引き寄せの法則と、筆者が思い描く引き寄せ効果とは、意味合いがずれているのかも知れませんが、まったく異質なものでもない気がします。引き寄せの法則とは、経済的に豊かに幸せになるための法則なのだそうですが、だからと言って念ずれば宝くじが当たるとか、思わぬ遺産が転がり込んでくるとか、そういうことではないでしょう。念ずれば自分の欲する機会や出会いを見逃さず、それによって自分が成長し、社会的影響力を持つほどの力を発揮する可能性も出てくる、といったことなのではないでしょうか。

 古来より日本人は縁というものを大切にしてきました。出会いを大切にするという考え方の裏にも、引き寄せ効果に通ずるものがあるような気がします。
 引き寄せ効果はまた、個人的なものではなく、大勢の人の思いをも叶えるものでしょう。絶対君主が支配する大むかしの政治形体からどんどん民主化が進んだのも、大洋を渡る技術を獲得したのも、電波の利用によって遠隔地間の同時通話が実現したのも、ネット社会が構築されたのも、人々の思いが技術革新を産み新しいシステムを世にもたらしたのではないでしょうか。
 筆者が幼少の頃に、どこかの秘境に棲む珍獣と言われていた動物が、今では身近なペットになっています。筆者が手書きで同人誌を作っていた頃は、ワープロのような機械が発明され安価でハイクォリティな簡易印刷が現実のものとなるのは、遠い未来のことだと思っていました。これらの革新も人々の思いがなければ、遠い未来のことのままだったかもしれません。筆者がワープロを手にしたばかりの頃は、キーボードをスラスラたたくと周りから感心されました。今ではパソコンを使えるのは人として当たり前で、小さな携帯端末で写真や動画入りの記事を作成するのも常識です。新しい技術が登場したばかりの頃には、万人がこれを使いこなし、普及して安価で日常的なアイテムになるのはいつのことだろうと不安になるものですが、たちどころにそれは実現してしまいます。
 もしも世の中に引き寄せ効果のようなものが存在せず、出会いや巡り合わせのすべてが偶然でしかないのだとしたら、世の中の変化はこれほど目まぐるしくなかったかもしれませんし、それに人々が着いて行けなかったかもしれません。人々がついてゆけなければ、変化は現実のものとはなりませんし。また、引き寄せ効果のようなものが存在しなかったら、人類の文明は今日まで続くことなく戦争で滅んでいたかもしれません。

 引き寄せの法則は、宇宙の法則のひとつでもあるそうです。そうだとしたら、地球という星で生命が誕生し、数々の天変地異にも耐えて人類にまで進化するようなこともなかったかもしれません。進化がすべて偶然の選択によって推進されるものだとしたら、それこそ地球の生態系は今日まで滅びることなく続いただろうか、なんて思うわけですよ。
 思いの実現というのは、ひじょうに遠いことのように感じますし、それこそ宝くじにでも当たるような幸運に恵まれないと無理なことのように感じますが、思わなければ、信条を持たなければ出会いも訪れないし幸運もやって来ないのかもしれませんよ。

酒と煙草とギャンブル

2014/03/04


 最初に断っておきますが、本項は18禁です。大人の分別でお読みください。未成年者にあけすけにできない大人の事情というのは、しばしば矛盾を伴いますが、そこは読者の大人としての思慮で消化してください。酒や煙草やギャンブル、あるいは性風俗産業について、筆者の個人的な感慨を書きますが、それで筆者が過度の偏見や危険思想の持ち主だとか言われても困ります。筆者は温厚で革命を望まない、虫や小さきものを愛でてほくそ笑んでいる、子供の心のままのじじぃなのですから。
 酒や煙草やギャンブルに対して、筆者はあまり好意的ではありません。それらに溺れると心と体の健康を害しますし、財産を無駄に失うことになります。それらを未成年者に勧めてはいけないことは当然です。筆者のように大人になれないオタク人間は、酒や煙草やギャンブルには大いに泣かされました。それらを嗜まないことで半人前扱いされ、蔑まれ、けっこう手痛い罵倒を浴びてまいりました。しかし一方で、自分がそんな境遇に在ることの意味も理解しており、大人の遊びをする者がしないものと自分を比較して、あいつに比べたら自分の方が大人だ、常識的だ、一人前だと安堵する気持ちもよく解ります。なので自分を罵倒する周囲の人たちを憎む気持ちはあまりなくて、それらを大人の証とする風潮が憎らしかったです。酒や煙草やギャンブルがなければ、世間の風当たりはもっと優しいだろうに、そんなふうに感じていました。
 では、筆者も喫煙し、酒を飲む努力をし、競馬場やパチンコ店に足を踏み入れれば、安息が訪れたのでしょうか。その選択はありえませんでした。どうありえないかと言うと、オタクならぬ男性が着換え人形を買いに行く勇気が持てないほど、一般人がサソリの出産を見て大喜びできないほどにありえないことでした。誰だって嫌いなこと、嫌いな食べ物ってあるでしょう。それと同じです。筆者にとってそれらは嫌いなものなのです。むかしは男子の喫煙は常識的でしたから、強引に勧められて喫煙したこともありますよ、何度も。でも美味いと思ったことはないし、自分で煙草を買ったこともありません。会社のお付き合いでは酒が付き物でしたから、宴会にはよく参加しました。乾杯の最初の一杯は我慢して飲みましたし、オケツが腫れ上がって手術するほど中ハイをあおったこともあります。ゆっくりちびちびペースならカクテル系くらいなら数杯は受け付けます。でも、残念ながら酒が美味いと思ったことはありません。洋酒の効いたデザートやウイスキーボンボンは美味ですが。それでも付き合いに応じるのは、野菜嫌いな子供が親にピーマンを強要されるみたいなものですね。社会がそういうものならば、耐えることも必要でしょう。ギャンブルに関しては、酒や煙草よりもさらに無縁でした。先輩に連れられて若いころにパチンコ店に行って、なにやら菓子類をたくさんもらって帰りましたが、全然楽しくなかったです。
 それでも、酒や煙草やギャンブルがこの世からなくなればいいとは思いません。それらが社会人として一人前の証であり、それが苦手な自分を悲運とも思いません。人間社会にはイヤなこと苦手なことがあるからこそ、人は考え深くなりますし、自分の得意なこともいっそうはっきりするものだと思います。酒や煙草やギャンブルの存在ごときで試練になるなら、お安いものです。
 それに筆者は、酒飲みや喫煙者に報復する愉しみも知っています。どんな手くだと屁理屈を弄してやつらをぎゃふんと言わすのかについては、ここでは触れません。どうしてもっていう方には個人的にレクチャーしましょ。と言っても役に立つとは限りませんよ。ケンカは時の運ってこともありますし。ギャンブラーについてもしかりですが、意外にも彼らに感心させられることもよくあるんですよね。ある競馬好きの方が、傾向と対策をノートにびっしり付けていました。あれは素晴らしかった。どうせやるなら研究者の域までやってもらいたいと思いました。パチンコの台を買ってきて家で研究している人の話しもおもしろかったです。そして不思議なことに、ディープな研究家は身を滅ぼすほどのめりこまないようなのです。そんな芸当ができるんですね。

 ある映画で、ギャングの親玉がこんなことを言ってました。「ギャンブルや売春を法で認めないのは当然だ。だが、それらは市民が欲してやまないものだ」なるほどな、と思いました。人間には必ず二面性というものがあって、社会に貢献する素晴らしい行ないをする反面、人知れずエロくてグロい趣味を持ってるみたいな。非合法な商売を牛耳る裏社会の人たちは、そういう世界の担い手であったりします。裏社会というと何だか殺伐とした暴力の臭いを感じますが、それは映画をエキサイティングにするためのデフォルメというものですよ。
 筆者が中学生くらいの頃、まだチビッコチビチビだった弟を連れて天神祭りに行った際のこと、綿菓子を物欲しげに見つめる弟に対して、お店の兄ちゃんが強引に商品をつかませて高額を請求しました。筆者が恐怖と怒りに絶句していると、強面ですごい色彩の背広を着たヤクザ屋さんが降って湧き「ワレ、誰に断ってあこぎな商売しとんねん」とお店の屋台を蹴飛ばし、弟の頭をサラリとなで、中坊の筆者に向かって頭をさげ、「失礼しました。お代はけっこうです。どうかお気を悪くなさらず、祭りを楽しんでくだせぇ」なんて強面に笑顔を浮かべました。
 筆者の小伜(こせがれ)が幼稚園未満くらいの頃、公園の屋台でヨーヨー釣りなるゲームに興じていた時のこと、ものの道理を解さぬ小伜は、釣り具の針金部分を直接つかんで水風船をせっせと釣ってザルに盛りつけておりました。本来紙の部分を持ち、それが水で溶け切れぬ間に風船を吊り上げてみせよというゲームなのですが、針金部分を持っていたせば、そりゃいくらでも釣れるわけさ。そのあくどい不正行為をジトーッと見つめていた屋台のおやじこと頬に傷があり露出した手首からモンモンがのぞいておりは、ザルが水風船で山盛りになった頃合いに、「ぼん、それくらいにしとき、それ以上釣られたら、おっちゃんの店つぶれてしまうよってにな」とのたまったのです。で、好きなん2つ持って帰りや、と強面に笑顔を浮かべました。筆者は感動のあまり涙で前が見えなくなりました。
 筆者が新米の駅員の頃、入場の際に切符を放り投げて行くおっさんに、切符は降りる駅で渡してくださいと声をかけたならば、そのおっさんのげんこつがいきなり飛んできて、同行したグラサンの兄ちゃんに髪の毛をむしられました。おっさんのラメ入りシャツのえり元からは龍の彫り物がのぞいていてなかなか綺麗でした。こっちは親切で言ってるのになんでしばかれなあかんねんと頭に来ましたが、そのあとグラサンの兄ちゃんが「おじき、こいつ悪気あるとちゃうで」とおっさんを制し、筆者に向かって「客が暴れて困ったらいつでも呼べよ」と笑って去って行きました。今から思えば、筆者が乗務員時代に仕事で失敗して、会社から3週間以上の日勤教育を受けた時の方が100倍恐ろしかったし理不尽でした。いつの間にか上司になってやがった同期生や後輩から受けた指導的教育と称されるものは、陰険で卑劣で殺意さえ感じら、それはもう耐えがたいものでした。そうだ、あの時のやくざの兄ちゃんを呼ぼうと思って魔法の笛を吹いたのですが、兄ちゃんは筆者のSOSに答えてはくれませんでした。もっとも、駆けつけてくれたら腰が抜けますが。

 非合法な世界に生きている人たちは、理由もなく恐ろしいわけではありません。場合によっては合法的な社会人の方が、はるかにデタラメで悪意に満ち、集団暴行等の卑怯な行動に積極的です。筆者が受けた日勤教育では、物理的な暴力はありませんでした。それは奴らが卑怯者で自分の不利になることは避けたおかげです。代わりに虚偽と恫喝、侮辱と人権侵害という集団暴行が毎日続きました。
 非合法なもの、表社会ならざるものが悪というのは、合法的な営業をしている者の自分本意の言いぐさにすぎません。こういうと筆者がヤクザ屋さんの味方か、あんて揚げ足取りをするのは、筆者の勤める会社の上司くらいなものだと思いますが、人間社会に貢献するものと私欲のために裏切るものとは、合法・非合法に関係なく存在します。合法的ルールの多くは経済優先の考え方であり弱者に辛辣です。
 ギャンブルや性風俗産業は、健全な社会にとっては汚れたものですし、それらを歓迎する社会というのも考えられません。しかしながら、ギャンブルや性性風俗のまったく存在しない社会というのも考えるのが困難に思われます。
 筆者は男子ですので、女性の性徴を売物にするような性風俗産業に好奇心を抱く男子の気持ちはひじょうによく解ります。そんなものにまったく興味がない、性的欲求は嫁さんとのみ夫婦の秘め事として発露すべきものだ、なんておっしゃる方はあまり信用できない気がします。かつまたオタク女子がBL(男性間の同性愛)好きとかおっしゃるのを汚らわしいとも思いません。BL文化は男子本意の性風俗文化と並んで奥深く歴史あるものです。
 ギャンブル性や性風俗文化の要素は、表社会にも通ずるものがあります。株や宝くじには多分にギャンブル性が含まれますし、アイドル産業や種々のサービス業に性風俗文化的要素が含まれると申しましても、大人的判断からは一概に否定されることもないでしょう。男性アイドルの写真を自慰のおかずにする女子が変質者ってこともないですし、可愛い看板娘に魅せられて飲食店に赴く男子が不潔ってことにもならないでしょう。
 ギャンブルや性風俗産業が、犯罪の抑止力になってるなんて極論を言う人も少なくありませんが、それも否定できないと思います。ヨーロッパでは、ホラーやオカルトを犯罪抑止のための大人向けの文化として奨励したこともあるそうですが、虚構の中の暴力や猟奇的なシーンはエキサイティングですし大いに魅せられます。
 人間の二面性というものから目を背けることなく向き合い、それをきちんと使い分けるということも大人の分別です。筆者の知り合いには、暴力シーンの多いゲームや、銃器や兵器が大好きな平和主義者がたくさんいますし、逆にそうしたものを不健全であるとして否定しながら、家族に暴行を働いたり会社で部下にパワハラ三昧っていう社会人もたくさん知っています。
 残忍な暴力を扱ったゲームや映画は、近年ますます増えておりますし、AVと称されるビデオ映画も過激さを増すばかりですが、多くの評論家が指摘するようにそれが暴力や性犯罪を増長させているわけではありません。技術が向上して報道が派手になり、若者による犯罪事件が過激に演出されますが、犯罪の割合はむかしの方が多かったです。
 マネーゲームと称して、格差社会を増長させ貧困を拡大し、着々と戦争の準備をする政界財界の振る舞いは合法です。個人による殺人は重大犯罪ですが、政界財界の指揮の下に行なわれる大量虐殺は国益のために必要とされ多くの英雄を産みます。英雄の多くは墓石の下で敬意を獲得します。最近は平和ボケという言葉もあまり使われなくなりましたが、一頃は戦争のあった頃は平和ボケ社会ほど犯罪者や変質者はいなかったと言われることがありました。平和ボケとは何でしょう? 犯罪や変質者がヒマなマスコミによって過大に報道される社会よりも、戦争によって国を挙げて人殺しをする方が望ましいというのでしょうか。同じ人間を敵と称してハンティングし、敵地の婦女子に暴行を働くことの方が、壮絶な犯罪であり変質者的行為だと思うのは筆者だけでしょうか。
 人々の暮らしにとって何が必要で何が不要なのか、それは人それぞれの立場によって異なります。筆者にとって酒や煙草やギャンブルは無用のものですが、それ求めてやまない人はたくさんいます。性風俗産業は、女性蔑視や、性行為やその嗜好性に対する誤解を招くことにつながりますが、これも多くの市民の二面性として求められます。虚構の中の暴力や猟奇的な表現は、それを好まない人にとっては怖くて不健全なものですが、そうした作品を嗜好するけれど良識ある行動をとり、社会に大きな貢献をしている人も少なくありません。戦争や軍備は、市民生活を圧迫し破壊するものですが、政界財界の人間、つまりごく一部のエリート族にとっては必要なものであり、その必然性がマスコミによって報道されます。
 人々の暮らしにとって何が必要で何が不要なのか、それは難しい問題であり尽きることなく議論は続くのですが、求めることは変わりないのに、社会的な立場や性差、年齢差によって求め方がずいぶんと異なり、議論は論争となり仲違いを招き、しまいにうんざりしてしまいます。さりながらこうした問題からまったく目を背けていられるものでもありません。
 筆者も、ここで1つの定まった答えを出すことはいたしませんが、どのように考えているかについては、おおむにこの駄文の中に盛り込んだつもりです。また結論を急ぐべきことがらでもないと思われます。すべての議論や考え方に結論が必要であるとするのは、時として短絡的な思慮に陥りがちです。流動し続ける思考や論議こそが重要な場合もあるのです。みなさんはどう思われますか?

悪意の報道

2014/03/11


 マスコミというのは、マスコミュニケーションのことですが、そもそもそれってコミュニケーションでも何でもないような気がします。世の中を経済本意あるいは政治本意に回すための情報操作をするのがマスコミの役割のように、筆者には思えます。そしてこの思いは多くの一般大衆の感慨と遠からぬものではないかと思っています。マスコミの報道は、確かに真実を伝えています。でも政府にとって不都合なことは伝えなかったり、脚色が行なわれたり、あるいは経済的な有利性を配慮した演出や表現がなされたりしがちでしょう。
 筆者の周りの人たちも、その多くがマスコミは汚いとか、ウソの報道が多いとかよくおっしゃいます。マスコミが世の中を腐敗させる元凶なのという過激な発言もしばしば耳にします。マスコミというと、新聞社や雑誌社が刊行する出版物、あるいはテレビ局のニュース報道、ラジオの報道、今ではネット上に配信されるニュースなどですが、それらがウソで満ちあふれているとしたら、世の中はわやくちゃです。意外かもしれませんが筆者はマスコミの報道や他聞を信じ込みやすい方です。びっくりニュースとか、そんなわけあるかと、最初から疑ってかかっていては面白くもなんともないじゃないですか。信じてだまされることも少なくありませんが、とりあえずは事実として聞いてみることから始めます。あとでウソだと判っても、大きな被害を被ることもあまりないですし。
 事故や事件の報道の多くは真実です。真実を直球で伝えすぎて弊害が生じることもあるくらいです。たとえばインタビューされる側が何気なくもらした失言を、重要な発言として報道されてしまったりとか。
 マスコミは世間の常識や流行を担う重要な役割を担ってると言えます。新聞に間違った表現が繰り返し記載されれば、それが正しい表現として世間に認知されてしまうことにもなりかねません。最近はインターネットという迅速な発信手段があるので、誤りが常識になる前に正されることも少なくありませんが。
 マスコミは、そのほとんどが営利企業によって運営されています。報道の自由が保証されており、報道される側が実害を被らない限りなんでも報道してしまいます。他社より先んじて新鮮な情報を発信した方が大きな儲けにつながります。ところが、今はネットにアクセスできる端末を誰もが持っている時代なので、新鮮なネタの価値がどんどん下がりつつあります。マスコミ各社も大変です。
 マスコミが営利企業によって運営されている限り、報道媒体がより大きな儲けにつながらなくてはなりません。同じ事実を伝えるにしても、売れる内容にしなければ商品としての価値が下がってしまいます。同じ事件報道でも多くの人々の興味を引く表現をしなければならない、それがマスコミ人の本音でしょう。

 ゴシップやスキャンダルが好きです。他人の不幸は蜜の味とも言われるほどです。でも、過ぎたるは及ばざるがごとしで、過大なゴシップ(興味本位の風聞)やスキャンダル(醜聞)にはうんざりしてしまいます。マスコミが社会の腐敗の元凶とまで言われる理由が、おそらくそこにあります。
 たとえばニュースで少年による殺人事件が報道されたとします。それは信頼に値する真実の報道です。それすらも大衆の興味をそそるためのウソだとしたら、マスコミ報道の商品価値は逆に低落してしまいます。イソップの「狼と羊飼い」のように真実さえも信じてもらえなくなりますから。少年による殺人事件は実際に発生した真実なのですが、それを表現するにあたり、マスコミのよこしまな脚色が入ります。すなわち犯人である少年を過大に悪者にして大衆の心理を揺さぶり関心を引きつけるという操作がなされるわけです。少年は口論から逆上して思わず刃物をつかんでしまったのかもしれないのに、刃物を手にし致命的な傷を負わせるというひじょうに残忍な手口で惨殺したという脚色がなされます。少年は刃物で威嚇し、相手をひるませようとしただけかもしれません、あるいは刃物でも持たなければ勝ち目のない相手だったのかもしれません。刃物を持つほどの情念を示すことによって相手が攻撃の手をゆるめてくれれば事件になどならなかったのかもしれません。それが間が悪いことに、相手がいっそう怒り狂ってしまい、恐怖に駆られて刃物を振り回したところたまたま相手の急所にそれが命中してしまったのかもしれないのです。マスコミは情報に商品価値を上乗せするために、単に刃物による暴力があり、そのことが致命傷になって被害者が死に至ったとは記述せず、ひじょうに残忍な手口で殺害したと表現するわけです。
 これだけではまだ商品価値が低いと考えるマスコミは、最近の少年犯罪というデータを引っ張りだしてきて、ここ数年間にこれだけ数多くの少年による惨殺事件が発生している、などと報じ、その深刻さを訴え、少年犯罪の低年齢化、武器を携帯する少年の増加といったことにまで言及します。少年犯罪の背景に何があるのか、戦争と無縁な環境に育ったための平和ボケか、アニメやゲームの過激な暴力シーンの影響か、といったもっともらしい原因究明を列挙し、大衆の興味をそそろうとします。
 少年の武器の携行が増加したというのは、過激なマスコミ報道のせいかも知れません。少年犯罪が増加したというのは、犯罪の報道件数が増えたということかも知れません。いずれにせよ、社会の大多数の少年は健全な生活を送っています。筆者の家のご近所にもたくさんの少年少女が住んでいますが、時代と共に彼らの風紀が乱れたといった様子は伺えません。筆者の目や耳に届くのは、少年少女による流行語の話題や、独自のファッション、あるいはボランティア活動といった健全で建設的なことがらばかりです。ところがそうした健全な少年少女はマスコミには用がありません。商品価値がないのです。異例中の異例を見つけ出し、それが犯罪といった衝撃を伴うならば、これはもう恰好の商品であり、それにどんどん脚色を加えて行きます。少年犯罪が異例中の異例であるにも関わらず、「少年による犯罪はここまで来た」とか「最近の少年たちの犯罪事情」といった、少年イコール悪のような脚色を行なって大衆の興味を引こうとするわけです。
 大多数の少年たちが、夢と希望を持って頑張っているのに、それには触れずに、少年犯罪の恐ろしさ残酷さといったことをPRし続けます。それを大衆が単なるネタとして一笑にふしてくれれば良いのですが、いい年をした大人たちが「最近の少年は恐ろしい」とか「何を考えてるのか解らん」とか、どこで聞き知ったかしりませんが「平和ボケ社会がだめなんだ、戦時中にはこんなバカはいなかった」なんていうセリフを口にするのを見ると、ぞっとします。いい年をした大人たちが、分別というものも知らず、マスコミ報道を真に受け、のうのうと少年たちの悪口を言うのには本当に腹が立ちます。異例中の異例の少年殺人を引き合いに平和社会を批判し、戦争による国を挙げての大量殺戮の時代の方が良かったなどと、正気の人間の言う言葉とは思えません。
 揚げ足取りじゃないですが、ごくわずかな悪例を引き合いに、少年たち全体を罵倒する愚かな大人たちの存在が嘆かわしいです。そんな無能で無責任な大人たちの少年たちに対する批判を許している社会が情けないです。
 ニュースキャスターは、まるで正義漢のように紳士的な動作で、最近の少年犯罪事情などといった言葉を吐きますが、筆者にはそれが下品で俗悪な愚行にしか見えません。紳士づらの裏に醜くいやらしい興味本位の欲望が見えます。これは筆者の個人的な感想であり、ニュースキャスターの方にしてみれば心外でしょう。彼らは真面目に報道しているのでしょう。しかしながら真面目に報道したからといって、その悪影響に変りはなく、その言い分とは裏腹に大多数の少年少女が健全に暮らしているのです。そして無責任な報道が、分別のない愚かな大人たちのオツムを汚染し、少年少女たちに偏見という迷惑をかけているのです。

 大衆というものは、マスコミが考えるように、他人の不幸にしか興味がないのでしょうか。少年少女たちが社会貢献したり、地味な努力を重ねることに興味がないのでしょうか。そうした人間の健全な姿こそがカッコイイ、取り立ててヒーロー扱いすべきだ、という発想にはならないのでしょうか。当たり前のことを当たり前にできる、そこにも感動はあります。別項でも述べましたが、社会の大多数の人々が、良識を持っているおかげで、駅の自動改札やスーパーマーケットのセルフサービスが成り立っているわけで、こんなに大勢の人間がいる中で、少々の悪さは見つからないのに、大多数の人々にはそれを善しとしないプライドがあります。その当たり前が大きな大きな力となって社会が成り立っている、それって感動的じゃないですか?
 少し前の話しですが、ネット上の報道で、外国人が、日本人が交通信号を守ること、落とし物をきちんと交番に届けることに驚いているという記事を目にしました。これはクソ真面目な日本人を愚弄する報道だったのでしょうか。筆者には称賛の記事に思えたのですが。あるいはマスコミの常識からすると、こんなことは直ちに改め、信号は無視し、落とし物は着服するべきなんですかね。だって、日本人が善意に満ちていたら、そのうち悪意の報道に目を向けなくなるかもしれませんよ。

スポーツのこと

2014/03/13


 昆虫少年だった筆者は、幼少の頃からスポーツというものが好きではありませんでした。バレーボールの試合など、大きなボールを近距離で相手に叩きつけるなど、見ていて怖かったです。そのくせプロレスの試合は父と一緒に嬉々としてテレビで見ていましたし、ボクシングや空手もカッコイイなぁと思えました。もっとも自分が格闘家になるなんて絶対にありえませんでしたが。
 球技は苦手でしたが、出歩くことは嫌いではなく、小学生になるとすぐに自転車に乗るようになりました。自転車は筆者の幼少の頃からの愛機でして、この素晴らしい乗物は筆者を遠くの世界にまで運んでくれました。大人になってからはスポーツサイクルを手に入れ、通勤や旅行に活用しました。
 小中高と学校時代の体育の授業は苦痛でした。各種球技にマット運動、水泳、どれも苦痛でした。体育祭へ向けての連日の練習など、刑務所にでも放り込まれた思いでした。屈辱的な時間が過ぎるのをひたすら耐えるだけが体育の授業でした。高校は進学校でしたが、体育の成績も進学査定の対象であると聞かされ、大学はあきらめるしかないなと思いました。そうなると体育以外の授業も無駄なので、読書や映画、同人誌作りに尽力するようになり、学力は低下の一途をたどりました。
 社会人になってからもスポーツに目覚めることはありませんでしたが、サイクリングや山歩きは子供の頃からの延長で続いていました。より遠くより高くを目指しました。
 オリンピックや野球の中継で、種々のスポーツの試合を見てまいりました。自ら進んで観戦することはほとんどありませんでしたが、見るとけっこう楽しめます。野球のルールは一通り覚え、一頃はプロ野球のペナントレースの行方を興味を持って見ていたこともあります。多くの球技が相手エリアまたはゴールにボールを叩き込む競技であるのに対し、野球は投手の球を打ち返し、守備が返球する前に進塁するという他とはかなり異質なもので、そのユニークさに感銘を覚えました。
 高校卒業の後すぐに自動車の運転免許を取得しましたが、モータースポーツには心を揺さぶられました。球技には体の反応が追いつかないものの、車の運転は面白く、親に初めて買ってもらった軽自動車以外2台目以降はずっとスポーツカーを愛用してまいりました。自転車通勤よりもはるかに多く車通勤を続け、車の操縦はかなり上達しました。
 鉄道会社に就職して4年間の駅員生活のあと、乗務員になって27年ばかり電車に乗ってまいりましたが、電車の操縦はしばらくすると飽きましたね。車に比べると行動の自由度が低すぎます。その乗務員生活において、筆者はどうしたことかスポーツに目覚め、会社のテニス部と陸上同好会のようなものに入部しました。後者は誘われてお試しに入ってみたのですが、前者は自ら進んで入部しました。
 スポーツでもとくに球技が苦手な筆者は、テニス部ではひたすら赤恥をかいて過ごしました。最初は近距離からそっと放ってもらった球を空振りして、周りを笑わせていました。それでも年数を重ねるうちに何とか試合ができるようになり、面白みもわいてきました。会社のテニス部はかなり技術的にレベルが高くて、ABCの3つのランクに区分されていましたが、何年もかかってひじょうに遅ればせながらCクラスで優勝してBクラスに上がった喜びはとても大きかったです。次の判定試合であっさりCクラスに転落しましたけども。
 10年以上続いたテニス部生活では、強化練習合宿や対外試合といったいろんな経験をさせてもらいました。一頃はテニスが面白くて通常の練習日以外にも自主練習に励み、日夜スポーツに明け暮れるようなこともありました。鉄道の乗務員は変速勤務なので、仕事の前後に練習を入れることもできました。
 それでも、あとから入部してくる後輩に次々と技術で追い越され、ある時、後輩から「何が楽しくてテニスをやっているのか」というような質問をされたことがありました。インドア派の筆者が、似合わないユニフォームを着て無様にラケットを振り回す様は、スポーツマンには不思議な光景に映ったのでしょう。べつに特別な答えを用意していたわけじゃありませんが、筆者は「スポーツが苦手だからとそれから逃げてたら、人として経験できることの半分を失って損するんじゃないかって思ったもので」みたいなことを答えました。するとそれが彼の琴線に触れたようで、ちょっぴり感動していただけたようです。「苦手なことに挑戦するって、なかなかできないですよね。尊敬します」なんて言われてしまいました。

 それから阪神大震災がありまして、車内の労組の文芸サークルの編集をしていたこともあって、震災特集なんかで忙しくなり、そのままテニスからは遠のいてしまい、今はまったくラケットを握らなくなってしまいましたが、やはりテニスはやっていて良かったと思います。筆者みたいな不相応の者が参加することで周りにいらだちや迷惑を振りまいてしまったかもしれませんが、さまざまな恥ずかしい思い出が山盛りですが、後悔はないです。数年前から体力維持のためにスポーツジムに通い始めたのも、テニスの経験があったからこそです。この年までスポーツと無縁で過ごしてきたとしたら、今頃は成人病まみれのじじぃになっていたかもです。
 あと数年して企業定年を迎えたあとは、体力強化のためにもう少しトレーニングを増やしたり、有酸素運動を加えたりしていです。それとスポーツカーの操縦にも励みたい。
 現在の駅員の24時間勤務は、生活のゆとりがなさすぎます。日本人の平均的な労働時間は週に40〜45時間ていどでしょう。駅員は週に72時間拘束されますから、非番には生き物の世話をしたり、ブログを書いたり、映画を観たりが精一杯で、スポーツジムにもあまり長くは行けないです。短時間行くだけでも非番の午前中はつぶれますから。
 筆者のようなオタク人間には、スポーツが苦手な人が少なくないと思いますが、苦手なことにあえて挑むのも良い経験になりますし、またちがった人間関係が膨らみます。美男子ならぬ身では、どうせ生きてることが恥なので、苦手なことにも首を突っ込んで恥の上塗りをしましょう。恥をかいた分だけいろいろ学べるってもんですよ。恥万歳、恥最高。恥をかいて得をとりましょう。

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索引


目次

スネさん リーザさん けもの 庭虫
雑虫 クモ 直翅系 半翅系 膜翅系 鱗翅系 鞘翅目 毒虫 魚たち 無脊椎
両生類 カメたち 絶滅動物 くさばな 庭草 雑草 高山植物 飼育と観察 ヒト □飼育動物データ




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