1_萌萌虫雑記帳.png

人間界

 ヒトを観察するには、大きく2つの方法があると思います。人間という生き物の形態や生態を生物学に観ることと、人間の文化事情や科学技術、社会のあり方を観ることです。後者の方は人間そのものではなく、人というものがどのように考えて行動し、そのことが世界にどう影響しているのかということです。アリは群れで行動することで地中に広大な巣を築き、そのことで自然環境に様々な影響を与えます。人はまた自然環境の変化に順応あるいか対応するために様々な行動をとります。アリも同じです。このように人の文化や技術や社会を概観すると、それを生態と定義できるかもしれませんが、人の営みが他の生物のそれと決定的に異なるのは、営みのほとんどが本能ではなく後天的な学習に依るということです。
 ヒト以外の生物も学習しますが、後天的に学んだことや経験が習性に反映されて定着するには、何回も世代交代をしなければなりませんし、学習や経験は形質の変化つまり進化を伴います。長い世代交代の後にあるものは森林に適応し、あるものは砂漠に適応したとすれば、そこの形質の変化が生じ、生殖的な隔絶が生じます。つまり交配して繁殖能力のある子孫を残す同じ種でなくなってしまうのです。ところがヒトは様々な環境に適応放散しながらも生殖的な隔絶が生じていません。肌の色や体格にずいぶん明瞭な差異が生じるほど長い間お互いに別の環境で暮らしていても、すべてのヒト同士が同一種として交配し、正常な子孫を残すことが可能です。
 ヒトは、環境に適応するために自分の形質を変化させるのではなく、適応するための技術や文化を会得します。何十万年も異なった環境で別々に暮らしていたせいで肌の色や体格にかなりの差異が生じてしまい、先天的な環境への適応力さえ変化してしまったとしても、ヒトが再び出会えば、交配が可能であり、生まれた子供は双方の利点を受け継いだヒトになり、けっして種の劣化を招くようなことはありません。これは有性生殖の最も有効な活用法です。

ヒトの社会生活.

2014/01/09


 小動物や草花ばかりいじめていないで、たまには人間社会というものを観察してみましょうか。生物学的に言うと、社会生活あるいは社会性というものは、同一種が育児や群れの維持のために集合している習性を言うかと思いますが、ヒトの場合も同じで、ヒトという種が群れて大きなパワーを発揮している状態が社会生活です。ヒトは極めて社会性に適合した存在で、独りではひじょうに無力で、自然界で生きてゆくにはなにかと不利です。サバイバルの訓練を受けた人は長期間密林で独り暮らしをすることが可能かもしれませんが、そんな人でも気心の知れた仲間と群れていると安心感があるはずです。逆に人と一緒であることが苦手というケースでは精神的な欠陥を心配してしまいます。
 人間は、社会に所属することで安心を得ることができます。政治にどんなに不満があっても我慢して社会に停まるものです。人間は、社会生活を維持するためにいろんなことを我慢します。魅力的な異性が間近にいてもみだりに干渉したりしませんし、他人が美味そうなものを持っていてもそれを欲しがったりしません。社会生活は我慢の連続です。
 では、人間が理性という衝動抑止機能を失って、本能の赴くままに行動したとしたら、社会は崩壊してしまうのでしょうか。欲望の赴くままに異性を襲ったり、人のものを奪って食べたりするのでしょうか。この問いにイエスと答える人は少なくないでしょう。でも果たしてそうなのでしょうか。
 人間の歴史には血なまぐさい殺戮や略奪が付き物ですが、その多くがじつは個人的な暴走の集大成ではなく、宗教的あるいは政治的傾倒によるものです。

 人間がヒトに進化する以前から、祖先たちは社会生活を営んでいたはずです。現生の類人猿たちのように、育児しテリトリーを守り、大規模な集団生活をする種では様々な年齢の個体が共同生活しています。彼らもまた理性で欲望を抑えて暮らしているのでしょうか。
 社会を統べる立場にある人たちは、法と裁きがなければ民衆は暴走してしまうと信じているようです。多くの民衆もまたその考えに洗脳されています。しかし多くのルールが、一部の悪人のために設けられた縛りであって、世の中のほとんどの人たちは社会を維持するために必要な分別というものを持って自発的に行動しています。つい出来心で小さな悪事を働いてしまったからと言って、そのまま悪人に転向してしまうことは多くはありません。社会は一部の悪人のために法でがんじがらめになっており、過失によるルール違反さえも罰せられます。ただ、悪事というのは数が少なくても影響力が大きく、野放しにはできないもので、ルールや制裁をなくすことは難しいでしょう。
 社会を統べる立場にある人たちは、法と裁きによって民衆を制圧し、世の中を正しく維持しているとはいうものの、社会を統べる本人たちが欲に溺れて悪事を働いたり、民衆を戦争に導いたりすることがしばしばあります。現に国家レベルの競争や暴力は後を絶ちません。
 この様子を見て、人々は人間を愚かな存在だと言います。そうなのでしょうか。確かに人間は地球を瞬時に焼き尽くしてしまうほどの火器を製造してまで国家間でにらみ合っています。宗教的理由や過去の争いの因縁で国同士で反駁し合うことも日常的です。
 人間社会全般を見渡すと、人々は延々と争っているように見えるかも知れませんが、身辺の社会では、近隣の人たちはみんなマナーを守り、気持ちよく挨拶を交わしますし、戦争賛成なんて過激なことを言っている人はあまり見かけません。みんな地球環境を大切に思っていますし、そのための小さな協力にも賛同しています。平和を望み、子供たちの将来が明るく豊かであることを望んでいます。
 近隣の人たちを見ている限り、争いや暴力あるいは途方もない権力や財力を望み、そのために他人が飢えたり傷ついたりすることも平気という人たちはなかなか見当たりません。それとも口には出さないけれど心の中では殺戮や略奪を望んでいるのでしょうか。生き物や人を殺傷するのもじつは平気なのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。

 こう考えると、権力や暴力や差別を望んでいるのは、ごく一部の特殊な考えの持ち主であって、人類のほとんどは協調性があり平和を望んでいるように思えます。
 最近は、人件費削減でセルフサービスが増えました。スーパーでも鉄道でもセルフサービスばかりで、万引きや不正乗車に対してすきだらけです。それでもほとんどの人たちが自発的にルールを守り、社会秩序を維持しようとするから、セルフサービスが成立するのです。多くの人々がじつは心の中で悪事を企んでいるのだとしたら、セルフサービスはうまくゆかないでしょう。
 正常な人間は、様々な独占欲だけではなく、人の役に立ちたい、人から喜ばれたい、人が窮地から助かると嬉しい、そんな欲求も持っています。子供もほめられるために頑張ります。
 権力や暴力や差別を望み、弱肉強食が人間本来の姿であると考える人は、ごく一部のきわめて特殊な考えの持ち主です。そうした人を除外すれば、ほとんどの人々は平和を望み明るい未来社会を希望する健全な人々です。しかしながら、ごく一部の特殊な考え方は権力者によって正当化され、人の歴史は争いの繰り返しであったと吹聴され、義務教育も勝ち組負け組という差別を産むための制度になっています。

 人々は愚かではないです。理性を失ったら欲望のままに他人を傷つけたり略奪したりするしか能がない存在であるというのも間違っています。人はヒトに進化する前から、協調性を重んじ、他人から喜ばれたい、他人の役に立ちたい、他人を助けたいという欲求を持っていました。それゆえに群れは維持され、苦境を乗り越え、人はヒトに進化したのです。
 以上は筆者のご都合主義的な考えですか? 権力者のおっしゃることが正論で、人間は争いが好きな愚かな存在なのでしょうか。そうだとしたら現在に至るまで滅びることなく繁栄してきたのは、どうしてなのでしょうね。

アリとヒトの社会

2014/01/10


 アリは小さな昆虫です。しかしかれらは多数の個体が組織的に集合することによって大きな力を発揮して生きています。その社会の仕組みはとても高度な分業によってまかなわれています。
 ヒトの社会もこれと同じで、人間は裸のサルと言われるように、ひとりひとりは無防備で野生では脆弱な存在ですが、組織だった社会に属し高度な分業によって強さと豊かさを実現しています。
 ヒトの社会は縦社会であると言われています。人類は平等であると言われるものの、1つの社会の中には大きな不平等と権力への盲従が存在します。民主主義を唄う国家でさえ、特権階級と平民との差異はひじょうに大きく、社会は上下関係によって維持されています。
 アリの社会には、女王アリ、兵隊アリ、オスアリ、働きアリといった階級があります。これも縦社会なのでしょうか。例えば働きアリたちは兵隊アリに遠慮し、女王に奴隷のように使役されているのでしょうか。

 アリという虫を飼ったことがありますか? アリにも様々な生態を持つものがいますが、一般的なものでは、オスアリとの交尾を終えた女王アリが単独で営巣を開始し、働きアリを産んで増やして巣を拡大して行きます。働きアリたちは、巣の拡大、餌の採集、幼虫の育児などあらゆる仕事をこなしますが、女王アリは何もせずに日夜繁殖に励みます。巣の奥の方で擁護され、動き回ることもほとんどなく、働きアリたちに餌をもらいながら延々と卵を産んでいます。
 兵隊アリは働きアリの特殊化したもので、大きな体と強い顎を持っていて、普段はあまり働かないけれど力仕事や外敵の撃退といったシーンで活躍します。外敵との戦闘で先陣を切ったり、働きアリでは持て余すような力仕事をこなす、言わば重機的な働きアリです。
 アリ社会における最大の労働力は働きアリで、兵隊アリは働きアリの手に負えないような仕事をこなすために特殊化した個体といった感じで、とくに戦士専門というわけではありません。時折必要になる大仕事をこなすために進化してきた形態かもしれません。また、働きアリにも様々な分業が進んでおり、女王の世話をやくもの、卵を育児エリアに運んで管理するもの、幼虫の世話をするもの、キノコを栽培するもの、シジミチョウの幼虫を飼育するもの、自らポットになって蜜の貯蔵タンクになるもの、巣のメンテナンスをするもの、遠征して餌を採ってくるものなどがあります。様々な仕事を担う働きアリたちに特別な区別や階級はありません。ポットになっているアリもべつに罰ゲームを食らっているわけではありません。
 そして女王も、産卵という自分の仕事をこなしているだけで、働きアリたちから慕われているふうでもありません。働きアリたちは、産卵マシーンのメンテナンスをこなすように女王に接しています。女王に餌という燃料を供給し、出てくる卵を孵化室に運び、マシーンがちゃんと動くように掃除をしたりします。そこに主従関係などありません。

 人間が、でかいメスを勝手に女王と呼称し、それを中心にアリ社会が運営されていると理解しているだけで、アリたちにしてみれば、女王は繁殖マシーンとしてきちんと管理すべきものにすぎません。女王にアリ社会の運営方法を指示したり、物事を決定してすべてのアリたちに従わせたりする能力はありません。種々の分業の1つとして繁殖を担うデカいメスというだけです。
 アリ社会を統べるものは、アリ本来の機能です。さまざまな分業は誰の指示も受けずに的確にこなされます。
 アリ社会が女王中心の縦社会であり、働きアリたちは最下層の存在であると思っているのは人間の勝手な解釈です。アリ社会はすべてのアリが高度な分業を担う横社会です。アリ本来の機能によって、つまり本能によって管理された社会であり、言わばアリ社会はそれ全体で1個の生き物のようなもので、個々のアリたちはアリ社会という生き物の構成パーツです。多くの虫たちは1匹で暮らしているけれど、アリたちは大群で暮らしていて、それを人間が社会性と呼んでいるだけです。
 一腹から生まれた姉妹たちが、全員で巣を管理し、そのために複雑な分業を行なっている状況は社会といってまちがいないのですが、それは人間の場合とかなり性格がちがいます。

 人間以外の哺乳動物にも社会生活をするものがたくさんいて、それはアリたちよりも縦社会的です。体の大きいボスは他の仲間よりたくさん餌を食べ、群れの動向を指示する能力があります。それはまるで権力のようです。しかしボスの欲求は果てしないものではありません。群れを統率し、たくさんのメスを孕ませるのに多くの餌を必要とするから、率先して食べるだけです。自分の欲望のために弱者に犠牲を強いる、人間の権力本意の方法とはまったくちがいます。
 群れに司令塔が存在するというのは、群れが組織だって機能し力を発揮するのに有利です。群れの中のオスは、どの個体でも潜在的にボスになる素質を備えていますが、その優先順位となるのが体の大きさや腕力です。これは合理的な方法なので多くの動物たちに採用されています。それぞれの個体はまた統率者に従順になるという能力も持っています。自分よりも優位であるものの存在を認めるとそれに従い、群れの秩序を維持し組織力に貢献します。
 大空を群飛する鳥類の場合、統率者はその時のタイミングで自動的に選出され、たまたま群れの先頭にいた者が司令塔となり、他の個体はそれに従います。渡り鳥であれば、司令塔を先頭にV字フォーメーションを組み、効果的な長距離飛行を行ないます。
 人間以外の動物たちの社会における上下関係は、本能に管理されたものであって、野心は存在しません。彼らにとって統率することと従属することに大きなちがいはなく、その時の状況に順応します。この習性を利用したのが、人による動物の家畜化です。人の方が自分より優位であることを認めると、高い殺傷能力を持つイヌなどの大型獣でさえ人間に従順になり忠誠ぶりを発揮します。それが彼らの本能です。

 人間社会には巨大な力関係が存在し、人民は半ば脅しによって組織に隷属していますが、この力関係による縦社会は、野生動物のそれとは本質的に異なるものです。概観は似ていて、あたかも自然なスタイルのように見えますが。
 人間社会の力関係による縦社会はひじょうに非効率的です。幾重もの階層があって階層ごとに価値観が異なるので、同じ情報でも意味が異なってしまいます。社会の一般的な構成人員は、平和で平等な社会を望みますが、権力者にとってそれは致命的です。闘争と競争と差別と、権力維持のための浪費が必要不可欠です。そしてそれは、人間が本来持っている際限のない野心のせいであり、宿命であるということになっているようです。
 人間以外の生き物たちにはそうした野心はありませんし、差別や憎み合いもありません。人間も彼らのように、効率的で浪費が少ない社会を営むことはできないのでしょうか。ヒトの持つ科学技術は、生物の習性としては極めて優れていて進歩的ですが、社会の成り立ちはあまりにも無駄が多く洗練されているとは言えません。
 現在は、地球という世界がどのような形状で、そこにどれだけの数の人間がどのように暮らしているのかを、一般人でも把握できる時代です。物資や情報や文化が世界中を駆け巡り、民族間や国同士の隔たりが市民レベルではどんどん曖昧になってきています。そうした中で、縦社会を盲信する人たちだけが対立や争いを信望し続けているのは、なんだか後進的だなぁって気がするのですが。
 恨みも憎しみもなく、少ない資源で普通に生きているアリ社会を観察していると、アリに笑われているのは、じつは人間の方じゃないのか、なんて思ってしまうことがあります。

神々のシナリオ

2014/01/15


 ヒトを生き物のひとつとして観察するには、神の手を借りるのが一番です。神は、わざと1種類の人間を皮膚の色のちがいや言葉のちがいに分け、相互に出会わせてどんな反応をするのかを見ているといった具合です。地球を宇宙人が作った実験槽だ、なんていうSF的発想もありますよね。
 古来より、ヒトは異文化に触れると、それを恐れ可能であれば撃退しようとしました。しかし戦争ばかりしていたわけではなく、なんとかして意思の疎通を図り、交易しようという試みもたくさん成されて来ました。
 科学技術がどんどん進歩し、情報が一瞬にして世界を巡る時代になると、国際社会の概念が発達してきて、多くの人々が世界がひとつになることを望むようになりました。そうした高次元社会においても争いや衝突も絶えないところがヒトという存在のやっかいなところですが、それを乗り越えようという努力があることも事実です。
 生物学的には1種の動物が、世界中に適応放散し、それぞれの地で異文化を育んだのちに相互に出会うようになったというのは、じつに出来すぎた神のシナリオにさえ見えます。表意文字を使う狩猟主体の民族と、表音文字を使う農耕主体の民族とでは、思考パターンがずいぶん異なります。同じ地球にいながらこれほどの差異が出来るまで本格的な交流を持たなかったというのは偶然なのでしょうか。
 多民族が集結して、国際社会が育まれ、同じ情報を共有するようになるという状況は、ヒトにとってすさまじい進歩でした。その度に多くの試練を乗り越え、様々なことを学びました。国際社会の確立のためには、多民族性という試練は不可欠のものであったのでしょうか。それが神のシナリオなのでしょうか。そして次に人類を待ち受けるものは宇宙世紀ですか? 生活習慣のちがいによって生じた文化の壁を打ち破って意志の疎通に成功するカギとなったものは、ヒトが生物学的に同一種であるということではなく、方法は異なっても同じ自然、同じ物理法則を学んできたということです。
 人類は、その英知を総動員した学術知識で、物理の法則あるいは物理定数が宇宙全体で普遍であることを学びました。来る宇宙世紀に異星人と遭遇することになっても、彼らもまた異なる方法であっても同じ宇宙の法則を学んだものであるはずで、そこに意思の疎通の活路を見いだせるでしょう。

 ところで、筆者は神を信じるかということなのですが、ノーとは答えられないです。自然の成り立ちや星や生物の進化のシナリオがあまりにも出来すぎていて、そこに何らかの知性の介入があることを疑ってしまいます。宗教家の方々のように具体的な神々の様子を提示することはできませんが、我々の関知しない高次元の意志の存在を想定しないとうまく説明できないことが多すぎます。DNAなんか神が作った生態系構築マシーンじゃねぇの、なんて。
 もしかすると、人間ひとりひとりの心がじつは根っこでつながっていて、それが神だったりするのでは、そんなことを構想したりします。心の壁で隔てられた個人の意識という状況が人間であって、死んで肉体をなくしたら元の全体意識に帰るとか。想像はあれこれ膨らみます。

 異星人を題材にしたある有名なSF小説に、科学者と宗教家が対立するシーンがあります。科学者は「自分は科学者として確認していないものを信じることはできない」と神の存在を否定します。ところがその科学者は異星人の存在を信じて疑わず、異星人からの信号を探索し続けています。地球人が実在することで異星人の存在の可能性を推論できますが、それを確認したわけではないのに、その科学者はどうして異星人を信じることができたのでしょう。
 地球人が石器人からエレクトロニクス文明人にまで進歩するのに1万年弱の時間がかかりました。我々は文明人としての営みを1万年ていど続けたに過ぎません。異星人がどこか遠いところにいたとして、彼らは何万年存続したでしょう。隣の星雲に行くにも光の速度で長い歳月がかかるような広大な宇宙のどこかで、彼らは今もちゃんといてくれるでしょうか。あるいはこれから何万年後に文明を獲得するかもしれません。こう考えると異星人は存在したとしても相互に出会う確率はひじょうに小さいと言われます。でもそれは単純な計算式の問題です。
 宇宙の広さは無限ではないし、年齢も無限ではありません。ビッグバン理論によると宇宙は誕生してから138億年ていどであり、初代の星雲が進化して超新星爆発を起こして、種々の重い原子が誕生したのは、もっと新しい出来事です。そこから2世代目の星ができてそこに生物が発生して文明人が進化するのに数十億年かかるでしょう。地球人では太陽系誕生から46億年ほどかかりました。異星人の捜索の時間幅がだいぶ縮まりましたね。
 話しが飛びますが“引き寄せ”という考え方をご存じでしょうか。ある人たちは引き寄せを宇宙の法則の1つであるとも主張しています。この場合の宇宙とは世の中という意味合いに近いかもしれませんが。すなわち自身の身の上に起こることは自分が思ったことであるというような考え方で、単純に言うと、そう思ったらそうなるみたいなことでしょうか。その専門書もあれこれ出ているようですが、引き寄せを理解することが成功すなわち金持ちの秘訣みたいなうたい文句があったので、一気に読む気が失せて、詳しくは見ていないのですが、その効果というか引き寄せの作用というかは、あんとなく判る気がします。物事を熱心に研究していると、たまたま良書にめぐり合ったり素晴らしい出会いがあったりということを経験している人は多いでしょう。あの書物に、あの人に出会えたおかげで自分の理解が格段に向上したみたいな。そうした出会いは、引き寄せによって自分の身に起こるのかもしれません。
 むかしから日本でも“縁”を大切にする風習がありますし、一念岩をも通すという言葉もありますように、一見して個人では成すことが困難な仕事でも、信条を持てば良い縁に恵まれ、自分の進むべき道にとって有益な人や考え方に出会うことができるというわけです。そうして人は類は友を呼び、同士が集まって大きなことを達成できるのかもしれません。
 同様に、自然界でも様々な変化に見舞われながらも生態系が維持され、ヒトが進化してくるまで滅びないという奇跡が起こったのかもしれません。そうなれば引き寄せは万有引力みたいな、宇宙の法則ですよね。事象はかくあるために好都合な事象を引き寄せるのかもです。
 なので、引き寄せあるいは縁を大切にしないと、目の前にある出会いを見過ごしてしまうことになるかもですよ。そして、我々地球人と異星人とで互いに信条を持てば、出会える日がやって来るかもです。
 多くのSFで、異星人は侵略者であり、我々は核かウィルスをぶち込んでこれを撃退しなければなりませんが、引き寄せによって出会える異星人はきっと友好的ですって。彼らがどのような宇宙概論を持ち合わせており、かつまた彼らの盲点に我々が気づいており、相互に補填して高め合えるような、そんな出会いをしたいものです。異星人と我々はどんな話しをするのでしょう。神は実在するのか? 宇宙の成り立ちはじつのところどうなっているのか? 時間と空間とそこに存在する事象の本質はどうなっているのか。議論することで互いに新たな発想に至るかもしれません。
 けっきょくこの宇宙は、神というひとりの作家が描いた壮大な物語だったりして。もしそうであっても悲観する必要はありません。神が描いた宇宙の物語からすると我々の生きる時間は一瞬かもしれませんが、それは方便というものです。我々は確かな時間を有意義に生きています。
 我々の小さな力と時間がたくさん集まって、世の中は前へ進みます。遠い過去からずっと、人間社会を導いてきたもの、科学技術の進歩に寄与した力は、大勢の人々の熱い思いです。そのことだけはまちがいありません。某書が言うところの引き寄せと成功の構図を、大勢の力で世の中をリードしてゆく構図に変えたいものです。

バーチャルリアリティ

2014/01/15


 仮想現実という概念はずいぶん以前からSFの世界でテーマになっており、現実社会ではビデオゲームがそれに最も近いものであると思われます。仮想現実で人々は夢をかなえることができます。成りたい職業になったり、統率者となって世界を動かしたり。ネットゲームの世界では、プレイヤーが操るキャラクターが電脳世界の住人となり、出会いを経験し、情報交換したり協力し合って物事を達成したりします。そこには多くの感動が待っています。現実世界のプレイヤー同士は遠く離れて暮らしていても、彼らが操るキャラクターは電脳世界で共に暮らし、友情や愛情が芽生えることすらあります。
 こうした疑似体験を、多くの批評家たちが危険だとしています。ネット世界にどっぷりと浸かった若者たちは、パソコンの前から離れず家に引きこもってしまう。彼らは他人とのコミュニケーションの取り方を忘れ、なんでも自分の思い通りになる利己がまかりとおる環境でしか生きていけなくなる。果たしてそうなのでしょうか。
 ネットの達人たちは、仮想現実で何でも思い通りなのでしょうか。他人とのコミュニケーションもなく、利己的に振る舞うだけで電脳世界を渡り歩いているのでしょうか。古い考え方の批評家たちも今の時代はスマホを持ち、電子メールくらい操作するでしょう。それがすでに疑似体験の一種であるとも気づかずに。筆者はネットゲームを一切やりません。興味はあるのですがそれに費やす時間がない。けれどもネトゲで他人とキャラクターを通じて協力し合うには、コミュニケーションが必要であり、それを円滑に勧めるためのマナーも重要であり、利己的な考えが通用しないことくらい理解できます。彼らは手書き文字世代よりも短時間で大容量の情報を交換し、意見を出し合ってそれを吟味し合うコミュニケーションの達人です。
 パソコンがなく、手書きの手紙をやりとりしていた時代には、ホットな情報や思いをダイレクトに相手に伝えることは不可能で、やりとりできる意見や情報もたかが知れています。しかし電脳ツールを自在に操る世代は、家に居ながらにして大量の意見をやりとりし、図書館通いの何十倍もの情報を見聞きするのです。彼らの見聞きする情報は、文字や写真以外に動画や音声が含まれますし。
 筆者は1960年に生まれ、手書き文字文化の中で幼少時代から青春時代を過ごしました。家に電話やテレビが導入されたのは、筆者が生まれたあとです。テレビっ子世代、1家に1台電話世代は前世代の評論家たちから引きこもってコミュニケーション能力が低下すると批判を受けましたが、実際には筆者世代は、前世代の多くの人たちのような、外国人から「日本人は何を考えているか判らない」と批判されるようなコミュニケーション下手ではなくなり、電話の使い道は待ち合わせの連絡で、おかげで効率よく他人と待ち合わせることが可能になり、出歩く機会が増えました。
 筆者の息子は、小学生時代は満足に文章も書けず、句読点の扱いもできない残念な子供でしたが、パソコンを手にしてから小説を書くようになり、自力で立ち上げたサイトにアマチュアの小説家が作品を出し合うようになり、交友関係が増えました。パソコンがなければ彼はもっと小さな世界で、無知な暮らしをしていたかもしれません。
 息子は自室に居ながらにして、テレビ電話機能を通じて他人と会っており、心は出かけてしまっています。批評家たちはそれも批判するのでしょうが、では彼らは電話やメールは一切使わず、直接会ってしかコミュニケーションしないのでしょうか。家に居ながらにして電話で遠隔地の人と会話することもしないのでしょうか。
 電脳ネットワークはひじょうに人間に扱いやすいものにどんどん進化しており、パソコンが存在しない青春時代を過ごした筆者でも、こうして普通にブログを書いています。筆者が同人誌を作っていた頃には、文章作成機としてワープロが誕生したばかりでした。あの頃、屋外でワープロをたたいていると先進的だと感心されたものですが、今はパソコンやスマホを使わない人を探すのが困難な時代です。文字を手書きするのは苦手でも、電脳端末を使って多くの文章をサクサクと作成するのが当たり前です。手書き文化から離れた世代の文字離れなんていう批判はまったくの的外れで、電脳端末を操ることで、多くの人々が文字に親しむようになり、人に物事を伝える達人になりました。
 かく言う筆者も、文字を手書きするのはちょっとしたメモていどで、今や文章といわれるものはスケジュールから日記に至るまで電脳端末を用います。電脳技術の発展のおかげで表現の豊かさと自由度がレベルアップしました。
 ネット社会の発展は、ネット上の犯罪という新たな悪事を産みましたが、電脳世界を行き交う情報の量に比べると犯罪件数は、現実社会のそれと比べて多くはありません。
 人間はじつは古来より仮想現実と親しんできました。仮想現実から物事を学び、感動を受け、人生が変わることさえそれほど特別なことではありませんでした。小説という実在しない人物が経験する架空の出来事に感動し、いろんなことを学び、人生を豊かなものにする、そうしたことを普通にやって来たのが人間なのです。仮想現実を自分の経験として会得してしまうことは、ヒトが人としての証でもあるのです。それを批判するなら、小説や映画や演劇さえ見るべきではないでしょう。
 電脳ネットワークは人生を豊かにします。それに溺れて閉じこもってしまうことがあるのは、その原因は現実社会にある場合が多いです。差別や弱者への攻撃や欺瞞を抱えた現実社会の方を是正すべきです。パソコンがない時代でも本の世界に溺れる人はいたでしょう?
 電脳技術や仮想現実の発展に臆する前に、ヒトが古来よりバーチャルリアリティを生活の一部として来たことを思い出してください。

人間社会の格差

2014/01/16


 社会の格差や差別のことを考えると腹が立ちますね。悪いことしてるヤツばかりが豊かに暮らして、正直者はつらい仕事を低賃金で延々と続けている。人を豊かにするお金というものは、持っている者にどんどん流れ込み際限なく貯まる仕掛けになっているそうです。ウソかホントか知りませんが、そのようなことをよく耳にし、それはひじょうにもっともらしく聞こえます。筆者の知っている、サプリメントの販売員で大金持ちになった方の話しによると、仕事が成功して成果が出始めると、マネーブローというものが発生して、あとはそれほど苦もなくお金が流れ込んでくるようになるのだそうです。お金というものは、互いに引きつけ合ってどんどん膨らんでゆく性質を持っているのでしょう。
 マネーゲームという言葉がありますが、なんだか汚くて下品な言葉ですね。小さな社会では、ひとりが何でもがめつく独占してしまうと、下品でイヤなやつと評されますが、世界規模の社会になるとお金の独占者は偉大な成功者ということになります。殺人は犯罪ですが、国家レベルの大量殺人は戦争の英雄です。どうやら人間社会には大社会と小社会が存在し、そこではものの価値基準が逆転しているようです。
 このような社会形態は、他の生物には見られません。もっとも、他の生物たちに他人を汚いとか下品だとか思うような感情はなく、体の大きさや腕力による同種間の序列は、最初からそういうものなのだと受け入れられています。動物の群れ社会の中で序列が生じ、勝者が優先的に繁殖に加わり子孫を残すというのは、強い種を残すために有益であるといった説明をよく目にします。たいへん合理的な考え方に思えますし、そうして種は定行進化に準じるのでしょう。定行進化とは、生物の進化がより大型化しより力強くなる方向に進むという法則です。
 では、人間社会における格差や不平等も生物というレベルでは正しいものなのでしょうか。ヒューマニズムという高度な考え方によると、これは肯定できません。人たるものは不当な力を行使してガツガツと富を独占すべきではなく、弱者には優しく、分け与えることを美徳としなければなりません。ヒューマニズムは、人間社会を円満かつ快適に運営するのにたいへん有益な考え方ですが、生物の自然の摂理には反するものなのでしょうか。
 そもそも定行進化の法則は、生物進化のある側面を表現したものに過ぎません。エネルギー(水や食料や滋養や温度など)が豊かな環境で、多くの種のせめぎ合いが生じるような状況では、定行進化はかなり顕著で、動植物は競って大型化を目指し、小型化を図って成功する例は多くありません。ところが、エネルギーが貧しい環境では大きな個体は体を維持するのに不利になり、小型種が繁栄する場合があります。ある動物が生活圏を拡大するべく様々な土地に適応放散した場合に、たどり着いた先がたまたまエネルギーが充分でなかったとき、その動物は新たな環境で上手くやってゆくために小型化します。これをドワーフ化と呼んだりし、自然界でしばしば観察されるできごとです。
 進化は、すべての生物に斉一的に生じるものではなく、ある種は目まぐるしく変化し、ある種はいつまで経っても古いタイプの形質をとどめたまま生き長らえます。ある種はせめぎ合って大きくなりますが、別の種は小型化して少量の食料でも健康を維持できる有利性を選択します。
 要するに生物界にとって重要なのはバランスなのです。強いもの弱いもの、小さなものデカいものが1つの環境にバランスよく共存して生態系は維持できるのです。最も生物の強い弱いは人間の勝手な見解に過ぎないのですが。

 人間社会は、生物の生態系と比較するとひじょうに奇妙です。強者や弱者が存在し、社会が絶妙にバランスしている点は生態系に似ていますが、その中で不平不満や差別や蔑視が生じるところが奇妙です。富める者は、富まざる者たちの生産性を当てにし、それを搾取しているのに、富まざる者を蔑視し、勝ち組負け組なんていう下品な表現を当然のことのように使います。愚かなことです。
 社会を統治するもの、会社を経営するもの、そうしたいわゆる重職という仕事をまっとうするために平均以上のエネルギーを必要とし、その対価としてのお金をたくさん持つことは必要でしょう。群れを統率するボス猿みたいなものです。しかし、分業によって成り立っている社会において、職業ごとに過度の格差や差別を行なうことは不条理ですし、社会の安定の維持にとって不利です。
 社会の統率や会社の経営は、平均以上のエネルギーを要する社会的役目、それだけです。ものを作る能力、後片付けをする能力、それも社会にとって必要不可欠であり、統率者や経営者にはない能力です。生産や片づけが政治や経済よりも劣っているというのは幼稚な考え方です。
 東大を卒業して小難しい学問を習得したから、町工場で油まみれになって車を修理する人より優れているというのは幼稚な考え方です。自動車修理工はたいへん多くの人々の足を支えており、経験と鍛練によって絶妙な調整を行なう技術が、先人の考えた学問を受け売りする能力よりも劣っているというのは、まるで分別のない駄々っ子のような考え方で、呆れてものも言えません。
 政治家や経営者がそれほど優れていて、労働者をバカにするなら、生産や片づけも素晴らしくこなして見せてほしいものです。
 職業や社会的役割には、多くの修練を要するもの、突出した技能を要するもの、それほど鍛練しなくてもこなせるものが存在するのは事実ですが、様々な役職が社会にとって必要であるならば、そこに優劣があってはなりません。

 職業に貴賤なしというある先人が残した言葉がありますが、それはあらゆる役職が平等だから、給料も待遇も平等にすべしというふうに解釈すべきではありません。貧富の差という不平等をなくすのは無理です。多くの修練を要する職業に就くにはお金がかかりますし、政治や経営という仕事を運営するのに労働者並みの賃金ではやってゆけません。常に多くの視線にさらされる職業や、高い緊張状態を維持し続けなければならない職業をまっとうするには、ストレスを解消し精神の安定を維持するための休暇や趣味や娯楽も重要で、それにはお金がかかります。しかしそのために法外な富の独占を当然とし、使い道もない金額を貯め込んで経済の血流を滞らせるのは罪悪です。
 職業に貴賤はありません。経営者と労働者は対等であるべきです。労働者ひとりひとりは経営者ほどの報酬をもらう必要はありませんが、会社一丸となって達成した利益は平等に分配しなければなりません。労働者にも休暇や趣味や娯楽がなければ正常に働き続けることはできません。正常に働けなければ会社の運営に不利益が生じます。そのことを対等な立場で討論し、必要な報酬を分配しなければなりません。
 労使の関係は主従関係ではありません。利益は経営者と労働者が互いの役割を全うした結果として発生するものであって、経営者のものではありません。経営者がどんなに理想的なプランを立てたからといっても、それを具体的に実行する労働力があって初めて成果が発生するのです。会社の資産はすべて経営者のものであって、労働者はありがたくそのおこぼれをちょうだいするという考え方は、あまりにも経営者本意が過ぎます。
 筆者はべつに社会主義者や共産主義者ではありません。さりとて資本主義者でもなければ、アナーキストでもありません。難しいイデオロギーの話しはよく判りません。筆者はまた新しい考え方を提案しているわけでもありません。労使対等の原理は民主主義の基本です。それを大むかしの主従関係の考え方か何だか知りませんが、無視して資本家の搾取や暴走を許してそれに無関心なのが特異なだけです。

 別項でアリの社会は横社会だと述べました。アリたちはエネルギーを平等に分配しています。働きアリはその労力に必要なだけの食事を自らの意志で摂取し、そのことで女王の許可を得る必要はありません。女王もまた繁殖と体力維持に必要な食事を摂取するだけで、食べきれないほどの食料を独占してカビさせるようなことはしません。アリ社会の経済は滞ることなく回っていて、その点において人間社会ほど幼稚ではありません。
 人間社会が幼稚なのは、資産家が我がままだからでしょうか? それはちがいます。人間が欲深いからでしょうか? それもまた人間を卑下しすぎです。人が他人の役に立ちたい助けたいという欲求を持っており、道義的に行動することを是とすることは別項で述べた通りです。
 社会において過度な格差や不平等が生じ、経済が資本の占有によって停滞してしまうのは、人々が無関心であるからです。自分の可能性を信じず、自分を過小評価しているからです。資本家が汚いからと他人のせいにしているからです。
 もっと自分を信じ、夢を持つこと、未来に希望を持つこと。そうした思いがたくさん集まれば人間社会は好転します。資産家の中にも格差や不平等を正しくないと思っている人はたくさんいますが、社会の流れが悲観的で、あきらめと無関心が蔓延していては、どうしたら良いのか判らなくなってしまいます。
 現在は高度な情報化社会です。インターネットを通じて個人と企業、個人と世界がつながる時代です。電脳世界では、人はより平等な立場で意見を交換することが可能です。人々の夢や希望が明るい未来社会を築く、それがますますリアルなものになる時代に私たちは生きています。

マスとエリート

2014/01/23


 政治経済の世界あるいは経営の世界では、人々をマスという1つの現象のように観ることがよくあります。マスとは集団や大衆というような意味で、マスコミやマスメディアという言葉でお馴染みですね。政治家や経営者というものは、我々一般市民を人の流れとして見ているわけで、どのような刺激を与えればマスはどう動くかという、まるで飼育動物を観察し実験するようなことをやっているわけです。そこには個性や例外的なものへの配慮はなく、流れに逆らう量が許容範囲内であれば、政治的経済的判断は正しかったということになります。
 政治家や経営者以外の人たちは、社会というケージの中で飼い馴らされるほかないのでしょうか。ところがおもしろいことに、政治家や経営者もマスを構成する人員も同じヒトなんですね。太古の王朝では、国を統べる者と民衆はちがう生き物のように思われていました。しかし現代社会では、両者は同じ存在であり、統治者は大衆の中から公正に選ばれるべきものだとされています。
 政治家や経営者とはべつに、様々な文化的な才能で社会的優位を獲得する人もいます。作家や音楽家、芸能人やスポーツマンなどの肩書を得て知名度が上がり経済的豊かさを獲得し、社会に様々な影響を与えることができるようになります。彼らはマスで動く凡人たちとは明確に異なり、エリートであるとか勝ち組であるとか呼ばれたりします。

 筆者は、まごうかたなき凡人です。社会に対しての影響力は皆無です。筆者のような凡人は、ヒトとしてマスとして行動するほかないのでしょうか。それだと楽で良いのですが、そこがそうはゆかないのがヒトの人たるゆえんでして、人間社会の様々な事柄に文句のひとつも言いたくなってしまうこともあるわけですよ。エリートと言われる人たちの判断や考え方が、身近な人々の意見や希望と大きく隔たるようなことは多々あるわけで、そこに義憤を抱くことも少なくありません。戦争やマネーゲームという略奪主義に多くの資源や資産が浪費されているのを見ると、人間社会の未来についても不安になってしまいます。
 エリートといわれる人たちは、社会をリードしているつもりでいて権力と財力を盲信する狂信者なのではないか、マスに属する人たちの中にこと多くの良識が存在するのではないか、そんなことを誰しも考えるでしょう。
 むかしから、民衆は優れた統率者を求めているとか、世の中はヒーローを欲しているなんて言われてきましたが、それも現代のネット社会では古びた考え方のように思えます。生まれ落ちるからネット社会が当たり前の若者たちはどう考えているのでしょう。自分の無能ぶりを自覚し、優れた王やヒーローの到来を待ち望んでいるのでしょうか。
 我々アナログ時代の経験を経てネット社会に飲み込まれた世代の者にとっては、かつてのヒロイズムというものはかなり色あせて見えます。筆者が子供の頃には、将来の夢といったら「末は博士か大臣か」なんて言われたものです。考案発明によって名声を手にするか、政治家として名をあげるかが野心みたいに言われていたわけです。でも、今頃こんなこと言っても一笑に付されるだけでしょう。
 ネット社会は、アナログ時代よりも人々を平等に近づけました。ネット犯罪や超管理社会といった弊害が危惧されますが、犯罪なんてネットがなくても発生します。それよりも人々は格段に多くの情報を手にすることができるようになりましたし、活発に意見交換ができるようになりました。ネット社会のおかげで社会が悪くなってしまったということはないと思います。むしろ多くの人たちがネット社会に夢や希望を抱いているでしょう。
 ただね、情報ネットワークが私利私欲を充足させるための手段として使われるだけなら、それは前時代から思想的進歩がありません。むかしは作家や漫画家、音楽家としてメジャーデビューしようとしたら、プロが設けた登竜門をくぐる以外に道はありませんでしたが、ネット社会ではプロを無視して人々の支持を獲得し、メジャーな人になってしまうこともあります。そんな事例に憧れて、ネットをデビューの手段と考えるのも悪くはないでしょう。悪くないですが、ネットが勝ち組負け組をふるうための手段に終始するのなら、社会は進歩していないように思えます。

 平等社会なんて考えられません。マスとエリートが存在すること、ヒーローやアイドルが脚光を浴びることも、今後もなくならないでしょうし言わばそれが人間社会なのでしょう。知名度が高く、常に多くの人々の視線を浴びている人は、たいへんなプレッシャーと闘っているでしょうし、プライベートの時間も多くはないでしょう。そうした状況で精神の安定を保ち、人々の期待に応えるためには、お金もかかります。凡人よりも生活の潤いがなければやってられません。それに社会的影響力のある人には様々な思惑が群がり、お金の流れができますから(経済効果とか言われますよね)流れの渦の中心が貧乏では安定した流れを維持できないでしょう。

 ネット社会という言葉は、政治経済にたずさわる人たちにとっては、お金の流れのデジタル化というふうになるかと思います。光の速度で地球を網羅する情報網により、お金の流れも高速化され、人生の浮き沈みも速く激しくなった。しかしネット社会の別の意味は、財産の電子化のみならず、情報の共有の効率化であり高度化です。
 たとえば筆者の得意分野の生き物の飼育ということでは、ネット社会のおかげで多種多様の生き物がペットトレードに乗るようになり、多くの人たちが家にいながらにして高度な飼育ノウハウやツールを入手できるようになりました。また、多くの飼育者がネット上に意見や情報をアップすることによって飼育に関する情報も洗練されてゆきますし、飼育のみならず、野生での生態や自然との関わりについてもより多くの人たちが知るようになりました。今では、アマチュアの飼育者が飼育難易度の高い動物を育てたり繁殖に成功したり、新たな品種を作出したりすることが、それほど珍しいことではなくなりましたが、アナログ時代にはそれは学者が専門施設でする仕事でした。ひとむかし前のプロの科学者よりも高度な技術を身につけたアマチュアもたくさんいます。ネット社会は多くの高度な科学者を育て、多くの洗練された情報を世界に広めているわけです。
 むかしなら、プロの科学者がわずかばかりの研究結果をしてそれが真実であると公表すれば、一般の人々はそれを信じるしかなかったのですが、今の時代はそうはゆかなくなりました。公的な発表は瞬時に多くの人の知るところとなり、多くの人の手で追試や考察が行なわれます。これは素晴らしいことです。

 人間社会がマスとエリートに区分される考え方はなくならないでしょう。それぞれの分野の権威や、ヒーロー、アイドル、カリスマ、そうしたものが無用とは申せません。人間が知性と共に感情を持つ生き物である以上、偉人に憧れたり畏怖したりといった衝動は抑えられませんし必要なものでしょう。
 しかしながら、ネット社会によってマスとエリートの関係も様変わりしてゆきます。自分がマスに属する凡人だからといって、聞く側の人間、従うだけの存在に終始するという状況は少なくなります。同様にエリートだからといって、発言力が約束されているとも限らなくなります。
 これはマスというもの自体のレベルが上がることから生じる現象で、古来よりそれは地道に進められて来たのですが、ネット社会によってそれが顕著になって来ました。世の中、高い技術を身につけた識者だらけです。時代をたがえれば有名人として人を統率したような人が、凡人としてゴロゴロしています。そのことの認識が今の世の中には足りません。
 社会が混濁している、政治家や経営者が汚いと言う前に、自身は何をしたかを自問してください。会社組織に属しているなら、陰で愚痴を言うだけでなく意見を述べるべきです。上申や提案、あるいは労働運動に参加すべきです。自身がただ従うだけのマスではいけないと気づくはずです。商売をやっているなら、近隣の同業者と積極的に協議し、町に共栄圏を築いてください。オタクなら漫画や小説を書いてください。書けないなら既製の作品を評価して、それをブログ等で公表してください。今はそれができる時代なのです。
 かく言う筆者も偉そうなことは言えないですが。あるとき筆者は政治家になることを勧められたことがあります。確かに公的な場で発言力を持つということには魅力を感じましたが、政治家のスタイルにはついてゆけそうにもありません。またある時は、小説を書いているならプロを目指さないのかと問われたことがあります。それは政治家よりも数百倍魅力的なものに思えましたが、作家を職業にすると、SF作家であるとかサスペンス作家であるとか、読者の期待に沿った型にはならなきゃならないそうです。筆者は小説の執筆に負けないほど自然科学のことやら、生き物の観察記録を書いてきましたので、型にはまった職業作家とナチュラリストを両立させることに不安を感じました。原稿の締切りに追われてヘビやトカゲの給餌を忘れたら大変じゃないですか。
 人から注目される人間になるというのは、なかなか魅力的なことですが、筆者はエリートの力よりもマスの力を信望しています。できることならば、大勢の人で力を合わせて何かを作りたいですね。様々な考え方の人間が集まって、1つの作品を作るということの素晴らしさは格別です。様々な生き方を経験し、学んだものもちがうのに、1つの目標に向かって心を1つにするって、本当にすごいことです。筆者は、会社での労働運動や若い頃の同人誌作りを通じて、その喜びに触れました。そうした経験からも、人間社会を本当に動かしているのは、マスの方だと信じるわけですよ。

質的人員と量的人員

2014/01/24


 別項で人間社会のマスとエリートについて述べましたが、その差異は社会の進歩に伴って曖昧になってゆくでしょう。マスのレベルは向上するばかりです。太古のむかしは権力者と民衆には絶対的な差異があり、まったく異なる存在でしたが、文明の進歩はその差異をどんどん埋めて民主化が進み、今では権力者最高、権力者のためなら死ねるぜ、なんて発想の人は多くないでしょう。かつての王朝文化遺産を眺めながら、絶対君主の再来を願う人も少ないでしょう。壮麗な城を眺めて王を称賛する人よりも大むかしの建築技術のレベルの高さに感銘を受けることの方が多いでしょう。それは王というエリートではなく、技術を持ち得たマスへの称賛です。
 城を建てたのは王さんじゃなくて大工さんだという笑い話がありますが、確かに王は、権力を象徴し優れた要塞として機能する建造物の実現を希望したものの、王の理想を具体的な形にしたのは民衆の力です。優れた技術者と優秀な労働力に恵まれなければ、王の夢も夢想と終わったわけです。我々が古代建築に抱く感銘は、王の見た夢の素晴らしさにではなく、その夢を現実にした技術と労力の素晴らしさに対してです。つまり、古来より人間社会をリードしてきたのは、大衆のパワーです。
 で、その大衆はみんなで力を合わせて社会を動かす技術力と労力を発揮するわけですが、そのひとうひとつはとても小さく見え、あまり評価されることはありません。それぞれの技能は、誰かえらい人が作成したマニュアルによって会得できるようになっていて、個々の労働はマニュアルと上司の指示に準じているだけのように見られています。会社における労働者は組織の歯車のひとつに過ぎず、いつでも交換可能で、交換されないように技能と労力を維持しなければならないみたいな。
 しかし、作業の安全や仕事の効率化は、労働の現場の文化として発展します。藍より青しの言葉にあるように、先輩の教えを引き継いだ後輩はそれに新たな創意工夫を付加し、作業効率や安全性を向上させて行くのです。このことはヒトが考える生き物である以上必然的なものです。この基本を忘れ自分たちだけが偉いと勘違いしている経営者が最近は多すぎますが、ひじょうに恥ずかしいことに。

 社会性を持つ動物は、それぞれがボスになる素養と、ボスに従順になる素養を有しています。行動のほとんどを本能ではなく後天的な学習に依るヒトであってもこの素養は変わりません。人がエリートになるかマスに甘んじるかは、その人の素養や努力よりも成り行きに依ることが多いのです。運も才能なんて言われますが、運がよければ才能が報われエリートになるというわけです。
 人間社会はひじょうに複雑な分業によってまかなわれており、人々はその分業のいずれか、あるいは複数に所属します。それらの分業には、物質的な生産性のあるもの、無形文化として人間社会を豊かにするものなど様々です。また、報酬が得られるものを職業、自らの出費を要するものを趣味といったりもします。
 個々の分業は、会社単位、職場単位といった具合にユニット化されます。そして各ユニットで中心的な役割を担う人と、あまり活躍せず従順さを見せる人とが必然的に存在します。会社の職場のようにより大きな統率力に所属するユニットでは、中心人物と一般的な作業員というのは階級等で分けられますが、これが趣味の集まりであっても事情は同じになります。リーダー格の人間と従順な一般メンバーという区分がない集まりは珍しいです。
 リーダーシップをとるような人間には、そうした素養があるように言われますが、そうとも限りません。往々にして成り行きがリーダーをそうならしめます。従順な一般メンバーに甘んじるような人たちには、カリスマ性がなくリーダーに不向きかというと、それもまた成り行きです。そうならば、趣味の集まりくらいみんな平等でいいじゃん、と思うのですがそうならないところがヒトたるゆえんと言うか、おもしろいところです。
 どのような団体にも、中心的な役割を担う質的人員と、従順な量的人員があり、質的人員は団体の少数派であるというセオリーがあるそうです。みんなで一丸となって頑張ってます、と対外的にはピーアールしているものの、実際に頑張っているのはその中の何割かで、あとは頭数に入ってるだけみたいなことは、団体行動の必然性なのだそうです。
 質的人員になる人と量的人員になる人とには、才能のちがいややる気の有無があるように言われますが、必ずしもそうだとは限りません。サルの社会では体の大きいオスの方がボスの才能に恵まれていると言い切ることができますが、小さなオスも別のサル社会でたまたま自分より大きなオスがいなければ、ボスになる才能を発揮できます。飼い犬も家畜として従順な個体とそうでない個体という分け方はあまり役に立ちません。このイヌはボスに向いているから飼い馴らせないという話しはあまり聞いたことがなく、ヒトとイヌが良好な関係を築くにはヒトのリーダーシップが重要になります。あるいは、ハトや渡り鳥の帰巣や渡りにおいて飛行の先陣を切るのはいつも同じ個体であると決まってはおらず、ほとんど成り行きでリーダーが決定します。
 筆者の経験では、同人誌を作るサークルでは筆者は中心的な位置づけにいることが多かったですが、会社のテニス部では単なる頭数で、従順で目立たない存在でした。ヒトは集団で行動するとき、質的人員と量的人員を必然的に産むものだが、ヒトがいくつかの集団に所属する場合、すべての集団で質的人員でいられるとは限らないようです。もしそういう人がいたとしたら、それは不得手なことは避けているのでしょう。
 集団においてリーダーシップはひじょうに重要なように思われますが、そうとは限りません。質的人員の尻をたたいてリーダー風を吹かせることによってメンバーのやる気を削ぐことも多々あることです。また、集団のおかれる状況というのは不変ではありません。ひとりのリーダーや一定の質的人員のやり方が功を奏したからといってそれが永続的であるとは限らないのです。様々な才能や考え方を擁し、変化に対応することが重要です。量的人員も状況が変われば質的人員に変じることもあるので、軽んじられないのです。
 筆者が同人誌を作っていたころ、筆者が言い出しっぺだったので最初は編集を担当しましたが、自分がそのポジションにこだわり当然のことのように居すわっていては、メンバーの中で本作りは形骸化してしまうんじゃないかという恐れを抱いていました。それ以前、高校在学中にも手作り同人誌を作っていましたから、同人活動はまったく初めてってわけじゃなかったもので。そこで編集は毎号持ち回りで、サークルの会長は他の人にお願いして会報作りを会長にお願いしました。編集者は、各号のサブタイトルを決め、投稿者が申請したページ数をもとに台割りを作成するのが主な仕事で、諸事情で細々とした作業に携われなくても編集を担当できるようにしました。これで質的人員と量的人員の差は顕著でなくなり、サークルは魚の群れのように一様で一丸となって活動できるんじゃないかと考えたのですが、面付や表紙の原稿作り、印刷入稿といった作業では動けるメンバーはいつも決まっていました。遠隔地からの投稿もありましたし。ただ、このやり方の善し悪しは判りませんでしたが、同人活動は12年続き、半年に1号という刊行ペースを最後までまっとうできました。今でも時おり活動再開を欲する声が届きますが、再開するなら前回の続きの号から、やはり編集持ち回りでやりたいですね。

 伝統的な文化活動によく見られる傾向として、時代と共に同士が減って行き活動が緩慢になり、悪くすると消滅してしまう。その大きな要因は、集団の中に存在する権威の頑固さです。質的人員が古き良き時代にこだわり続け、集団を取り巻く環境の変化について行こうとしないんですね。最近の若者は飽きっぽい、自分たちだけでまとまって広い世界に飛び込んで行こうとしない、などと新しい世代を批判し、集団隆盛期を築いた自分たちの手柄ばかりを振り返るわけです。文化の火を絶やさず受け継いでゆかねばならないと言いながら、若い世代を受け入れようとしないのはじつは古参者の方なんですね。
 集団の中の質的人員と量的人員は固定的であるとは限りませんし、それが良いとも限りません。また同じ人間がどんな集団でも必ず質的人員になるとも限りません。とめどなく変わり続ける自然環境の中で、それに対応するために野生の生き物たちは種類を増やし、絶妙な棲み分けをしてバランスを維持しています。比較的気温の低い年には、低温に強い種が勢力を拡大し、気温の高い年には恒温に強い大食漢が頑張って伸び放題の葉をもしゃもしゃ食います。自然環境の変化には気温だけでなくひじょうにたくさんの条件がありますから、野生にはじつにたくさんの種類の生き物が棲むことになるのです。
 人の作る集団においても、あるタイプの個性が頑張る時期と、別の才能が頑張る時期といった変化が生じるのが当たり前で、質的人員が固定的であることが良いとは限らないのです。集団を長く続けたいのなら、その必要があるのなら、集団を取り巻く変化と人員構成ということにも目を向ける必要があると思います。

希少生物の保護のこと

2014/02/13


 自然界には、今まさに滅びゆく生き物というものがいます。それらは絶滅危惧種としてレッドリストあるいはレッドデータブックに記載され、採集禁止といった保護措置がとられています。生物の絶滅の原因は生活環境の変化です。気象条件の変化や餌の減少、その生物の生態を脅かす地質あるいは植生の変化、外来生物の脅威など。人間以外の生物は特定の環境に適応して生きていますから、環境が変われば勢力が衰え、最悪の場合滅亡します。
 今いる生物が絶滅するという出来事はひじょうに悲しいことです。その生物を死滅に至らしめる環境の悪化のことを考えると憂鬱になります。しかしながら自然環境は一定ではありません。水と空気が循環し、地質も長いサイクルで循環し、大陸はゆっくりと移動を続けています。森林が発達する地域があれば砂漠化が進む地域もあります。生物は環境に適応して進化し繁栄し衰退し滅亡して行き、また新たな種が栄えます。
 生物の絶滅というニュースは、悲しいですし人間による自然破壊を思い起こさせます。しかしながら人間が自然に手を加える以前から、生物は絶滅を繰り返してきたのであり、どの時代にも絶滅危惧種は存在したのです。
 諸外国との交流が盛んになり、外国の資源や生き物が輸入されるようになると、日本固有種の多くが外来種被害に遭遇し、衰退または滅亡してゆきました。日本の自然環境はたくさんの外来種で満ちあふれています。そしてそうした興亡の後も生態系のバランスは保たれています。これらの現象は人間が観察しうるだけの変化であって、人が関知しない大むかしから生き物は絶え間なく移動拡散を続け、飽くなき興亡を繰り返して来ました。
 であれば、生物の絶滅は仕方のないことであって、悲しんだりその保護に努めたりすることは虚しいだけなのでしょうか。もちろんそんなことはありません。人は自然環境なくしては生きて行けません。地球全土を人工環境に変え自らの肉体も機械化して自然は不用なんてのはSFの話しです。自然は大切に守るべきものであり、開発には注意深くあるべきです。生物の衰退や絶滅は、自然環境が適切に維持されていないことへのバロメーターにもなるので、悲しい事実からは目をそらさず自然保護に努めるべきです。
 ただし、生物の衰退や絶滅の多くが人間のせいではないことも事実です。どの生物の衰退が人間のせいで、どれがそうではないのか。あるいはどの生物が衰退しており、どれが繁栄しているのか、そういうことも知った上で自然保護について考えなければ、ただ単に採集を禁止し、緑を増やそうとしたところで上手く行くとは限りませんし、そうした行為のせいで生態系にダメージを与えることもあるでしょう。生態系のバランスはじつに複雑で、人間が容易に研究しつくすことのできるものではありません。なにをどうすれば良いのかについても、多くの科学者で意見が分かれるところでしょう。ただ、幾多の経験の蓄積が、自然保護についてもより適切な方向へ人々を導いていることは確かでしょう。

 具体的に、生物が絶滅に瀕するとはどういうことなのでしょう。繁栄している生物に比べて棲息個体数が少ない、いわゆる希少種であることが絶滅に瀕しているということなのでしょうか。また、充分な棲息個体数いれば絶滅の心配なんてないのでしょうか。
 最近比較的大きな話題になったのは、日本のトキという鳥の絶滅ですね。まだ完全に絶滅してしまったわけではないかもしれませんが、そう長くはもたないと思われます。19世紀にはアジアに広く分布していたのですが20世紀に入ってから急速に衰退してしまったそうです。トキの衰退と人間の増加は無関係でないことは確かですが、人が増えても変わらずに繁栄している鳥もたくさんいますから、トキの実態だけを見て自然破壊の程度を悲観するのは早計です。近年、その絶滅を防ごうと数少なくなったトキを人工環境で管理し、繁殖を促す努力が行なわれているようですが、それはおそらく絶滅を少し先送りするだけのことでしょう。現在の環境に適応できずに急速に減少してしまった種が、再び繁栄を取り戻すことは考えにくいと思います。トキの繁栄をもとに戻すには、繁栄した時代の自然環境をそっくりそのまま復元する必要があるでしょうし、自然を復元したところで今となってはわずかに残された個体同士の近親交配の繰り返しで種の劣化かが進むだけでしょう。
 トキの衰退は目に見えて判りやすい例ですが、ウマやサイなどの奇蹄目の大型動物たち、ゾウの仲間、大型クジラの仲間もすでに絶滅に瀕していることをご存じでしょうか。彼らは前の地質年代である新生代第3紀に大繁栄したひじょうに進化的な哺乳類です。彼らこそが哺乳類の最先端です。他にも大型食肉目の仲間や類人猿の仲間など、新生代に隆盛を誇った最も進化的な動物たちは、現在ことごとく衰退してしまっています。彼らの絶滅はトキほどには差し迫ってはいませんが、かつては見渡す限りのウマの群れ、見渡す限りのゾウの群れが大地を疾駆していたと言いますから、新生代からするとその衰退ぶりは致命的です。ある専門書には、人間がどんなに手を尽くしても、こうした進化的な大型哺乳類は数万年以内に滅亡するだろうと書かれてありました。長い地質年代からするとひじょうに短い数万年の間に、彼らはどれだけの化石を残すでしょう。遠い未来の古生物学者が化石を調査した場合、学者たちは、奇蹄類やゾウ、クジラ、大型肉食動物、類人猿などは新生代のうちにほぼ絶滅しており、その後極めてわずかの生き残りが短い間生存したに過ぎないと判断するでしょう。
 トキは19世紀には繁栄しており、現在に至るまでに壊滅的な衰退を迎えましたが、ウマやゾウの衰退ぶりはそれほど顕著ではありません。その他の新生代に隆盛を誇った進化的な哺乳類たちについては、化石動物の出土の程度を調査してその衰退ぶりを解析したものです。そして化石動物と現生種とでは種類がちがいます。マンモスがたくさんいた時代に比べてアフリカゾウは衰退していると、どうして判断できるのでしょう。

 現代は、地質年代表記で更新世第4紀とされます。第3紀に繁栄した哺乳類や鳥類は、もっとも進化した大型種が衰退し、現在は小型化多様化という繁栄を築いています。これは中生代第2紀に繁栄した爬虫類とも同じ状況です。かつては恐竜を輩出するまでに進化した爬虫類も、今では小型動物が主流になり、中生代とはまったく様子のちがう繁栄をものにしています。爬虫類、鳥類、哺乳類は、総じて繁栄してはいますが、かつてのような支配的な位置づけからは降板しています。更新世第4紀つまり現在に生物として支配的な位置にいるのは、ご存じ人類ですね。
 人類は、哺乳類をはじめ他のあらゆる動物たちとは異なり、たった1つの種でありながらあらゆる環境に適応し世界的な繁栄に至ったので、他の動物群のように様々な環境に応じた多種多様の種を構成することはありませんでした。
 陸棲脊椎動物の進化の歴史は、世代交代の様子がひじょうに明瞭で判りやすく、地質年代ごとに両生類→爬虫類→鳥類→哺乳類→人類と推移しています。この変遷をねじ曲げて、現生の進化的な大型哺乳類が再び隆盛を誇る時代を取り戻そうとしてもそれは不可能です。あるいは映画「ジュラシック・パーク」のように太古の松脂から抽出した恐竜の遺伝子からクローン培養した恐竜を蘇らせたとしても、時代を中生代に戻すことはできません。
 トキのような鳥の絶滅劇も、あるいは上昇気流の発生する崖に営巣する大型猛禽類の衰退も、人類による自然破壊の結果というよりも、生物の世代交代の終焉の様子を目撃しているということなのかもしれません。その幕切れに人類は開発等で加担したのかもしれませんが、それ以上にもっと大きな衰退の要因があったのです。それも人類の繁栄のせいにして、地球の生態系を守るための最善策は人類の滅亡であるとするのが正しい判断なのでしょうか。すでに哺乳類の時代から人類の時代に推移して久しい今となって、人類が地球からいなくなり自然破壊がなくなれば、ふたたび哺乳類の時代が到来するのでしょうか? 生物の進化とはそんなふうに可逆的であるとは思えません。

 希少生物を保護し、その数を増やせばそれで何が良いのでしょう。トキが再び繁栄すればそれで豊かな自然が蘇ったということになるのでしょうか。残りわずかなトキ同士を交配させ、個体数を今よりも増やすことに成功したら、それがトキの繁栄につながるのでしょうか。かつて彼らが繁栄していた頃とすっかり様変わりしてしまった自然環境で、彼らは再び優位を取り戻せるのでしょうか。取り戻せるのだとしたら、そもそも衰退しなかったのではないですか。
 むかし何かで読んだのですが、ミヤコタナゴという絶滅が心配される日本固有の魚を守るために採集が禁止されたのだが、棲息する川の護岸工事については規制がなく、その工事によってミヤコタナゴの繁殖に欠かせない二枚貝が棲息地からいなくなっているといったことが書かれてありました。これが事実だとすれば、政治家お得意の漫才がここでも炸裂したってことですが、生物を絶滅に追いやるには乱獲よりも棲息地の環境破壊の方が手っとり早いことは誰にでも解ります。ミヤコタナゴもトキと同じように保護して繁殖を促しても、棲息に適した環境──繁殖に必要な二枚貝(タナゴは生きた二枚貝に産卵します)が充分に棲息し、競合するライバルが多くなく、餌も充分にある──がなければ衰退します。そしてミヤコタナゴのいる川は人が開発しなければ同じ条件を維持し続けるとは限りません。魚や他の生き物の顔ぶれも徐々に変わって行き、ミヤコタナゴの安住の地は確実に失われてゆくでしょう。
 希少生物あるいは絶滅危惧生物は、種の変遷の変わり目にいる生き物です。現在繁栄している生物は今のところ少々のライバルがいたところで、あるいは気温が多少変わったり餌の質や量が変化したところでそれほどのダメージは受けません。しかし繁栄種も未来永劫の繁栄が約束されているわけではありません。生物の世代交代はゆっくりとしかし確実に生物を変えて行き、様々な動植物で構成される自然環境を変えて行きます。生物の顔ぶれは変わり続ける、つまり繁栄するものもいれば衰退するものもいるという状況はいつの時代も変わりません。

 希少動物の保護を考えるとき、重要なのは、衰退した種をただ感情的に保護するということではなく、その要因である環境の変化をしっかりと観察し、環境保全という観点からどう対処してゆくべきかを考えねばなりません。希少動物の保護のためにその天敵を殲滅するとか、天敵が住みにくいように環境をいじくるとか、そういうことが正しいとは思えませんよね。衰退している生物にとっては天敵でも、べつの多くの生物にとってはなくてはならない生物であるかもしれません。前述のミヤコタナゴの例のように採集は禁じるが経済優先の開発は奨励するのであっては絶滅を早めるだけです。
 希少動物がなぜ衰退したのか、似たような形態と生態の他の生物がなぜそうでないのか、それは現生生物の衰退や絶滅が単純に人間の開発や破壊のせいではないことを示しています。衰退している生物を保護というある生物のためにだけ片寄った操作を行なうこと自体が自然環境にダメージを与えることにもなりかねないのです。
 筆者が幼少の頃は、ネズミやヘビが人家の周囲に普通にいました。ハエも家中を飛び回っていました。ところが町の下水工事が充実し家の構造も変化するとそれらの動物はいなくなり、カラスがどんどん増え、ハエの代わりにゴキブリが増えました。……ネズミやヘビやハエの都会での衰退は憂慮しなくても良いのでしょうか?
 トキが田畑の害獣であったり人を襲う有毒動物であったりしたらどうでしょう。人はむしろその絶滅を願うのではないでしょうか。
 いずれにしろ人間はその存在自体が自然環境を脅かしています。人の衣食住とは開発であり破壊であり乱獲です。では地球から人間が出て行ったら……。自然環境のダメージは減少するでしょうが、人類がいなくなった空席を埋めるべく新たな競合と定行進化が促され、衰退している生物は一気に死滅するでしょう。人間がいなくなれば衰退生物が死滅してもかまわないですか?
 どんな生物が栄えてどんな生物が衰退しているのか、それを調査しレッドデータを作成することは自然環境を守ることの1つの方法であっても、それがすべてではないですし、衰退生物のみを優遇する保護対策がまた新たな破壊を産むこともあり得ます。それによって別の種が衰退したら、今度はその種を手厚く保護するのですか。つまり希少生物の保護と自然環境を守るということは別物であることを認識し、もっと広い視野を持って自然と接してゆかねばならないということです。

喫煙の話し

2014/02/22


 筆者が子供の頃から成人に至るころまで、日本人男子の喫煙はごく一般的なものでした。未成年者の喫煙が違法であるのはむかしも変わらず、喫煙が体や脳の働きによくないことも古くから言われていました。ところが喫煙、飲酒、賭博は政府が仕切る国民の娯楽として承認されており、それらは国が運営し民間企業は携わらないものだったのです。
 未成年者が喫煙すると脳の発達を阻害しますし、成人であっても吸いすぎはよくないとしながらも、成人男子の喫煙は当たり前で、筆者は子供の頃から副流煙を満喫して過ごしてきましたし、人込みの中で服を焦がされたり手に火傷を負わされたりしたこともありました。大人になると、駄賃のことを「たばこ銭」と称して渡されましたし、理髪店では散髪のあとお店の人から当たり前のように煙草を差し出されました。それを拒むと気を悪くされることもありました。「もっといい銘柄吸ってらっしゃるんですか、こんな安物は吸えないですか」なんて言われることもありました。
 筆者は喫煙しません。若い頃は、喫煙しない男子は変わり者か大人になれない軟弱者と世間では思われていたようです。喫煙者は吸わないものをバカにし、煙草代もケチる金の亡者であるとか、吸い初めの刺激に耐える勇気もない軟弱者といった言い方で罵りました。筆者の車は、会社の同僚を乗せると長い間たばこの臭いでコテコテでした。車に付属している灰皿の掃除も苦痛でした。
 筆者が結婚する頃、喫煙に対する世の中の認識が変わり始めました。煙草は肺ガンの直接原因になるということで、アメリカでは健康被害を知りながらこれを販売していた煙草会社が起訴されて有罪になり、それから副流煙による被害が周囲にも及ぶこと、妊婦や育児中の親の喫煙が幼児に有害であることが大きく報道され、煙草の包装にも健康に対する注意書きが表記されるようになりました。そして現在では、喫煙しないことで見下されるような風潮はなくなりましたし、町中でのくわえ煙草はマナー違反という条例を敷く市区町が増えました。イケメンの西洋人俳優を起用した煙草のCMも消えました。多くの公共の場が禁煙エリアになりました。

 喫煙者には肩身の狭い時代になりましたが、それでも煙草は酒と並んで社会から手厚い待遇を受けた、なんともうらやましい習慣だと思います。
 そもそも喫煙の必要性とは何なのでしょう。カッコイイから、精神安定に必要だから、そうした理由を聞いたことがあります。ガムや飴と同じで口寂しいのを癒すために吸うそうです。ガムや飴よりも喫煙の方がカッコイイのでしょう。喫煙者は精神安定剤を常用しなければならないほど高度な精神活動に耐えているのでしょうか。喫煙しなくても正常を保てる我々吸わない者は、喫煙者よりも心労もなく高度な精神活動もしていないということなのでしょうか。精神安定に菓子類やたくわん、梅干しを食する人もいます。しかしその多くは人前で無遠慮にその習慣を披瀝したりはしません。多くの人たちが食事以外の時間は何も口にせず正常を保っています。たまにコーヒーやお茶を飲む人はいますが。
 煙草は、喫煙者のみならず周囲の人にも健康被害を及ぼしますし、生活環境をヤニで汚し、悪臭を蔓延させます。取り扱いの不注意から他人に火傷を負わせたり火事になったりします。それほどの弊害を伴うのに公然と利用が認められているところがすごいです。菓子類やたくわんが有害物質をまき散らしたり出火の危険性があったりしたら、絶対に利用を認められないでしょう。まったく無害でありながらも、臭いがひどいということで公然とたくわんを食べることはマナー違反だと思われています。人の迷惑も顧みない非常識な行ないだと。それなのに悪臭や健康被害をまき散らし火傷や火事の危険性が伴うにも関わらず喫煙は非常識とはされません。喫煙者は王様ですか? この大きな特権はなんなのでしょう。筆者から言わせると、目の前で煙草を吸われるだけでケンカを売られているようなものです。喫煙者の満足のために我々は悪臭や健康被害の危険性を耐えねばならないとはあまりに理不尽です。
 多くの公共の環境で禁煙になりましたが、それで喫煙者が嘆くのを聞くのもうっとうしいです。これまで散々我慢させられてきてさらに愚痴を聞かされてもいい気はしません。それに有害なもの有毒なものを公然と吐き散らすのは慎むべきだというのは、社会生活において当然なのではないでしょうか。
 公共設備のなかには喫煙コーナーが設けられていることもあります。すごい優遇ぶりですね。うらやましい限りです。筆者は鉄道員で、一部の駅にもたいへんご立派な喫煙用の建造物が設置されています。その中の掃除をさせられる清掃係員は大変です。ある意味命懸けです。そこまで他人の世話になりながら、喫煙者は設備が狭い、数が足りない、換気が悪いと文句を言います。現在、筆者の勤務する駅には喫煙コーナーがありませんので、その清掃はまぬがれていますが、コーナーがないことでクレームを言われ、謝罪する毎日です。それでもホームには吸殻が落ちていますし、喫煙者を見つけた旅客が、それをこっちにクレームとして持ってきます。役務室にいてホームまでは目が届きません。喫煙者の存在はまるで呪いです。
 小さな駅では会社が清掃員を雇わないので、我々がホームの掃除をします。吸殻なんて小さなゴミです。しかしながら精神衛生上はひじょうに巨大なゴミです。禁煙というルールが守れていないことへの人々のいらだちは些細なことではありません。また公共の場を汚さないというマナーを守っている常識ある多くの人々の気分を暗くするものでもあります。
 社会には、煙草以外にも有害物質をまき散らすもの、騒音や悪臭を発生させるものはたくさんあります。たとえば車の排気ガスや騒音、しかし車はその弊害に優る利便性があるものですし、公害や騒音の逓減の努力も成されてきました。煙草は自己の満足のために周囲に危害を加えるだけです。
 周囲に迷惑をかけ、周囲に多大な忍耐を強いても自分さえ満足できればそれでいい。喫煙とはそういう行為です。美味そうに紫煙を吐く人の姿を、筆者はカッコイイとは思いません。それはバイオレンスやホラーと同じで、映画や小説の世界でこそ輝くものの、現実世界ではじつに無様で残念な行為です。人の心の中には、そうしたダークな欲求があるのは事実です。かく言う筆者もホラーやバイオレンスは大好きです。でも、現実世界での暴力や流血は、ダークな欲求を充足してくれるものではありません。虚構の世界での表現だからこそエキサイティングであるわけです。

 かつて、喫煙の弊害が今ほど知れ渡っていなかった時代、公共意識が今から比べると劣っていた時代には、喫煙はそれほど精神衛生上の脅威ではありませんでした。ところが、その害悪について充分な情報が行き渡っている現在であっても公然と喫煙するというのは、やはりどう考えても恥ずべき行為でありますし、周囲に対する不当な暴力です。自室やそれが許されるところでこっそりと楽しんでください。
 筆者の知人にも喫煙者はいます。しかし筆者の車や家の中での喫煙は認めません。レストランやカフェで、吸ってもいいか、と許可を求められても困ります。気が小さい筆者は、拒否できませんが、煙でせき込むこともあります。そんな時に、吸ってもいいと言ったじゃないか、などと気を悪くされても困ります。許可した以上責任はこちらにありますか? せき込むなんて失礼ですか? ……喫煙者は王様ですか。
 というわけで、これからも禁煙場所の吸殻を掃除し、喫煙者の愚痴を聞き、喫煙マナーのクレームに謝罪する駅の仕事を続けさせていただきます。

| 1/4PAGES | >>

索引


目次

スネさん リーザさん けもの 庭虫
雑虫 クモ 直翅系 半翅系 膜翅系 鱗翅系 鞘翅目 毒虫 魚たち 無脊椎
両生類 カメたち 絶滅動物 くさばな 庭草 雑草 高山植物 飼育と観察 ヒト □飼育動物データ




 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< July 2019 >>

サイト内検索

NEW ENTRIES


Amazon Kindle 電子出版のご案内
cover4.jpg


★講読には
Kindle 読書アプリ
が必要です。



sijn.jpg






recent comment

recent trackback

プロフィール

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM