1_萌萌虫雑記帳.png

自然界

 ヒトの中に、自然界という章を加えることにしました。ヒトも自然の産物のひとつであるがゆえ、人間社会だけを見渡してもヒトの一部しか見ていることになりません。人間界とはいわば自然界における人間の縄張りというだけのものです。
 とは申しましても、自然界におけるヒトとは、といったテーマにそって何か書こうというつもりもありませんで、要はこれまで人間界のカテゴリーに入れて書いていた生物の移動の話しやDNAの話しが、そのカテゴリーからはかけ離れているのではと気づいたからというのが、新章を設けることにした一番の理由ではあります。
 では、自然界という章がヒトの下に位置する以上、ヒトと自然の関わりだとかヒトから見たあるいはヒトを主体とした自然界について書くことになるのかというと、そのつもりもあまりありません。そのように意識しなくとも、筆者と言うヒトが書くのですから、必然的にヒトの目を通した、ヒト主体の自然界の記述になるでしょう。
 既成概念の多くが、むしろヒト主体に自然界を観すぎているような気がします。人間も自然の一部だから自然を大切にしなくちゃいけない、野生の生き物をみだりに移動させて外来種被害やDNA汚染を招いちゃいけない、人間による環境破壊で絶滅に瀕した生物を手厚く保護しなくちゃいけない。これはら自然を愛し大切に思う素晴らしい考え方ではありますが、一方的な見方だけでは、善意も弊害になりかねません。外来種は在来種に悪影響を及ぼすものだからと言って、すでにその地に定着している外来種をせっせと駆除することはむしろ自然破壊でしょう。そもそも在来種と言われる種も、その多くがもともとは外来種でした。生物は進化とともに適応放散してゆくものですからね。緑化促進、絶滅危惧種の保護も慎重に実態を調査して行なわないと逆に自然を破壊してしまうことにもなりかねません。
 こうしたことを書くと、筆者が今ある自然保護意識を批判している、否定しているように思う読者もいるかもしれませんが、筆者はナチュラリストとして人一倍自然の尊さを認識し、その保護に肯定的であるつもりです。だからこそその方法について注意深くあるべきだと考えるわけです。

 この章ではまた、筆者の研究観察対象ではない自然についても書いてゆこうと思います。野鳥や石ころや哺乳動物といったもの、あるいは草原や山、海といった研究観察対象の生活の舞台となるもの。虫ひとつ観察するにもそれだけを見ていても姿形が解るだけです。その食性を知るには食草の生態を学ぶ必要がありますし、発生状況を把握するには気象について知る必要があります。考えてみれば、鳥や獣や自然を研究観察対象外であるとすることの方がナンセンスです。ある虫について観察し記述しているつもりでも、それはすでに自然の一部、自然のある側面について観て書いていることなのですから。

自然保護のこと

2014/02/11


 ナチュラリストを自称する筆者は、当然のことながら自然が大好きです。都会暮らしにうんざりして今の山岳地に住まいを求めました。とは言うものの筆者が自然あるいは野生の達人かというとけっしてそうではありません。若いころはよく山歩きをしましたし、虫や小さな生き物を採集して飼育するといったこともたくさん経験しています。しかしながらそれらの経験はけっして他人に自慢できるほどのものではなく、サバイバルチックなレジャーが大好きってほどでもないです。

 重装備で俊嶺に挑む山男(女性も含む)はすごいと思いますし、海や渓谷で釣りをする人、ログハウスに住んでいるような人を見ると感服します。飯盒で飯を炊いてテントで寝る経験くらいはありますし、釣りもやったことはありますが、筆者の数少ない経験なんてお試していどのものです。
 また、さまざまな虫や小動物の飼育繁殖を手がけ、独自の飼育法を確立し、そのためのツールを開発しているような人も筆者にとっては畏敬の対象です。
 筆者くらいの歳になると、そうした数々の達人たちの多くが年下でして、自分は年下の達人たちに感動をもらっているばかりです。歳の分だけたくさんの生き物の飼育を手がけてきましたが、その多くが単にストックするだけに終わっています。本物を自分の目で見て触った経験は、写真や動画の情報とはまったくちがいますが、まぁそれだけです。
 さまざまな生き物を見ていると、それだけで大自然の脅威を満喫できます。人間は自分の都合のいいように自然を開発し、自らの生活環境を自然から遠ざけてきましたが、将来的には大自然と人造物が絶妙に融合し調和した都市と社会が実現するといいな、なんて思います。
 筆者は自然が好きですよ。でも、日々自然と触れ合って生きている人、レジャーや研究で野山に分け入り自然を熟知している人たちからすると、下手の横好きみたいなもので無知もいいとこです。いろいろ生き物を飼っていて、その生態についていくらか知っていることで、自然の達人のように思われるのは正直本意ではありません。SF作家じゃないけれど、筆者の自然に対する考察はそこそこの学識に基づいた想像であったりします。生き物の生態の一面を見て、その生態系における役割がどんなものであるかを想像してみるわけです。ガイア理論によると地球上の生態系がひとつの生命であるそうですが、そうした想像が生まれるのもよく判ります。それほどに自然のネットワークは絶妙であり、地質年代のさまざまな惨劇に耐えて今日まで生命を維持してきたのですから。大自然の奇跡の歴史は、知れば知るほど単なる自然の産物ではなく大きな意志の介入を想像させます。
 自然における生態系のメカニズムを生物学の知識だけで考察するのには限界があります。理論物理学における統一理論や相対論の考え方が、考察の助けになります。個々の生き物を観察し飼育するには、学術的知識や飼育ノウハウを細目に分けて承知することが必要ですが、その生物が本来属する生態系という話しになると、想像力が必要不可欠になります。そして生態系におけるその生物の果たす役割というアプローチからその生物を振り返ると、また新たな側面が見えてきておもしろいものです。
 筆者のこのようなものの見方考え方は、実用性に欠けることが多いので、筆者がいつまで経っても素人のままで業界の達人になれないのは道理といえます。
 電子工学におけるサイバネティックの考え方では、人も電脳システムの一部とされますが、これも自然の考察にたいへん役に立ちます。人は多くの人造物を製造しましたが、それらも突き詰めれば人が生活をするためのツールであり、サルが手の届かないものを取るのに使う棒の延長にあるものです。こうした考え方では、都会よりも自然が好きという理屈は成り立たなくなります。人工の環境も自然の一部に過ぎないからです。それに都市の中にも人が制御しきれない自然はたくさんあります。雑草も生えれば病原菌も繁殖しますし、人がいじったおかげで増長するような自然さえ少なくありません。自然が好きというなら、手つかずの自然という条件づけをしなければ、話しは成り立ちません。
 自然保護という言葉をよく耳にしますが、人間にできる自然保護とはいかほどのものなのでしょう。神だか宇宙人だかの高次元の存在が地球を見降ろした場合、そこにはヒトという支配的な立場をとる生物が繁栄していて、営巣のために星ひとつの気象にわずかな影響を及ぼす程度の開発を実践するだけの能力があるといった評価をするでしょうか。自然に優しいとかなんとか言っても、じつは優しくしてもらっているのは人間の方ですし。どんなに立派な建造物でも経年疲労や腐食といった自然現象をまぬがれませんし、大規模な災害が起きると多くの人造物が自然に帰します。
 そうした中で、我々はどう自然保護をしたら良いのでしょう。自然保護とか自然に優しくとかいった考え方は、ともすればそれ自体が人間の奢りなのではないでしょうか。……なんてことを言ってたらまったく前に進めませんね。人が自然保護を大事に思うのは、自然破壊のしっぺ返しを恐れるからでしょう。山を削ってアスファルトで埋めたら洪水や地滑りが起きた、地下水をくみ上げたら地盤沈下が起きた、生産のために大量の燃焼を行なったら気候が温暖化して異常気象が起きた。数々の失敗が授業になって自然保護という考え方が発達したのでしょう。
 筆者のようなナチュラリストにとっては、数々の獣虫類が安息する手つかずの自然を、人家の身近なところに残しておいてほしいというのが理想なのですが、それでも害虫や病原菌はやっつけて欲しいです。筆者の大好きなスズメバチも人家の近くで営巣して隣人に被害が及べば撃退したいです。これは身勝手というものでしょうか? ならば人の存在、人間の営みこそが身勝手そのものです。
 科学技術の進歩は大好きです。パソコンやスマホのない暮らしなんて考えられないですし、スポーツカーに乗ってガソリンをまき散らしたくもあります。自然破壊や資源の浪費には賛成はできないものの、科学技術の進歩の代償としてそれが伴うなら、あるていどは仕方がないと思いますし、そうして得られた科学技術で、失った自然の回復や自然破壊の少ない技術の進歩を追求すればいいと思います。ちょっと誤解を招きそうな発言ですが、破壊も殺生もなしに生きて行ける人間はいません。
 で、今後の自然保護に望むことですが、破壊に対するしっぺ返しからの学習だけではなく、進んで自然と調和する方向で新しい都市構想を考えて行くべきだと思いますよ。使った分だけ還元する、奪った分だけ返還するというサイクルを構築しながら、生態系に与える影響を可能な限り小さくしつつ自然の中に進出して行く。高速で大容量の交通機関と情報ネットワークを活用して地域格差を少なくし、都市への人口集中を解消して行き、汚染や公害を逓減する。ひとむかし前なら、筆者の住んでいるような山岳地なら、木に抱きついているくらいしかすることがなく文明生活ってなに? みたいな状況でしたが、今ではインターネットもケーブルテレビも思いのままですし、通販で何でも届きますし、外国の珍しい生き物まで居ながらにして入手できます。科学技術の進歩がこれほどまでに田舎暮らしを文明的にしてしまったのです。
 これからの文明社会は、都会という概念を小さくして行き、すぐそばに自然が広がる生活環境を目指して行くべきだと思います。平野部に四角く区画した都市を築くのではなく、六角形の組み合わせの区画はどうです? ボードゲームのマス目のヘックスや、蜂の巣のハニカム構造みたいな感じです。
大小の六角形を組み合わせた区画なら、山の稜線や河川の蛇行にもフィットした街づくりができますし、理想的に自然に溶け込めると思いませんか? 合わせて家やビルも六角柱にしましょうか。六角形という構造体はひじょうに強靱で安定してますし正三角形の組み合わせで構築できますから組み立ても容易で確実です。道路は基本的に三叉路で交わりゆるやかに蛇行しますね。
 ……話しが支離滅裂で飛び飛びですか? それでいいんです。筆者がどのように自然というものを認識し、人との関わりをどのよに考えているのか、何となく分かる気がしていただければ。
 守る、壊さない、節約する、自粛する、といったお行儀よくするという考え方だけでは、人が着手する自然保護は何も前に進まないと思います。これまでの科学技術の進歩は自然破壊を伴うものでしたが、破壊を減らし消費したものを還元する方向での進歩と、自然との調和を人間は考え得るはずです。自然を知りそれを征服するという考え方は、今や幼稚で古い考え方です。多くの人々がそう思っているはずです。技術によってより豊かな自然を身近なものにする、それがこれからの開拓です。
 人はこれからも前に進みます。だんだん利口になって、少しずつ仲よくなって。そしてまた失敗を重ねます。それでもくじけずに前を向いて歩みを止めないでしょう。そのための話し合いをもっともっとしましょう。強力なネットワークが個人と世界をつなぐ時代です、規模の大きな実のあるコミュニケーションが可能のはずです。

緑化促進のこと

2014/02/18


 人間は、建造物の製造や紙の製造のために森林を伐採してきました。樹木を切り倒すのにそれほど時間はかかりませんが、樹木が育つには長い歳月がかかります。そのことを配慮して木を切らないと収支決済が合わなくなって森林はハゲ山になってしまいます。ハゲ山は地滑りや洪水の被害の原因になるそうです。また、大量の酸素を発生する密林の開発は大気の酸素含有量を減らしてしまうそうです。そもそも森林伐採は、てっとり早い生態系の破壊です。植生(植物の棲息状況)は生態系の基礎を構築するものですから、それを破壊すると様々な生き物が生きてゆけなくなります。
 人間は古来より木を伐採して来ました。斧でたたき、ノコで引いて巨木を倒し、細かく解体して家屋や様々な道具として利用してきました。また落ち葉や枝を集めて煮炊きや暖房のための燃料にもしてきました。木こりさんたちは、森を愛し木を慈しんで来ました。大むかしの木こりを森林の破壊者とののしった人はいないでしょう。ビーバーという動物も木を切り倒します。かなり大きな川を木犀のダムでせき止めて流れのゆるやかな水域を設け、そこに水中から出入りできる島状の巣を作ります。すごい建築技術ですね。でもビーバーが自然破壊の元凶であるという話しはあまり聞きません。
 人が手入れしない山では、マツタケが育たないそうです。人もかつては山と調和して生きていたわけです。それが林業が会社組織になり、森林伐採で大きなお金が動くようになってから、木々の成長を伐採が圧倒してしまい、そこら中にハゲ山が出現するようになったみたいですね。

 緑化促進とは、人間が破壊した森林の復元に取り組む運動です。伐採を自粛して植林を推進し、ハゲ山を元に戻そうというわけです。そんなことが可能なのでしょうか。植林は可能でしょうが、経済を担う伐採を自粛するなんてできるのでしょうか。再生紙の活用によって伐採を減らせるのでしょうか。食料資源は、経済効果を上げるために過剰に浪費され、多くの資源が人や家畜の栄養になることなく生ゴミになりますが、樹木の伐採もじつはそんな感じだったのでしょうか。多くの樹木がお金を捻出するために粗大ゴミと化していたのであって、誰かが金儲けを少し我慢すれば伐採を自粛できるというものだったのでしょうか。
 緑化促進という言葉が世に知れ渡るようになってから、失われた緑は回復したのでしょうか。大気中の酸素量は確保できたのでしょうか。
 緑化はまた、都会化が進んだ場所にも緑を増やそうという試みを含みます。山だけでなく町の中にも緑を増やそうというのです。いいことですね。町ももともとは草木が繁る林や野原だったわけで、都会の緑化はハゲ山の復元に通じるものがあります。

 ところで、もともと砂漠だったところにも緑を増やそうという緑化促進もあるそうです。作物も育たない荒廃した乾燥地にですね、エアコンをたくさん並べ、夜間に発生する空気中の水分(夜露)を鳩首して大地に注ぎます。それが逃げてゆかないように、紙おむつなんかで使われる特殊なジェルで保湿して、土壌の水分を維持することで、荒れ地に土が蘇り作物が育つようになったどうです。すごいアイディアと技術ですね。これがもっと大規模になれば、砂漠を森林に変えるようなことも実現するのでしょうか。熱帯雨林を構築するには大量の雨量が必要ですから、砂漠がジャングルになるまでの革新は起こらないのでしょう。
 ところが近年、砂丘で観光地になっているところに緑が増えてきて困っているということを聞いたことがあります。緑が増えて困るっていうのもまたすごいですね。
 もうずいぶん古い話しですが、火星の極地方に寒冷地でも棲息できる苔類を植えれば、苔の濃い色が熱を吸収しやがてそこにある氷を溶かし、火星を水の惑星に変えるという構想を本で読んだことがあります。白い氷よりも濃い色の方が熱吸収性に優れているのでしょうが、火星の両極の氷を溶かして地球規模の水域を作るなんてことが可能なのでしょうか。それなら火星の極地方に水爆でも投下した方が早い気がしますが。
 砂漠の緑化が進むと、植生の色で熱吸収がよくなり、その地方の気温は上昇するのでしょうか。ただでさえ灼熱の砂漠がさらに高温になるなんてひどい話しです。こうなると緑化の弊害です。しかしながら、樹木が育つとたくさん木陰ができ、日の当たらないところに風も通ってむしろ快適な気候になるのではないでしょうか。炭酸ガスが減って酸素も増えますし。そう言えば、先の火星の話しですが、苔が繁茂するまでの苔のための水分と空気はどうするんですかね。
 人が開発しない天然の砂漠を緑化することは、果たして自然環境にとって良いことなのでしょうか。ふとそんなことを考えてしまいました。だって地球の陸地すべてを緑にするわけにもゆかないし、アフリカの砂漠の緑化に成功したら、シベリアのツンドラも緑化しないと不公平だってことになりませんかね。緑がどんどん増えて温室効果の原因になっている炭酸ガスが減ったら、地球の温暖化は改善されるのでしょうか。火星テラフォーミング計画では植生の発達によって極地方の氷を溶かすほどの温暖化を計ろうというのに、地球の砂漠の緑化は温暖化を防ぐのでしょうか。植物というものは魔法のシステムですから、火星には丁度良い温暖化をもたらし、地球では温暖化の解消をもたらすってこともあるのかも知れませんね。
 で、砂漠の緑化なのですが、緑化ということで聞こえは良いですが、自然の砂漠を人為的に消滅させるわけですから、それはそれで自然破壊にはなりませんか。砂漠が緑地になれば、筆者の大好きなサソリたちやトゲオアガマが棲めなくなりますし、ラクダだって不機嫌になるでしょう。別項で希少生物の保護の話しをしましたが、環境の変化はまた新たな絶滅危惧生物を生じさせることにもなりますしね。
 ただ、森林の伐採とちがって砂漠の緑化は単純な破壊行為ではないので、いろいろ失敗したとしても学ぶことは多いと思います。その中で自然の仕組みの解明がまた一歩前進するかも知れませんし。
 とりあえず人間というものは、何もしないでは気が済まない存在ですしね。

地球温暖化のこと

2014/02/18


 ガソリンエンジンや工場や発電所の稼働等でエネルギーを燃焼し、大量の炭酸ガスを発生させることで、大気中に炭酸ガスの層ができ、温室効果という地球温暖化の要因が生じたと言われています。それを少しでも解消する手立てとして、省エネ生活ということが喚起され、生活環境の悪化はえらいことだということで、人々はそれに賛同しています。これまでの大量生産大量消費そして使い捨て文化のツケが回ってきたのだとも言われています。
 地球が温暖化すると、南極や北極の氷が溶けて海の推移が上昇し、海岸地方は徐々に水没して行きます。小さな島々ではその状況が深刻で、人の住める土地が急速に奪われつつあるそうです。また、水没の脅威にさらされない地方でも、竜巻や水害等の異常気象が発生し、生活が脅かされています。地球温暖化は、気候の温暖化ではなく過激な気温の変化や異常気象をもたらしたようです。
 筆者がまだ若いころ、地球温暖化などといった言葉はありませんでした。生物の進化や地質の変遷について独学で書物をひもといていた頃、目にした温暖化という言葉は、むしろ好印象で表現されていました。地球の陸と海を構成する地質は、長い歳月をかけて物質が循環していますし、大陸も移動し続けています。それがもたらす気象状況は一定ではなく、地球上の環境は何度も寒暖を繰り返してきました。地球が温暖化するとき、極地方の氷河は溶けて川を下り、海の推移が上昇します。大陸の沿岸部は水没し、浅い海すなわち大陸棚が発達し、そこに豊かな生物層が発達します。これとは逆に慣例化が進むと、極地方で氷床が発達して海の推移が下がり、大陸棚は干上がり、多くの生物が死滅します。
 温暖化に伴って海水が大陸上に進出して大陸棚を広げることを海進現象と言い、逆に海が退いて大陸棚が露出してしまうことを海退現象と言います。海進現象は生物の進化を促し、豊かな生物層を育みますが、海退現象は浅い海を中心に生物の大規模な絶滅を招き、それが陸地にも派生します。そうした知識を専門書から読み知っていた筆者にとっては、地球温暖化は歓迎すべきことがらなのでした。
 話し変わって、筆者が大好きな作家で今はもう亡くなってしまった安部公房という人が書いた小説「第四間氷期」では、先の氷河期が終わって次の氷河期に至る、現在は第4の間氷期で、そのピークに向かって地球は温暖化しつつあるという設定で物語が進みます。間氷期のピークには極地方の氷はすっかり溶けてしまい、陸地の多くが水没して地球は水の惑星と化してしまう。それに適応するために人間は水中生活ができるようになるというSFでした。この小説を筆者が読んだ頃にも、世間を騒がせている地球温暖化という言葉は存在せず、それは人間の自然破壊と浪費によらず、自然現象として促進され、やがて水の惑星に至るというものでした。
 古い専門書で読んだ海進現象も、安部公房の小説も、地球温暖化は気象の自然の推移として進むとされるものでした。人間がせっせと炭酸ガスを発生させるまでもなく温暖化は進むというわけです。
 では、実際のところはどうなのでしょう。現代の科学者が、自然に進む温暖化を人間がもたらした温室効果に結びつけているだけなのでしょうか。それとも自然に進む温暖化はもっとゆるやかなもので、人間の破壊と浪費がそれに拍車をかけ、結果として様々な異常気象を引き起こすことになってしまったのでしょうか。正直なところ、筆者にはよく判りません。とくに今年の冬のように厳しい寒さを経験すると、むしろ寒冷化しているのではと言いたくなるほどです。
 何が真実かは筆者にはよく判りませんが、地球温暖化とその人為的なメカニズム、それがもたらす弊害という問題について多くの人の知るところとなったことは、ひじょうに重要だと思います。たとえ現在の温暖化がまったくの自然現象であり、人の行為はそれに影響を与えるほどの規模ではないとしても、地球全体の自然環境ということを多くの人々が肌身で感じて、それについて考えようとしたことを高く評価したいと思います。
 今後の動力エネルギーはますます省エネ化が進むでしょうし、電気自動車のようなクリーンエンジンといった発想の技術も開発が進むでしょう。そして、じつは人間による炭酸ガスの増加は、自然環境に何も影響を与えていなかった、なんてことになったとしても、それじゃあまたせっせと石油を燃やしましょう、浪費生活を促進しましょうということにはならないでしょう。それが人の学習能力というものです。
 しかしながら、国防の名の元に大規模な汚染をもたらす殺戮兵器の開発はこれからも続くようですし、戦闘機のエネルギー浪費とオゾン層破壊はなかなかすさまじいものがあります。あれを破壊ではなく救援や再建に応用できれば良いのですが。

遺伝子汚染

2014/05/13


 遺伝子汚染とは、異種間あるいは異なる地域産の同種間で交雑が起こり、それぞれの生物が本来持っていた遺伝的多様性が不可逆的に破壊されることを言います。たとえば、ある河川でコイが何らかの原因で生息数が激減したとします。このままではその川のコイが滅びてしまうということで、別のところから持ってきて放流しすると別々の川で育ったコイ同士が恋をして子孫を残すケースが生じることになり、生まれてきた子には、親が持っていた遺伝的多様性が伝わず、その情報は絶えてしまって2度と戻らないというのですね。
 同種同志の交配では、これが解りにくいですが、メダカやバラタナゴの例では、実際に遺伝子汚染によって日本在来種が壊滅的な被害にあっていることが知られています。外来種は単に在来種を駆逐するだけではなく、在来種と交配して雑種を産み出し、その雑種に生殖能力がある場合には、さらに交雑を続けながら子孫を残しやがて在来種が絶えてしまうという事態を引き起こします。
 有性生殖生物の場合、雌雄双方の遺伝情報が次世代に受け継がれても、それが全て次世代の形質として反映されるわけではありません。人間でも母親似であったり父親似であったり、隔世遺伝によって祖父の形質が多く顕現したり。遺伝情報は受け継ぐものの、それがすべて使われることはないというのが遺伝子の性格です。生物は突然変異や交配によって得た遺伝情報を、使わなくても貯めておくので、遺伝子ゲノムの中には使われないコードが山のように貯まっています。近年の生物のゲノム解析により、ヒトとチンパンジーの遺伝子情報は98〜99%同じということが解ったそうです。つまりヒトとチンパンジーを隔てる遺伝情報は、ゲノム全体の1〜2%ていどということになり、これだけ見ると両者はひじょうに近縁な種のように思えますが、逆に言うと両者を隔てるのに必要な情報の数十倍の共通遺伝子を抱え持っているということです。そしてヒトとチンパンジーが共通の祖先から分かれるまでに貯め込んだ遺伝子のほとんどが現在は使われていない量的遺伝子です。
 ヒトとチンパンジーの共通の遺伝子のうちの一部は、進化系統分類学上共通の形質を組み立てるのに必要でしょうが、それ以外の多くの情報が現在は使われていないものです。ゲノム解析が完了して質的遺伝子と量的遺伝子がはっきりしているのなら、莫大な量の量的(数だけの)遺伝子を取り除いて大幅にダイエットした遺伝子で、生物の体は作れる、すなわちタンパク合成とその遺伝は正常に機能するかも知れませんね。
 使わない器官は退化するのが生物の常です。何らかの理由でまったく日の光が届かない洞窟の中の水域に閉じ込められ、そこで累代生きながらえてきたブラインドケーブフィッシュでは目が退化しています。このように無駄を省くことに大胆な生物が、遺伝情報に関しては古参の情報をいつまでも捨てずに持っているというのは面白いものです。

 遺伝子汚染は、生物の遺伝的多様性を本当に破壊してしまうものなのでしょうか。次の代に形質として顕現しなかったものの情報は受け継いでいるということはないのでしょうか。そもそも有性生殖のメリットは、個体の持つ遺伝情報を分け合うことによって厳選されたり多様性が広がったりするところにあります。近縁の血縁関係で交配するよりも、血の遠いもの同士が交配する方が有性生殖のメリットはよりよく反映され、逆に近縁者同士の交配を繰り返すことは種の劣化すら招きます。
 異種間の交配や、生息地の異なる同種間の交配が、遺伝的多様性をより高めてくれるということはないのでしょうか。より高まった結果、在来種よりも生存確率が向上し、結果として在来種を駆逐してしまった、そう考えるのは正しくないのでしょうか。
 遺伝子汚染というと、ずいぶん否定的な表現ですが、同じ現象を表すのに遺伝子移入という表現もあります。
 遺伝子汚染あるいは遺伝子移入という考え方が一般化されるまで、外来種被害については、在来種との競合によって在来種を打ち負かしてしまう弊害が問題になっていました。ブラックバスやブルーギルの日本の淡水域への導入により、数多くの在来種が衰退する恐れが出てきた。これは見た目にも解りやすい被害です。ここで恐ろしいのは、在来種の種類が減ってしまうことでした。生物層の厚みが損なわれると、環境の変化への対応が困難になり、生態系そのものがダメージを受けることになりかねません。種の多様性つまり同じ場所に似たような種がたくさん棲んでいることは思いのほか重要なのです。外来種の猛威は種の多様性が直接損なわれる危険性があるので、その弊害は見た目も解りやすいものでした。
 遺伝子汚染の考え方では、遺伝的多様性が損なわれるとしています。在来種が永代に渡って蓄えてきた適応能力が、交雑によって失われるというのです。そうなのでしょうか。むしろ新たな情報が得られて多様性が向上する、そう考えるのはまちがいなのでしょうか。
 たとえば、ヒトの場合、外国人と結婚して生まれたハーフが、日本の風土に適応できないという話はあまり聞いたことがありません。ハーフはすぐ風邪をひくし、季節の変わり目には病気するし、野菜を消化する能力も低い、なんてことはあまり聞きません。筆者の息子もアメリカ人とのハーフの友だちがいますが、いたって元気です。

 外来種が大発生し、在来種がそれとの競合で敗退して絶滅の危機を迎えるということは、生態系のバランス維持という面で深刻な事態を招く場合がありますが、多くの場合、在来種が衰退したあと、外来種が他の生物とバランスして生態系が維持されます。日本の野山や河川の動植物は外来種だらけです。
 では、生息地を異にする同種間の交配はどうなのでしょう。生息地が変われば当然、地質や気象の変化も異なるので、それぞれ蓄積されている遺伝子データも異なります。異なるもの同士が交配すれば、元も遺伝情報が失われてしまうものなのでしょうか。生まれた子供は新たな土地での適応性を欠き、長生きできなかったり、繁殖能力が低下したりするのでしょうか。たとえば、寒冷地から来た母親と温暖地の父親が交配し、その子に母親の形質がよく顕現した場合、その子は暑さに弱く父親の元では生きううえで不利が生じるかもしれません。しかしながら、父親似の子も同じようにいるはずです。あるいは、異常気象によって温暖な土地でも冷え込みが続くようなことがあった場合、母親の遺伝子を受け継いでいる子供たちは有利かもしれません。

 遺伝子汚染という考え方を知るまで、筆者は同種間の出生地ちがいの個体同士の交配については何も問題がないと考えていました。出生地ちがいならまだしも、飼育下で累代飼育された個体と野生個体との交配はどうでしょう。ペット業界では、近親交配の連続による種の劣化を防ぐために野生採集個体の血を入れるというのはありがちなことです。筆者も若い頃にスズムシを累代飼育していて奇形がたくさん出るようになり、知人から近親交配の欠点について教わり、血縁の遠い個体を買い求めて追加したことがあります。また、現在も飼育中のインドヒラマキガイも何年か飼っていると繁殖率が著しく低下することがあり、その際には新たに入手した個体を追加してやっています。
 山で採ってきた虫を、しばらく飼っていて平地に放すこともよくありました。外来種被害についてはアメリカシロヒトリ(蛾の一種)等の例で小学校で教わっていたので、放虫先に同じ虫がいることを確認してリリースしていましたが、遺伝子汚染の考え方からするとこの行為は誤りだったことになります。外来生物の脅威について知っていたとしても、日本国内なら放虫はどこでもOKじゃん、と考えるのは危険です。そこに元来いない生物を持ち込めば、外来被害と同じ危険性が生じます。
 最近はどうなんでしょう。外来被害と遺伝子汚染について、学校でどれだけのことを教えているのでしょう。日本は島国なので、外来種というと海の向こうから渡ってくるものに限っていますが、国境は人間が勝手に考えたものに過ぎず、外来種被害に人間が決めた国境は意味がありません。外来種被害について教えるというよりも、生き物の移動に伴う危険性ということで教育すべきですね。

 遺伝子汚染あるいは遺伝子移入について、同種間での弊害については筆者の想像力ではよく解りません。生物の移動による交配によって、在来種が蓄積してきた遺伝情報がこれまでよりも大きく書き換わることは理解できますが、それでこれまでの情報を破棄してしまうかどうかは疑問です。遺伝子汚染で種が劣化することよりも、新たな遺伝情報を得て子孫が強くなることの方が問題かもしれません。強くなった子孫たちは、在来種同士で交配してできた子孫との競合で優位に立ち、やがてその土地固有の変異型を滅ぼしてしまうかもしれません。
 前述のコイの例の場合、それでコイの繁栄が回復するなら結構なことではないかと思うのですが、その土地固有の変異型、たとえば尾が少し長いといった地域変異が失われてしまうとしたら、マニアや研究家的には寂しいことなのでしょうね。
 筆者は、固有の変異型が失われることよりも、新世代の子たちがその土地の生態系の中で上手くやってゆけるかどうかを心配します。つまり多種の魚や生物まで駆逐してしまう暴れん坊になっちまったとしたら、それは外来種被害と同じ結果を招きますから。

 人間が手を加えなくても外来被害が生じることはあります。渡り鳥や海外からの流木に動植物の種や卵が運ばれてくることもあります。しかし人の手による外来種の導入は、自然の場合よりもずっと過激です。家畜や作物、材木、あるいはペットや観賞用に様々な動植物を大量に持ち込み、それにくっついてきた虫や微生物が自然界にまとまった数になって放たれます。養殖目的で屋外飼育しているものが自然に進出してゆくなんて日常茶飯事です。園芸植物に至ってはほぼ野放し状態です。敷地内に行儀よく植えていたとしても種は野外に運ばれますし、地下茎も外へ伸びてゆきます。筆者の家の周りでも様々な外来園芸植物が野生化していますし、敷地内にも入り込んでいます。異種交雑も増える一方です。
 そして、こうした外来被害、あるいは種の移動に対する適応能力も生態系は有しているものと思われます。だから多くの外来種を日本の野生動物として許容し、バランスを保っているのです。

 日本の在来種を復活させようということで、外来種を選択的に駆除するような試みがなされたこともあるようです。これはこれでまた問題がありそうです。外来種との競合に圧されて衰退してしまった在来種が、外来種を取り除くことによって人間の思惑通りに再生してくれるかどうかは判らないと思います。すでに外来種を取り込んでバランスしている生態系は、衰退した在来種にとって優しくないかもしれません。これまで在来種の餌になっていた動植物も外来種の参入に適応して防御力がましているかもしれませんし。駆除された外来種の空席を埋めるのは別の生き物かもしれませんし、外来種の不在によって餌になっていた動植物が大発生し、生態系のバランスが崩れるかもしれません。
 生物の移動によって移動先の生態系になにが起きるか、それを予測することはひじょうに難しいです。自然環境は季節ごとに、あるいは年ごとに一定ではありませんし、それに合わせて生物の生息状況も変わっています。移動先の外来生物の運命を決めるには不確定要素が多すぎます。交配という点では偶然性という要素も加わりますし。

 ということで、何が起きるかまったく予測できない以上、生物の移動における弊害について考えるのが当然なのでしょう。我々はやはり安易な生物の移動はつつしむべきでしょう。
 と言いつつ、今日もまたどこかの子供が、虫を自然に逃がしているのでしょうね、お母さんに褒められながら。筆者も幼少の頃にそうした覚えがあります。あるいはマニアによって飼われている生物が逃げ出して野に放たれる事件も後を絶たないことでしょう。筆者も気をつけなければいけません。

生物の移動

2014/06/23


 生態系という言葉があります。ある一定の地域の中の自然のバランスのことです。地質学的な無期物の世界、化学的な有機物の世界、そして植生とそこに棲む生物たち、土壌を築く分解者たち、これらを総じて生態系と言います。判りやすくは島のように海によって他から隔絶されたような環境では、その中で閉じた食物連鎖が維持され、島の生態系と見なすことができます。たとえばアフリカ大陸から孤立したマダガスカル島には、独自の生態系が築かれており、そこにしかいないユニークな生物がたくさん棲んでいます。
 生態系とは、一定の地域におけるあるていど閉じた環境のことを言います。
 マダガスカル島は、日本列島より遥かに広大な土地ですから、日本なんか東アジアの生態系の一部と考えられるのかと言えばそうではありません。生態系の大きさに定義はありません。公園にできた水たまりといった小さな環境でさえ、その中で食物連鎖があるていど完結していれば、生態系と見なすことができます。それは極めて一時的なものであまり多くの生き物を育まないとしてもです。
 むかしデパートかどこかで、ガラスの中の小さな生態系みたいな商品を見たことがあります。小さなボトルに水を満たし、少量の水草とエビが1匹入っていました。水草はエビの排泄物等を肥やしにし光合成を行ない、エビは水草に付着した苔や水草自体を少しかじりながら生き長らえます。目に見えないバクテリアが、エビの排泄物等で汚れた水を浄化します。このようなサイクルによって閉じた環境が維持されるボトルの中には一定の生態系が築かれているというのです。このシステムを生態系と言い張ることに筆者は賛同できると思いました。ただし、この生態系はあまりにも脆弱で長期的な環境の維持は不可能でしょう。比較的短期間のうちにバランスが崩れ、ボトル内がアオミドロだらけになったり、水が汚れてエビが死去したり、水草が伸びすぎてエビの消費が追いつかなくなったりし、人の手でメンテナンスしてやる必要が生じるでしょう。だとしたら、この生態系は一時的にバランスしているように見えただけのもの、生態系のように見えただけのもの、ということになります。
 消費と生産と分解のバランスが、理論的に合っていれば生態系と見なすことができるかもしれませんが、それが早々に崩れ去るようなものならやはり生態系とは呼べないかも知れません。ただ、同じ内容のボトルであっても絶妙な温度と光の加減によって、かなり長期的に環境を維持できるケースがあるかもしれません。エビがたまたま受精卵を宿したメスで、この中で世代交代が生じ、水草が伸び放題になることもなく、食物連鎖が完結した状況が続くようなことがあるかもしれません。それを維持するのはいかなる飼育困難な動物の長期飼育よりも困難で、たまたま1度は上手くいっても2度目はないでしょう。ボトル内のエビや水草を生かし続けようと思えば、いずれは人の手によるメンテナンスが必要になり、そのように他からの干渉に依存しなければならない状況は生態系とは言いがたいと思われます。
 ただし、言いがたいのであって言えないのではないとも思います。地球上には大小様々な数えきれない数の生態系が存在するわけですが、どの系(システム)も何らかの他からの干渉を受けているでしょうし、それが必要であるかも知れません。風雨や太陽光線といったあらゆる環境に一様に注ぐものは別にして、渡り鳥が運んでくる有機物、流木に乗って流れ着く生物、回遊魚の往来、微生物の移動といったことがらは、生態系に対する影響が小さくありません。大型の草食獣なども大きな距離を移動し、別の生態系に浸入してゆきます。
 生態系には、深い洞窟や氷に閉ざされた世界のように極めて孤立的なものもあれば、生き物や有機物の往来が激しく、複合的に重なりあう系もあります。複数の生態系がくっついたり離れたり、部分的に重なり合ったり、そんなことが生じている、そう考えるのはおかしいでしょうか。生態系があるていど閉じた系であるとするならば、境界となる場所があるはずですし、そこで系を他から隔てている原因もまた変化せず一定ということはないでしょう。

 生物は、同じ国内であってもみだりに移動させてはいけないとよく言われます。確かに外来動物の移動の弊害が理解できるなら、生物の国内移動にも同様の被害が予想されます。外来とは国外からの移入の意味合いなのでしょうが、そもそも国境なんて人間の勝手な主張であり、人間以外の生物はそんなものに縛られたりしません。外来とは、他の環境からの移入のことです。
 他の環境からの移入者は、多くの場合新しい環境に適応できずに死滅するでしょう。生きながらえても子孫を残せないかも知れません。しかしながらまれに移入者にとって移入先が新天地になることがあるわけですね。そこにはこれまでの環境ほど強力な捕食者がいなかったり、気象条件が過酷ではなかったり、餌が豊富だったり。移入者がすでに身ごもっていたら子孫を残せるでしょうし、そうでなくても移入先に同種あるいは同属の異性がいれば交配して子孫を残せるかもしれません。
 在来種と外来種の交配は、しばしば遺伝子汚染と表現されます。交雑によって在来種の遺伝子が持っていた多様性が不可逆的に失われてしまうとされています。果たしてそうなのでしょうか。不可逆的な変化は生じるでしょうが、その変化が多様性の拡大にはならないのでしょうか。交雑は必ず種の劣化につながるのでしょうか。交雑によって生まれた子孫は、環境の変化への耐性を失い、死滅して行くのでしょうか。交雑種はむしろ、その地で勢力を拡大している気がするのですが。
 外来種や在来種の勢力拡大は、在来種を衰退させることが少なくありません。しかしながら、それを新たな環境の変化に適応できるニュータイプの誕生と、ポジティヴに考えることは楽観的すぐるのでしょうか。
 水と空気がつながっている限り、人為的な操作が加わらなくても生物の移動は生じますし、それを食い止めることは困難です。外来種や交雑種の勢力拡大と在来種の衰退という現象は、人間が覚えていてその弊害を指摘するだけであって、生物が移動し種が入れ替わることもまた自然の摂理のひとつです。そもそも、同じ土地に原始の時代からずっと住み続けている生き物なんていません。人間が在来種と呼んでいるものも、人間が記録を取る以前には別のところから移入してきた種であったりします。そうやってカブトムシやクワガタムシのような熱帯タイプの虫も日本に棲むようになったわけです。そうやって日本の生物層が豊かになっていったのかもしれません。そしてオオクワガタブーム以降に外産のクワガタムシが輸入されるようになり、それが悪意によって野に放たれ、外来種による弊害ということになるわけです。

 筆者は、生物の移動という現象もまた、自然環境の変遷に適応するための要素になっている可能性があると思っています。環境の温暖化が進めば、温暖な土地の生き物が移入して来て、その地に温暖に適応しやすい遺伝子をもたらす、そういうメリットも考えられると思うのです。生物はある特定の環境に特化して進化するのが常ですが、現在の環境への適応のため以外の遺伝情報もたくさん持っています。それらは遠い先祖から受け継ぎ、使用しないのに捨てずにもっている情報です。それら使われない量的遺伝子は、環境が変化したり、自らが新しい環境に移動した際に、次の世代に応用されるかもしれません。生物は特定の環境に特化しているものの、生活圏の拡大についても積極的であったりします。植物は動物を利用して遠くまで種子を飛ばそうとしますし、動物もごく限られたエリアで近親交配を繰り返しているわけではありません。進化の歴史は適応放散の歴史でもあります。

 筆者は、生物の移動を奨励するわけではありません。生物の移動が生態系にとって有益であると考え、動植物の移動を積極的に行うべきだと思っているわけではありません。外来被害や遺伝子汚染の考え方にも肯定的です。でもそれを一方的に考えることが逆に弊害を生むことにならないか心配するのです。すでに外来種が定着している環境から、在来種を救うために外来種を駆逐するといった発想が、生態系を損壊する恐れがあると言いたいのです。生物の進化は不可逆的です。遺伝子の変化と同じです。であれば生態系の移り変わりも不可逆的なものです。変わってしまった自然を元へ戻そうとする行為が、必ずしも自然を復元することにはならない、在来種の保護が必ずしも生態系の維持に有益であるとは限らないと言いたいのです。すでに定着している外来種もまた野生の動植物のひとつです。
 歴史は繰り返されるという言葉通り、自然環境の変化も輪廻のごとく、あるいは季節の移ろいのごとく繰り返されます。しかしそれはタイムマシーンによって時間を逆行するのとはちがうのです。人の歴史が繰り返しながら人類に進歩をもたらしたように、自然環境も繁栄と滅亡を繰り返しながら高等生物を進化させてゆきました。過去に学ぶことは重要ですが、そこにとらわれているのではなく未来を見つめてください。

DNAと生物界

2014/07/13


 生物の形質は、親から子へと遺伝します。単細胞生物の場合は、細胞が2つに分離して2匹の娘細胞になるので、遺伝は簡単なように思われます。細胞分裂によって生まれた娘細胞は、単純に親を半分にしただけなのですから。しかしながらその細胞を構成する内容は生物である限り単なる有機化合物よりはいささか複雑で、タンパク質をどのように組み立てて体を構築して行くか、その設計図をどこかに書き留めておかねば、緻密な体組織構造を正確に再構築することは難しくなります。そこで遺伝子というコンピューターのようなものを組み込んだ細胞核を持つようになったのが、真核生物と言われるものです。
 ご存知DNAとは、細胞核の中の遺伝子コンピューターの記録メディアであってそれだけでは機能しません。コンピューターに使用するDVDやHDもそれ単体ではなにもできませんよね。コンピュターは0と1という2つの数字を使った2進数で演算を行うので、その記録メディアには、0と1に見立てた2種類の素子(磁性体の磁気のNSみたいな感じ)が使われますが、DNAは4種類の塩基という物質を並べた記憶媒体です。4種類の塩基が延々と連なったたいへん長い紐状物質です。それはまた2本が対になっていてそれぞれの塩基同志が、塩基対原理(または塩基の相補性)に基づいて水素結合で結びついています。
 DANを構成する4つの塩基すなわちアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)は、AとT、GとCという組み合わせ以外で水素結合しないので、1本の塩基配列が決まれば、対になるもう1本の塩基配列は必然的に先の1本を反転させた配列になります。このような配列で2本のDNAは並走しており、それがらせん状つまりコイルになっているので、DNAの構造はよく2重らせんとも言われます。
 DNA上の塩基配列が遺伝のシーンで具体的にどのように活用されるのかについて、専門書等ではしばしばタンパク合成の仕組みで説明されています。タンパク合成とは、生物の体組織に使われている20種類のアミノ酸をどんな順番でいくつつなぐかということです。タンパク質は、アミノ酸をひも状につなげたものを糸玉のように丸めたものですから、ひもの中身すなわちアミノ酸の配列が決まればどんなタンパク質を合成するかが決まることになり、DNAの中にはその情報が含まれているということです。
 タンパク合成の際には、DNAの2重らせんの一部が特殊なタンパク質によってファスナーを開けるように解かれ、露出した塩基配列にあらかじめ用意しておいた塩基を水素結合させて並べて行きます。解かれたDNAの塩基配列が、AGCTAGCTならそれと結合して生成される配列は、塩基対原理に従ってTCGATCGAと反転した配列になります。ただしここで生成される塩基配列にはDNAではなくRNAという核酸が用いられ、そのためチミン(T)はウラシル(U)に置き換えられます。DNAの一部を反転転写して作られたRNAに並んだ塩基配列がタンパク合成に用いられるコード(コドン)で、3塩基で1つのコードになっているので、トリプレットコドンとも呼ばれています。
 DNAの一部を反転して写し取った塩基配列すなわちトリプレットコドンが得られたことで、ようやくこれでタンパク合成の設計図が手に入りました。この設計図はメッセンジャー(m)と呼ばれ、mRNAというふうに表記されますね、学術書では。mRNAはこれだけでは単なる記録媒体でしかないので、リボゾームという再生装置に通されます。そこにはトランスファー(t)というRNAすなわちtRNAが大行列を成して待ち構えていて、mRNA上のコドンを読み取ってゆきます。tRNAは短い塩基配列が3つ葉のクローバーの形に屈曲しており、中央の葉の部分にmRNAの読み取りヘッドがあり、それとは反対の茎の先端にアミノ酸1つを従えています。
 mRNA上のコドンがGAAであれば読み取りヘッドのところにCUUという塩基を持ったtRNAが水素結合し、そのtRNAはグルタミン酸というアミノ酸を従えています。mRNA上のコドンと水素結合するtRNAの部位は、コドンを反転させたものなのでアンチコドンと呼ばれています。
 コドンに対応するアンチコドンを有するtRNAが従えているアミノ酸は決まっているので、mRNA上のコドンの配列はアミノ酸をどんな順番で並べるかの指示書ということになり、それに従ってアミノ酸をつないでゆけば、必要なタンパク質が生成できるというわけです。

 以上長々と語りましたが、いかがです? これでDNAのすべてが解りましたね。また、知識がある方は読んで損をしましたね。問題はここからです。以後の話しはだんだんSFじみてまいります。
 mRNA上に記述されたコドン(トリプレットコドン)が特定のアミノ酸を定義することは科学の常識です。学術書にはRNAコドン表が記載されていて、どのコドンがどのアミノ酸を定義するかが判ります。ではコドンはどのようにして1つのアミノ酸を特定するのでしょう。コドンに対応したアンチコドンを有するtRNAが定められたアミノ酸をまちがいなく従えているのは、どのようなメカニズムによるものなのでしょう。筆者がむかし泣きながら読んだ学術書には、コドンとアミノ酸との間には、なんの整合性も親和性も認められないとありました。科学の常識に秘められた壮大なミステリーです。なんでそうなるか解らないけれど、そうなっているのが常識であるというわけです。
 我々人間は、遺伝子中の記憶メディアをDNAと呼びますが、そのことをサルに言い聞かせてもウキッ? とか言われるだけです。DNAが何を意味するかは共通言語を知識として習得している人間の間だけに通じる暗号です。人間の学識はAUUというコドンがイソロイシンを表しているということを突き止めたわけですが、イソロイシンというアミノ酸を表すのに塩基でAUUまたはAUCまたはAUAと記述するというのは生物界の常識なのです。サルのことをなんでそう呼称するのかと今さら聞かれても困るように、生物界の常識でそうなっているのだから仕方ありません。
 我々多細胞生物は、世代交代の際に受精卵という1個の単細胞に還元されます。世代交代のたびに1個の単細胞からやり直すのです。それは親とは完全に独立した閉じた系であり、へその緒でつながっているとしても滋養の供給を受けるだけで、親の細胞を1個たりとももらうことはありません。子の持つ遺伝子は両親から半分ずつを継承して作られた独自のものです。
 遺伝子を有する受精卵は、たった1個の細胞から親と同じ生物を1から作り上げることができます。そのための情報もDNAの中に記述してあるのだとすれば、タンパク合成の基本を学んだところで、遺伝子について理解できたとは言えません。むしろ遺伝子のほとんどの部分を知らないままです。
 生物の形質に関する設計図はDNAに記述されているとして、親から譲り受けた癖とか才能とかはどのように遺伝するのでしょう。あるいは隔世遺伝と呼ばれる祖父母の代から受け継ぐ才能については? そういったこともDNAには記述されているのでしょうか。顕微鏡サイズの受精卵を眺めてもほかに遺伝情報の受け渡し場所はなさそうです。
 人間のように生きるための常識や言語を、遺伝ではなく1から学習し直す生き物はともかく、生きるための行動のほとんどを本能に依存している生き物たちは、行動パターンをどのようにして親から受け継ぐのでしょう。クモは誰からも習わずにその時の立地条件に応じた適切な巣を自力で作りますし、アリンコたちも社会生活を営むのに教育や訓練を必要としません。壮麗な多重構造を有するハチの巣も図面も指揮者も必要とせず、それぞれのワーカーの本能が結成され自動的に完成します。こうした緻密で複雑な行動パターンを制御するのは間脳という部位だと言われていますが、世代交代で1個の受精卵に還元される生物たちは親の間脳を直接受け継ぐことはできません。
 形質や生態の遺伝される情報のすべてはDNAに記述されているのでしょうか。それともDNAの設計図に従ってタンパク質を組み立てて行くだけで、次世代の脳の中に生態をつかさどるすべての記録が再現されるのでしょうか。
 コドンの話しに戻りますが、コドンとアミノ酸の間に整合性も親和性もないのだとしたら、それは物理的な矛盾です。正常に機能していることが矛盾です。そうなったいるのだからそれでいいのだと結論付けるのなら、唯物的な科学そのものを否定することになります。
 生物界の常識と言う表現を上述しましたが、生物は個々に自立して機能する系ではありますが、それは物理的な話しであって、じつは壮大なネットワークなのではないかと筆者は疑っています。生態系という用語は生物のみならす一定の閉じた環境の中に含まれる土壌や無機物質をも含みます。同様に生物界というものは、地球という1つのシステムに組み込まれた要素のうちの生物部分だけを指しているのであって、あらゆる物質および事象現象を統一的に観ることが自然界を理解するのに重要なのではないかと考えています。ガイア理論の考え方では地球を1個の生命体のように見るそうですが、それに似ているかも知れませんね。
 ホームページを自作される人なら、CSSを用いて複雑な修飾をそこに書き込んでおけば、HTMLの記述がすっきりすることをご存知ですよね。HTML内でA=Cみたいな簡単な記述だけで、ホームページ上で複雑な命令を実行するのはどうしてかというと、命令の内容をCSSに別記してありHTMLと関連づけがなされているからです。同様に遺伝子内のコドンとアミノ酸の間に整合性や親和性がなくても、どこか別のところに双方を関連づけるための記述があって、生物界を含む広大なネットワークに参加していれば、その記述にアクセスすることができるのだとしたら、コドンがそれ自体意味を持たない3つの塩基の羅列だけでアミノ酸を特定するという高等な芸当が可能になるでしょう。
 そのネットワークはもしかすると宇宙を網羅する途方もなく広大なものかもしれません。
 DNAが隕石に乗って飛来した地球外物質の可能性を論じた記事を読んだことがあります。筆者はそれを否定できません。DNAは遠い宇宙から飛来し、生命にとって理想的な惑星に到着すると、その環境に応じた生物を進化させる仕組みの装置であるかもしれません。DNA由来の生物は不可逆的に進化を続け、惑星環境に合った生態系を構築するようにプログラムされているのかも。そうして知的生物を進化させることがプログラムに含まれているかどうかは難しいところですが、DNAが人為的な意思によって宇宙に放たれたものなら、知的生命への進化もシナリオに組み込まれているかもしれませんね。

 私たちは、DNAという生命を創造する装置によって幾多の実験を行なって来ました。地球という惑星ではそれは大きな成果を上げ、たいへんユニークな動植物が次々と誕生しました。原始の地球において太陽からの紫外線や宇宙線は有機物を効果的に生成するのに有益でしたが、やがて微生物がたんじょうすると、その脆弱な体を焼き殺してしまう紫外線は有害なものになりました。しかし地球の生命は大量の酸素を放出してオゾンの層を大気の上層に構築することで、紫外線の地上への到達を安全レベルにまで引き下げることに成功しました。メタンガスでくすんだ原始の地球の大気は、大量の酸素によって浄化され澄み渡りました。多くの物質と結合して酸化させてしまう酸素は、原始的な生物にとってはとても有害だったので、生物が増えると代謝中に生成される酸素量も増え、ひじょうに多くの酸素が大気中に放出されたのです。しかしやがて酸素を利用してエネルギーを燃焼し、大きなパワーを出力する大型の生物が登場しました。彼らは大胆にも酸素を呼吸し、それで栄養を燃焼して活力に変えたのです。栄養は他の生物を捕食することで得ました。こうして地球上の生物界は生産者と捕食者、植生と動物たちといった豊かな層が育まれるようになったのです。豊かな生物層は地質学的な幾多の危機を乗り越える力がありました。地殻変動による気象の大きな変化は惑星にはつきものですが、短期的に大きなダメージを受けても、生物はやがて復活し生態系を維持し続けました。そしてその中から知的生命も進化しました。
 1万年ばかり前に本格的な文明時代を迎えた地球の知的生命は、とても豊かな自然に囲まれたじつに幸運な存在ではありますが、大きなエネルギーを有する惑星では、知能を持ったものというのは野心も大きくなり群れを統率する者たちは富を巡って激しく争うようになりました。1つの星にありながらひじょうに多くの文化圏に分かれて抗争するようになり、破壊と殺戮が延々と続きました。そうして最近になって地球規模の電脳ネットワークを実現した彼らは、争いを続ける反面、文化レベルではひじょうに接近して互いの存在を確かめ合うようになり、富を巡る権力に固執した群れづくりではなく、ネットワークを通して協調し得る社会の足掛かりをつかもうとしています。
 近年、核エネルギーを応用した壮大な火器を彼らが手に入れた時には、地球での実験も失敗に終わるかと思えましたが、民衆文化の向上とネットワークを活用した文化圏の広がりにより、致命的な争いを回避し、社会的により高みを目指す可能性が広がってまいりました。地球人類は破壊や浪費を繰り返して来ましたが、他の生物をも慈しみ豊かな自然を取り戻そうという発想が持てるのもまた彼らだけなのです。彼らは今、大きな岐路に差し掛かっていると言えるでしょう。彼らがどのような道を進むことになるのか、そう遠くない将来に何か答えが見つかる気がしています。

生存協調

2014/12/03


 野生動物の世界は、熾烈な生存競争の舞台であるとよく言われます。動物に限らず植物も日照権を巡る競争が絶えません。しかし彼らは本当に競争しているのでしょうか? 方や自然界は絶妙なバランスで成り立ち、あらゆる生き物がそのバランスのために必要なのだとも言われています。この二元論は壮絶な矛盾です。人間社会において、調和が不可欠であるとしながら競争は宿命だと言っているのとよく似ています。
 自然界の成り立ちと人間社会は、その原理においてひじょうによく似ています。考えてみれば人間も生物の一員であるわけですし、人間社会は動物たちの営巣や縄張りの発展版です。人はその科学技術で地球を支配しているとも言われていますが、大規模な営巣地である都会の設営は河川付近や海岸線、平野部に限られ、大地も海もその多くが未開のままです。国境線で国同士が縄張りを主張し合っていますが、テリトリー内の多くの土地が管理できていない未開地です。
 人間社会は、競争社会であり厳しい格差が存在します。国と国とは経済競争を繰り返し、戦争を取引の道具として行使し争います。その争いは大規模な殺戮や民族の殲滅に及びます。そしてそれは宿命だと言われています。野生の生き物たちが厳しい生存競争の渦中に身を置いているのと同じく、生き物の一員である人類も競争から逃れられないのだと。
 古い表現ですが、社会ダーウィズムという言葉があります。人間社会を生物界の縮図であるとしダーウィンの進化論を人間社会に当てはめ、競争社会を肯定しようという発想です。人が生物の一種であり、人間社会が生物界の縮図であることには筆者も依存がありません。しかし競争社会を肯定し、格差を宿命のように言って胸を張るのは、権力者の愚行であり、御用学者の詭弁です。なぜなら、生物たちは人間のような無益な競争はしていないからです。ダーウィン先生が唱えた進化論における競争と淘汰の原理は、生物の進化の一面を表現したものに過ぎません。

 生物は一定の土地に生息していますが、移動することも少なくありません。生息範囲は少しずつ変わってゆきます。自然環境が一定ではないからですし、そこに棲んでいる生物自身も環境の変化に影響を与えます。刻々と変化する環境および複雑な諸事情で、生物はしばしば生息地を離れ、上手くすると新しい土地に適応できます。それを繰り返しながら、様々な土地に生息範囲を広げて行くことを適応放散とも言いますね。
 もともとの生息地の適応先とでは、生物は長い歳月のうちに差が生じます。気象も食糧事情もちがいますから、それに適応するために体が変化(進化)してゆくわけです。長い歳月、お互いに行き来のない遠隔地で暮らすうちに、地域変異、地域亜種といった差異が生じます。そしてそれがさらに変化を重ね、新種への進化や分化が起こります。もとの生息地で暮らしている生物にも変化は起こります。同じ土地であっても環境は変わってゆきます。気象条件も変わりますし、新入りの生物が入り込んできたりもします。生物は、先祖代々同じ場所に居続けようと、移動して行こうと進化し続けるのです。おおむかしから姿が変わらない原始的な生き物も存在しますが、変化のていどがゆるやかであるだけで、過去からまったく変わっていないということはありません。
 生物は進化し分化し、環境に応じた種を産むことで環境に適応して行きますから、環境の変化の大きいところほど、生物の種類も多くなります。高温多雨の熱帯ジャングルにはひじょうに多種多様の生物がひしめきますし、寒冷な極地方では種類が少なくなります。
 似たような種類の動植物が、同じ地域に多数存在することは、一見無駄のようにも見えますが、それだけ環境の変化が著しく、生物がそれに適応しようとしていることを表しています。生物の種類が多いほど環境の変化に対して生態系が安定します。
 生物の進化は、環境への適応により有利は方へ向かいます。当然ですね。そうでないと種は衰退してしまいます。より効率的に食物を採集できる方向に、爪や歯が特化しますし、体の方も装甲や体温調節に適した形状になって行きます。同じ環境で同じような食物を摂取する動物が競合することになった場合、当然ながら適応力でまさる方が勢力を拡大し、非力な種は衰退します。その図式を単純に観察した場合、それを生存競争と表現することができるでしょう。一定の場所で限られた食料を奪い合う場合、パワーがあるものが有利になるのは当然です。強くて大きな体躯の動物は、多くの食料を必要とし、必然的に弱者の取り分まで脅かす結果となり、悪意がなくても弱者の繁栄を妨げる結果となります。

 温暖化が進み、食料資源が豊富な状況では、この食料の争奪戦と強者が生き残る図式は顕著になり、その様子だけ見ていると、自然淘汰や生存競争に矛盾はありません。生物は互いにせめぎ合い、より大きくより力強い種を優先的に残してゆき、化石証拠も、生物がより強くより大きな方向へ進化して行くことを裏付けています。
 しかしながら、生存競争によって生き物がより強く大きな方向へ進化するというのは、より大きな動物が有利であるほどに充分な食料資源と温暖な気候が維持されていることが条件になります。地球の自転により大陸を含む地表はとどまることなく移動し続けていますから、大陸が分散して世界的に海洋性気候が拡がる時代には温暖化が進み、大地も海(主に大陸棚)も肥沃な状態に満たされます。しかし大陸がくっつきあって内陸に広範囲な大陸性気候をもたらすと、そこで氷床が発達して地球全体に寒冷化が進みます。そうなると、早々にダメージを受けるのは多食漢の大型動物です。彼らはやせ細り出産率や稚児の生存率が減少し、衰退して行きます。小さな省エネタイプの生き物に進化すればよいようなものですが、進化は非可逆的なメカニズムで、ホイホイもとへ戻れるというわけにはゆかないのです。徐々に小型化が進むかも知れませんが、それよりも早く少ない食料で充分にやっていける動物たちが勢力を拡げ、大型動物を急速にピンチに陥れることでしょう。寒冷化が進む環境における大型生物の急激な衰退と、小型動物の発展を、生存競争の図式でどう説明したらよいのでしょう。
 環境のエネルギーが充分な時には、生物はより強く大きな方向への進化が顕著になりますが、エネルギーが乏しくなるとそうはゆきません。食糧事情が厳しくなる中で、より大きな動物が他を滅ぼして繁栄し、さらに大きな方向へ進化して行くというのは難しいでしょう。
 また、自然環境に充分なエネルギーがみなぎっている状況でも、すべての生き物がどんどん大型化するわけではありません。巨大な動物と大木だけの自然なんてありえません。小動物も虫もちゃんと存在しますし、同じ哺乳類であっても様々の大きさのもの、極めて進化的なものから原始的なものまでが共存しています。

 自然界に生きる生物は、果てしない滅ぼし合いを続け、強い者だけが生き残り、最後に生き残ったものも食うものがなくなって死滅するといった暴挙を繰り返しているわけではありません。バランスしているのです。外来生物が新天地で一時的に異常発生するようなことはありますが、それでもやがてはバランスします。このバランスは、生存競争や自然淘汰、適者生存といった強者本意の考え方では説明できません。
 肉食獣が草食獣を狩る状態を、弱肉強食と表現しますが、この場合の強弱は腕力の点だけを見た場合という条件づけが必要です。個体数の多さすなわち繁栄の程度で言うならば、肉食獣が草食獣に勝ることはあり得ません。人間社会に弱肉強食の原理を適応し、弱者は強者に肉を提供して当然だと考えている人たちがいますが、勝ち組負け組理論や、資産家有利な政策によって豊かなものをより豊かにしてゆこうという考え方は、バランスという生物界の条件を無視した幼稚で低能な発想です。
 生物は、じつは競争などしていません。ライオンはシマウマに対して力を誇示するために、あるいは弱者を食い滅ぼすために狩りをするのではありません。競争社会肯定論者がいうような弱肉強食と、ライオンの捕食活動は根本がちがいます。

 生物の生態や進化のメカニズムを考える場合、個々の生物の振る舞いだけを見ていても真実に近づくことはできません。彼らは競い合い滅ぼし合う中で進化し、自滅の道をたどるわけではありません。肉食獣が草食獣を狩るのを見て、恐竜が短期間で絶滅してしまったのを証拠に、競争と滅亡が生物の宿命のように考える人が少なくないようですが、滅びる以前に彼らは存続しています。棲息環境でバランスし合って生態系を維持し、無数に存在する生態系同士がバランスし合って地球全体の生態系を維持しています。環境の変化は生物を変え、生物の営みは環境を変えてゆきます。古い環境に適応した生き物は、環境の変化と共に徐々に適応力を失い、新しいタイプの生き物に座を譲って滅びてゆきます。滅びは地球上生命の終焉ではなく、新たな生命への橋渡しです。
 恐竜たちは、中生代の温暖な環境の中で壮麗な進化を遂げましたが、中生代とは明らかに一線を画す地質学的な異変すなわち急激な寒冷化によって短期間のうちに滅びました。隕石衝突といったドラマチックなシナリオを支持する考古学者が優勢ですが、隕石の衝突では、それ以降の氷河期と間氷期を繰り返す新生代の様子を説明できません。恐竜たちは年々少しずつ寒冷化する冬と戦いながら、どんどん悪化する出生率と稚児の生存率に苦しみながら、数万年をかけて滅んで行ったのでしょう。数万年は地質年代的には一瞬です。化石証拠を観る限りでは、一瞬で滅んだように見えます。
 しかし彼らは、彼らの仲間から分化した鳥類を後世に残し、生命の橋渡しをしっかりと築いてゆきました。現在、多くの鳥類が大繁栄していますが、それを恐竜の形を変えた姿だと評する学者もいます。おもしろい表現ですね。そして鳥類の中には、環境の変化に追従できずに滅びようとしている種もあります。その様子はさながら、恐竜たちの最期のようです。
 人類が生物学に対する理解を深めて行くためには、ドラマチックな競争の様子ばかりではなく、生物がどのように協調しているのかに目を向けて行く必要があるでしょう。そしてそのことは、人間社会の在り方を考えるうえでも重要な事柄だと思われます。

環境変化の要素

2014/12/10


 生物は、自然環境に適応するために生態や形態を変化させてゆきます。進化のメカニズムがそれを可能にしています。自然には様々な環境の変化があり、それぞれの環境に適応するために生き物たちは姿形や食性、生活様式を変えて行きます。変化の条件は、温度、湿度、気圧、地質と様々で、一様に見える海の中でも千差万別です。環境の変化はまた1日の時間ごと、1年の季節ごとにも刻々と変化します。地球が自転しながら太陽の周りを公転しているからです。温度変化が地表を絶えず移動し、空気の対流が起こり水の蒸発と降雨が繰り返されます。地質それ自体もじつはゆっくりと対流しています。マグマとなって空気中に吹き上がり、冷えて岩石となって堆積します。長い長い歳月のうちに堆積物の上に堆積物が積もり、古い堆積物は次第に地中深所の高圧高温の場所に還ってゆきます。
 生物が暮らしている大地や海は、標高数千mの高山から深度数千mの深海に至るまで、すべて地殻という地球の表層部に含まれます。地殻は高温の液体マントルを覆うひじょうに薄い皮膜に過ぎません。その皮膜の上に生物のすべての生活環境が存在します。この皮膜は地球の自転によって揺さぶられ、ゆっくりと動き続けています。地表はいくつかのプレートに分乗していると言われ、各プレートごとに動く速度や方向が変わるため、接近したり遠ざかったりするため、大陸の分布状況も地質時代ごとにまちまちです。
 水は温度を温存するので、大陸の分布が散漫になり、世界的に海洋性気候が広がると、地球は温暖化傾向に向かい、海面が上昇して陸地の端を覆って広い大陸棚を築きます。海が陸地に進出する状況を海進といい、海進時には生物は繁栄します。逆に大陸の分布が集中的になり、広大な大陸が形成されると、海から遠い内陸部では氷床が広がり、海が陸地から退く海退が生じます。年々寒さが厳しくなる気候に陸生動物のとくに大型種は急速に衰退します。海洋でも大陸棚の面積の現象に伴い、生物の衰退が進みます。
 生物の棲息する自然環境の変化には、日々の変化や周年の変化、そして地質時代レベルの長く大きなスタンスの変化と様々なものがあります。同じ場所にいても日々および周年の変化に見舞われますし、場所を移動すると温度や湿度や土壌に様々な変化が見られます。場所によって昼夜の差が穏やかなこともあれば、昼と夜とで劇的に変化が生じることもあります。
 環境に変化をもたらす要素は、温度、湿度、気圧、地質といった無機質なものばかりではありません。バクテリアによって育まれる土壌の状況や、そこに育つ植物の状況(植生)も生物の暮らしを左右する変化の要素です。生物は環境の変化に適応するために進化し、姿形を変え、生活様式に応じた形質の特殊化を進めますが、生物の存在そのものが環境の変化の要素になっています。
 生物は基本的に自分が適応した場所に定住して子孫を残してゆきますが、その場所は永続的に同じ環境ではありません。地質学的な要因で徐々に温暖化傾向に向かったり、寒冷化が進んだりします。それに伴い、棲息域が少しずつ北上したり南下したりします。自分が移動しなくても別の種が移動してきて生活環境に変化を加えることもあります。
 環境が地質学的にほとんど変化しなかったとしても、生物は移動します。別の所にいた鳥が、たまたま飛来して定住することもあるでしょうし、その鳥が別の所の植物の種を運んで来ることもあるでしょう。生物は偶発的な出来事によっても移動し、移動先で繁殖に成功すると、棲息範囲の移動または拡大が実現します。移動先に天敵が少なく、食料が充分にあれば爆発的に個体数を増やすといったインパクトが生じるかもしれません。これはその地における劇的な変化になりますから、先住の動植物は衰退したり、変異を余儀なくされたりします。
 生態系は、動植物の絶妙なバランスによって維持されていると言われていますが、じつは常に変化にさらされ、バランスは頻繁に危うくなります。生物は永続的に定住しているように見えて、徐々に場合によっては急激に移動して行くものなのです。
 時間的あるいは空間的に変化に富むようなエリアでは、生物の繁栄と衰退が目まぐるしく、種の進化と分化が促され、他種多様の動植物がせめぎ合うことになります。熱帯ジャングルの方が北極や南極よりも圧倒的に変化に富み、多数の生物が棲息しています。
 地質時代的にも変化が少なかったエリアで、生物の移入も多くはなかったような場所に棲む生物は、あまり進化せず太古の姿を今にとどめています。環境の変化に耐え、植生に幅がある生物もあまり変化を必要とせず、むかしながらの形態と生態を維持しているでしょう。短期的に著しく進化と分化を繰り返し、次々と古い種が滅んで新しい種に塗り替えられて行くような環境に棲む生物もいれば、閉塞的な環境でゆっくりとした変化の中に生きている生物もいます。
 ある一定の環境に特化して、大型化と特殊化を進めたような種は、環境が変化するともろくなります。一定の環境で最強を誇っていたものほど、環境が変化するとあっけなく滅びます。古い形態と生態のまま細々と地味な暮らしを続けてきたものは、しぶとく生き残ります。それだからと言って古いタイプの生物がまったく変わらないというわけではありません。変化が緩やかで数十万年もあるいは数億年以上も変化していないように見えるだけです。現生のクラゲと数億年前のクラゲを比較してまったく同じというわけにはゆきません。見た目はクラゲのままでも、新しいタイプの生物たちと共存するための形質の変化が必ず生じています。

 人間以外の生物は、環境に応じて進化し形質を変化させるのに対して、人間は自分の都合に合せて環境を造り替えてしまう存在であるとよく言われます。環境に適応するために進化する生物たちはどんどん様々な種を輩出して行くのに対して、人間は同じ種のままで世界中の多くの場所に適応してゆきました。しかしながら、人間以外の生物の中にも環境を変えてしまうものがいますし、多種に分化せずに多くの環境に適応したものもいます。人間の場合はひじょうに短期的に大きな変化をもたらし、世界中に適応放散したので、そのふるまいはかなり特別だと言えますが。しかしその人間ですら、遺伝子レベルでは差異が小さく互いに交配して子孫を残せるものの、人種という差異が生じており、ちがいはかなり歴然としています。
 生物の進化のていどが様々で、太古の形態および生態のタイプをそのまま受け継いだものが多数存在し、あたかも地質時代ごとの生きた標本が残っているような状況は、生物学や古生物学、進化学にとってひじょうに幸いです。両生類が地上に君臨したあと新たな動物群として進出した爬虫類にすべて置き換わってしまい、両生類がすべて死滅してしまったとしたら、学者たちの両生類に対する研究は化石を調べるしか手立てがなく、それら滅亡動物がどのようなものであったか解明できなかったかもしれません。両生類がどのようなものであったか判らなければ、爬虫類の進化も謎のままだったでしょう。
 化石という形で、太古の生物の生きていた証拠が残り、それが地殻の変動によって地層として露出し、人に発掘の機会を与えているという状況も、不思議と言えば不思議ですよね。考古学者や古生物学者にとっては幸運ですが、なんだかあまりにも人間に都合が良すぎて驚愕します。

 科学者たちは、新旧様々なタイプを取り揃えた現生生物のサンプルから、地層中に見いだした化石証拠から、生物が進化し続けるものであることを知り、原始的な生き物から次第に高等な生物が分化し、地球上に原始的な生き物と進化的な生物が共栄する生態系が構築されたことを知りました。
 生物が進化し変わり続けることと、一定の所に永続的に留まらず移動し続けることは表裏一体です。絶えず変化しながらバランスし続けているわけです。
 生物はまた、現代の学識では神が創造したものではなく、自然発生して進化を遂げたものだとされています。メタンガスの大気に覆われ大量の紫外線や宇宙線が降り注ぐ環境の中で、化学変化が促され、有機化合物が生成され、小さな水滴のような原生生命が誕生し、遺伝子システムを獲得し、後世の生物のために大量の酸素を放出し、後世の生物の安全のために紫外線や宇宙線をさえぎるオゾン層を構築した。そういうことがプログラムもシナリオも無しに自然に起こったのだそうです。
 地球は過去に何度も、生物が死滅するようなインパクトに遭遇しています。大規模な火山活動や大質量隕石の衝突。しかしそうしたダメージにも関わらず、地球上生物は途絶えることなく生き長らえました。氷河の進出も生物にとっては脅威です。生物の進化がまだ微生物段階であった頃に生じた氷河期では、凍結が赤道付近にまでおよび、スノーボールアースが形成されたと言われています。脆弱な原始生物たちはそれでも滅びなかったのです。最近の学説では、この氷期の終焉が生物の爆発的な進化いわゆるカンブリア爆発の起因になった可能性が指摘されています。スノーボールアースが、カンブリア爆発に必要な現象だったのだとしたら、それはオゾン層の構築ほど生物の進化にとって都合のいい話しです。あるいは後世の知的生物に充分な量の生物エネルギー(石炭および石油)を残した巨大植物たちのように都合のいい話しです。

 生命は様々な変化にさらされ、そのおかげで進化を遂げ続けています。その変化はまた地球規模の絶妙なバランスを伴い、幾多の危機を乗り越えて現代に生命をつなぎました。この地球規模のバランスにプログラムのようなものは存在しないのでしょうか。また、生物の進化のプロセスにシナリオのようなものは存在しないのでしょうか。カンブリア爆発から5億数千年という時間は、人類という知的生命が導かれるのに充分な時間だったのでしょうか。
 有機化合物の生成から人類進化までの歴史のドラマが、まったくの自然発生の出来事なのだとしたら、それは奇跡としか言いようがない、そんな気もします。このような奇跡が、地球以外でも生じたことがあるのでしょうか。考えると眠れなくなるのでこの辺にしておきましょう。

群れ社会と単独生活

2014/12/19


 野生動物には、集団生活を営むものと、単独生活者がいます。そして集団生活にも様々な形態がありまして、魚のイワシの群れのように同じ世代のものが単一な大群を成すようなものから、高度な社会性を見せるものまで様々です。
 イワシの群れは、大勢が寄り添うことによって大きな魚のように見せ、天敵をびびらせる効果があるのだそうですが、筆者にはあまりその効果が伺えません。イルカたちは嬉々として群れに突進して行きます。おそらくイルカたちはイワシが群れてくれるおかげで効率的に餌にありつけ、ずいぶん助かっていると思います。
 大型の草食獣には、繁殖期以外は雌雄別々に行動し、同性同士で群れを作るものがあるようですが、そのメリットもなんだかよく判りません。
 ライオンやサルの仲間は、オスのボスを中心に序列社会を形成し、かなり高度な分業によって群れを運営しています。群れの中で分業が行なわれるという状況は、それを社会性と見なして良いでしょう。組織だった社会生活は、群れの中の非力な存在を効果的にカバーでき、野生生活において生存率が大幅に向上します。育児に追われるメスも充分に食事ができますし、幼い子供も外敵から守られます。
 同じように高度な分業性を構築しているハチやアリの社会では、哺乳動物とは逆にメスが中心になって社会が運営されます。構成員の大半を占めるワーカーもメスで、わずかばかりのオスは精子のストック役でしかありません。
 筆者が飼育中のオオゴキブリや、今年の夏から秋にかけて観察していたセアカゴケグモは、成虫や幼虫が共同生活しています。オオゴキブリは様々な成長過程の個体が共に暮らす亜社会性が認められていますが、セアカゴケグモに関してはそういった記述は見当たりません。しかし筆者の観察した限りでは、オオゴキブリと同じような集合状態が観られ、このことは非力な幼い個体の生存にとってたいへん有利であると思われます。
 また、繁殖期にだけ群れを形成する動物もいます。とくに昆虫ではそれが顕著ですね。カゲロウやカの群飛とか。あまり言われませんがセミなども同じだと思います。一定のエリアに同じ種の動物が高い密度で暮らしているようなケースを群生とも言いますね。

 同じ種類の動物が協調性を発揮し、群れるということは単純に考えると生きていく上でひじょうにメリットが大きいと思われますが、群れや社会性を会得している動物はそれほど多くはありません。群れるという習性は、単独でいるよりも天敵に狙われる危険性を低減できるとよく言われます。個体が密集することで大きな動物のように見せる効果があるそうですが、上述のイワシの例のように、群れることによって天敵に効率よく餌を供給でき、むしろ食われる数が増えるのではないか、そんなふうに疑っています。それよりも雌雄が出会うチャンスが増え、繁殖の機会が増大するメリットの方が大きいかも知れませんね。どんどん産んで増やすから、いくらでも食え、というわけです。
 ただ、大型の草食獣の群れのように同性が集団を作ったり、ガの幼虫のように同令の虫が肩寄せ合っているのは繁殖のメリットとは無関係なので、やはり定説のように群れる方が、的に襲撃される機会が減るのでしょうか? 同じところで一定の勢力を保つことによって競合する動物を締め出して、餌を独占するメリットもあるかもしれませんね。
 では、群れない動物は、こうしたメリットに魅力を感じないのでしょうか。バッタのように群生状態を構築するにもかかわらず、群れ社会を築こうとしないのはどういうことなのでしょうか。時折、巨大な群れを構築して草木を根絶やしにする大発生が生じるようですけど。バッタの大発生は植物に大きなダメージを与えますが、同様に自分たちも大量の犠牲を払います。奇妙な現象ですね。
 同じ直翅目の昆虫でもキリギリスは、テリトリーを持ち、エリア内に同種を寄せつけません。餌を確保するためなのでしょうか。しかしながらキリギリスはバッタのように植物をモリモリ食べません。むしろ肉食性が高い昆虫です。それならカマキリのようにテリトリーを作らず餌を求めて渡り歩いた方が良いような気がします。
 貪食な肉食動物、とくに爬虫類や両生類、魚類、昆虫類といった仲間は、目前に動くものを見つけると、それが自分より大きそうなら敵と判断し、食べられるサイズなら食いつきます。同種であろうと我が子であろうと容赦はありません。背中に卵を背負って保護するコオイムシの子供たちも、最初の敵は母親だったりします。母親は自分の食料を確保するために卵を保護しているのでしょうか。このように、肉食性の動物の場合は、群れを形成するのに、同種を認識するための高い知性(後天的な学習能力とは限らない)を必要とし、なかなか難しい問題があります。ハチやアリは捕食性も高く極めて攻撃的な性格を有しているにもかかわらず、高度な社会生活を実現しています。一方で、クモやカマキリでは、交尾のためにメスに近づくにも、オスは命懸けです。オスがメスへのアプローチに失敗し、獲物と見なされてしまった場合、交尾は実現せず、繁殖の機会が妨げられることになります。
 肉食動物でもライオンのように高い知能を持つものは、問題なく群れ社会を形成していますが、たいていの場合、獰猛なハンターたちの同居生活は上手くゆかないようです。

 一匹狼という言葉がありますが、群れることへの仲間関係の煩わしさを好まず、自分の判断と能力で生きている孤高の象徴みたいに用いられますが、野生動物の多くは孤高の存在です。彼らは単身で暮らすためのあらゆる能力を備えています。
 では、単独生活者は、他の個体とまったく相いれないのでしょうか。
 卵生の動物の場合、卵は一ヶ所にまとめて産卵されたり、卵嚢という形でひとかたまりで産みつけられたりすることが多く、それらは一斉に孵化を迎えます。多くの場合孵化した幼体はそのまま散り散りに別れて行くのですが、一定期間を群れで過ごす習性のあるものもいます。小さく脆弱な間だけ群れることのメリットを利用するのでしょう。動物の群れの原型はこうした生態にあるのかも知れませんね。あるいは平素は単独生活でも、育児の間は家族生活を営むものもいます。ネコ科の仲間の多くがこれに該当します。魚や軟体動物でも普段は単独生活しているのに育児の間だけ親子で暮らすものがいます。獰猛なクモやサソリの仲間も、背中に子供を背負っている間だけは優しい母親です。
 筆者が飼育しているヘビの仲間では、同種同士、あるいはサイズの似通った異種を同居させるられる種がかなりいます。ヘビ食いもたくさんいますが。彼らは典型的な単独生活者で、小鳥や小さな哺乳類を捕食する種であっても幼蛇のうちはトカゲやカエルを食べます。そうした動物が問題なく同居できるのはどうしたことでしょう。野生生活においても、カエルを見たら食いつくものの、ヘビ同士では軽くあいさつでも交わしているのでしょうか。大きなケージに数頭のヘビを入れておいても共食いすることはありません。彼らが争うのは、たまたま同じ餌に飛びついてしまったときくらいのものです。この様子を見ていると、彼らが群れで暮らせるのではないかと思ってしまいます。もちろん同居は100パーセント安全というわけにはゆかないと思いますが、ヘビに関する限り筆者の経験では共食いが生じたことはありません。
 自然界では、単独生活者であっても他の生き物と共生するものもいます。寄生や片利関係のように一方だけが利益を受けたり、一方的に被害を被るような関係もありますが、お互いに有益な関係を築いているケースも少なくありません。有名なのはイソギンチャクとクマノミ、ヤドカリとイソギンチャク、ワニと小鳥(木村カエラの?)などですかね。アリと暮らしている虫もいますね、シジミチョウの幼虫、アブラムシ、アリヅカコオロギ等々。普通なら食うものと食われるものであるはずの動物同士が、相互の利益のために一緒に暮らすなんて実に高度な生活形態です。
 筆者はまた、中型のアガマ科のトカゲたちを数種類同居させていますが、けっこう上手くいってます。上手くゆかなかったこともありましたよ、非力なトカゲが咬傷を負ったり拒食に陥るようなこともありました。でも普通に考えてそれが当たり前でしょう。それなのに同居が上手くゆくケースの方が多いのが不思議というか面白いというか。出身国もちがうトカゲ同士が、同じ巣穴に潜り込んでいたり、大きなトカゲが小さなトカゲを背中に乗せて歩いていたりするのを見るのは、微笑ましい光景ではありますが、納得ゆきません。1つの皿に複数のトカゲが頭を突っ込んで食事している様子も、とてもトカゲとは思えません。日向ぼっこもみんなで重なり合って、呑気なものです。人工の飼育環境という特殊な状況が、彼らの共同生活を可能にしているのでしょうが、人工環境だと共同生活が可能になる理由がわかりません。彼らにそうした暮らしが可能である素質がもともと備わっているのでしょう。
 野生生活では、1頭のトカゲが占有している巣穴に、他種のトカゲが入り込んで、共同生活が始まるなんていう現象があるのでしょうか。コモド島の怪物コモドドラゴンも最近は人間とけっこう仲よくしているそうですし。あるテレビ番組では、乾期にようやく見つけた水辺に、シマウマの子供が夢中で飛び込んでゆくと、先客のライオンが場所を譲ってやっているのが放映されてました。ハンティング以外では彼らは意外にも仲良しなのでしょうか。うちのエジプトトゲオアガマも30cmを越えるサイズですが、自分より小さな同居者を背中に乗せたり、餌皿で場所を譲ってやったりします。

 単独生活者は孤高の生き物であって、他の動物とは絶対に相いれないという認識は、思い違いなのかもしれません。彼らにも共同生活ができるだけの素質はあるものの、平素その必要性がないために単独で暮らしているのかもしれません。それに単独生活者であっても棲息環境には様々な生き物が存在しており、それらすべてをテリトリーから退けていたのでは疲れ果ててしまいます。同種のオス同士は出会うと争うものの、異種に対しては無関心という動物もけっこういます。ベタやプレコといった魚もオス同士は激しく争いますが、他種との混泳にはひじょうに寛容です。筆者の水槽でも15cmのプレコが5cm足らずのドジョウと混泳しており、ドジョウもプレコをまったく恐れません。同居中の魚が死ぬとたちどころにプレコの餌になります。
 単独生活者でも、同種間で群れないけれど、異種混合の群生には向いているような種は少なくありません。野生では単独生活のトカゲを飼育し始めて、なかなか餌を食べてくれなかったのが、人によくなれた他種のトカゲと同居させると、採餌するようになり、その後も順調に同居生活を送っているといったケースもあります。他種の振る舞いから、餌の食べ方や、人工環境が安心できる場所であることを学習するのでしょうか。

 自然環境においても、動物たちは一見、単独生活しており他の動物とは相いれないように見えても、じつは動物同士食うか食われるかの関係だけでなく、互いに興味深く観察し合い、生きる術を学習し合っているのかもしれません。目の前の動物が敵あるいは餌であるとは限らないのではないでしょうか。そしてその究極の形が異種間の相利的な共生関係というわけです。
 人の観察では解明できていないような、人の目には共生関係とは映らないような、動物同士の関係性というものが存在し、そのネットワークが生態系の調和を可能にしているのかもしれません。生き物を観察する場合、目に見える群れや群生だけを生き物の社会性であると考えるのは、正しいとは言えないのかもしれません。

| 1/2PAGES | >>

索引


目次

スネさん リーザさん けもの 庭虫
雑虫 クモ 直翅系 半翅系 膜翅系 鱗翅系 鞘翅目 毒虫 魚たち 無脊椎
両生類 カメたち 絶滅動物 くさばな 庭草 雑草 高山植物 飼育と観察 ヒト □飼育動物データ




 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< July 2019 >>

サイト内検索

NEW ENTRIES


Amazon Kindle 電子出版のご案内
cover4.jpg


★講読には
Kindle 読書アプリ
が必要です。



sijn.jpg






recent comment

recent trackback

プロフィール

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM