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■生物の進化と生態系■

  これまでの生物の進化に関する研究は、そのほとんどが個々の生き物を主体にして来たように思われます。生き残るためにより強く大きく進化したとか、餌を効率的に採取するために器官の特殊化が進んだとか。個々の生き物主体の考え方では、生物は延々と戦い続けているだけのように見え、力で勝負、あるいは数で勝負のパワーバランスで生態系は維持されているように見えます
 パワーバランスの考え方でも、生態系の構造を説明できますし、競争と競合で生態系は成り立っているという考え方もまちがいではないのですが、自然界では生存競争だけでは割り切れない共生関係や、譲り合いが存在することも事実です。それも競争のための駆け引きだと言ってしまえばそれまでですが、競争の考え方だけでは、進化上の現象について説明できるものの、進化の原因や必要性までは説明できないと思います。
 生物がなぜそのように進化したのか、なぜ多種多様の生き物が存在するのか、地殻変動等で地球の環境は変化し続けているのに、なぜ地球上生態系は維持されているのか。生物は極めて精密な構造を持つ有機化合体です。環境に順応するための機能を備え、環境に依存して生きています。環境の変化が適応能力を上回ると、生物は死滅します。だから生態系を維持するには、様々なタイプの生き物を用意しておかねばなりません。

 生命は最初、薄い被膜で覆われた液滴のような状態で誕生しました。それが遺伝子という生体の仕組みを記述するシステムを獲得し、生物としての秩序立った進化を始め、多彩な生き物が創られました。どんなに異なる生物でも、すべての始まりは遺伝子を持った液滴であり、その変化のバリエーションです。細胞分裂の繰り返しによって体が作られ、子孫が作られ、ちがう種類の生き物が生まれたわけで、細胞レベルでは、すべての生き物は兄弟姉妹なのです。
 地球上に生命が誕生したことも不思議ですが、それが滅びることなく存続し続けたことの方がさらに不思議です。地球の度重なる地殻変動に耐え、植生を維持し動物たちを育んで来たシステムとはいったいどのようなものなのでしょうか。
 地球上の生物圏それ自体を1つの生物とし、個々の生き物はそれを維持するためにそれぞれの役目を果たしていると考えるとどうでしょう。生態系が自分を維持するために、あらゆる環境に生き物を送り込み、進化と多様化を促したのだとしたら。

 地球上の生物たちの間には、食う者と食われる者の立場のちがいがあることは事実です。しかし捕食者は餌となる生物を食い滅ぼそうとしているわけではありません。また、同種間における縄張り争いで、ライバルを死滅させることもありません。同じ種類の生き物で滅ぼし合いをするのは人間だけです。
 人間は、競争社会のあり様を、自然界における生存競争になぞらえ、競争することが生物としての宿命であるみたいなことを言い、競争社会や戦争を正当化したりしますが、野生動物たちは競争などしません。戦争もしません。そもそも生存競争などという言葉自体、人間が勝手に考え出したものです。
 生態系は、生存競争の重なり合いによって成り立っているのではなく、それを維持するための生物相互間のネットワークによって成り立っているのではないでしょうか。


生態系の緩衝能力

 地球環境は、地質的な循環によるほか、生態系という有機環境によっても支えられています。生態系とは、植生(植物の群生状況)とそこに棲息する動物群およびバクテリア層のことです。
 地質環境はひじょうに大きなゆっくりとした変化を伴いながら循環していますが、それはまた数百年ごとあるいは1年ごとの変化をももたらします。高温で多雨な年もあれば涼しくて乾燥した年もあります。
 特定の自然環境を毎年観察していると、虫や草花の繁殖状況の変化に気づくでしょう。農耕を生業としている人は、気象条件の変化で豊作や不作を経験しています。農耕地には特定の植物が繁殖しているので、その植物の隆盛と衰退が顕著に見られるわけですが、野山では、似たような草花や虫たちが、ある者は隆盛しある者は衰退するので、全体的にはあまり変化がないように見えます。注意深く観察している人だけが、今年はツユクサがやたら多いとか、去年は大繁殖したコガネムシが今年は少ないといった変化に気づきます。
 自然の野山が、人工的な農耕地のように豊作や不作を顕著に示したらどうなるでしょう。多くの植物が一斉に衰退するようなことになれば……。それは砂漠化の始まりですね。

 生態系は、人工環境とちがってひじょうに多種多様の動植物を擁しています。虫や魚を研究している人なら誰でも、同じ環境に似たような種がたくさんいることを不思議に思ったことがあるでしょう。また、動物を飼育してみると、姿形の異なる種が同じ餌と同じ飼い方で問題なく飼育できることを経験します。これら似たような種、同じような生態の種がどうして別々に存在するのか、不思議だとは思いませんか? 同じ環境で同じものを食べている似たような虫なら、1つの種にまとめた方が合理的じゃないですか。
 とくに生態系の底辺層を成す生き物、例えば昆虫類などは、あまりにも多くの近似種がワラワラいるのでいささかうんざりしてしまいます。一見してちがいが判らないのに別々の種で、同じ場所に棲んでいるのに互いに干渉せず交雑することもない、そんな虫もいます。
 でも、このように似たような種がたくさん存在し、環境に棲息する動植物の種類が豊富なことはたいへん重要なことなのです。

 生態系を形成する生物たちは、互いに依存し合って生きています。一見して思い思いに生きているように見える彼らは、それぞれ自分たちの役割をきちんと果たし、生態系のバランスを維持し続けているのです。年によって異なる草花や虫が目だったりするのは、気候や地質的条件の変化に対する対応なのです。寒冷な年には寒さに強い虫が頑張り、温暖な年には大きくて大食の虫が頑張って余分に伸びた植物の葉をバリバリ食べる、そんな具合にそれぞれの役割を果たし、環境の変化に生物全体で適応しているのです。それはあたかも生態系それ自体が1匹の生き物であるかのような絶妙なバランスです。1匹の生物の中でたくさんの細胞がそれぞれの役割を果たして体を維持しているような関係です。
 自然環境の変化はひじょうに複雑です。気温や湿度の変化ひとつとっても毎年異なり、まったく同じ年なんてありません。ですから、これに追従し適応するには、生物の種類が多ければ多いほど有利ということになります。
 ひとつの環境に存在する生物の種類の豊富さ、つまり生物層の厚みを、筆者は生態系の環境の変化に対する緩衝能力と呼んでいます。棲んでいる生物の種類が多いほど、環境の変化に対するショックアブソーバー能力が高いわけです。同様の話しを別の章でもしましたね。

 テレビ等で紹介される野生動物の姿は、生きることの厳しさばかりがクローズアップされるように思います。厳しい自然の掟だとか、弱肉強食の世界だとか、食うか食われるかの生存競争だとか。大自然の残酷で苛酷なところばかりを取り上げてドラマチックな演出をするのが、マスコミは大好きみたいですね。しかし、生き物たちは互いに滅ぼし合うようなことはしません。どんなに小さくて弱い種も食い滅ぼされることなく生存し続けています。そもそも生物の強さなど人間の勝手な定義です。

 地球上の自然環境は水と空気でつながっていて1つですが、地域ごとにずいぶん大きな特徴のちがいが見られ、棲んでいる生物の種類も異なります。地球上の遠く離れた土地へ、なんらかの事情で移動することになった生物は、たいていの場合移動先に適応できずに死滅します。生態系のバランスはそれを乱す要因を受け入れません。でもまれに移民が新しい環境に適応してしまうことがあります。生態系のバランスに上手く組み込まれ、移動先の一員になってしまうのです。外来種の固定は、人間が旅行や貿易をするようになってからたいへん増えました。
 外来種は、移住先に固定される場合、同様の生態の在来種を閉め出して置き換わってしまうことも少なくありません。セイヨウタンポポやカダヤシは、日本古来のタンポポやメダカを閉め出して居座ってしまいました。そして中には移住先の多数の在来種をことごとく閉め出して居座ってしまう乱暴者がいます。日本の水域で猛威を振るっているブルーギルやブラックバスの脅威も有名ですね。
 生態系は絶妙にして繊細なバランスです。そのバランスによって生物層の厚みを維持しています。だから外来種が大暴れして多くの種類を撃退してしまうのは深刻な事態です。生物の種類が減るということは、環境の変化に対する適応能力が低下するということです。気象や地質の変化を生態系が充分に受け止められなくなり、植生の崩壊が始まると大変なことになりますね。

 生物の進化と分化について研究するとき、個々の生物がどのように環境に適応したか、適応するために形質の特殊化をどのように進めたか、ということばかりに目を向けていると、進化のメカニズムの本当の姿はなかなか見えてきません。個々の生物が生態系のバランスを維持するためにどのような役割を果たしているのか、役割を果たすべく、どのような形質や生態を発達させたのか、そういう点にも配慮する必要があります。自分の身を守るために甲羅を発達させた、狩猟能力をたかめるために大きな牙を発達させた、そうした種本意の見方というのは、定行進化の中で強く大きくなってゆく生物の進化を説明できるものの、脆弱に見えるのに滅びることもなく繁栄している生物の進化を上手く説明することはできません。
 生物は強く大きくなる方向に進化するという定行進化の考え方は、生態系を構成するすべての動植物の進化を説明するにはあまりにも不充分です。環境の中で、矮小で脆弱な種がどうして滅びることなく繁栄し続けているのか、進化の歴史の中で同じ時間が与えられたのに、どうして形質を強化しないまま生存し続けているのか、その点にも着目し、地球上の生態系そのものの進化についても考えてみることが、生物の進化を理解する上では重要になって来ます。また、個々の生物の進化を考える時に、常に生態系全体の様子、あるいは気象や地質の状況についても観察し続ける必要があります。


生存競争の不在

 生物の進化や、自然界での生態について語るとき、あたりまえのように使われている"生存競争"という言葉は、生物の本来の姿を説明するにはあまりにも不充分です。同様に用いられる"弱肉強食"という言葉も、よく考えてみると極めて矛盾した表現です。
 そもそも生存競争とはいったい何なのでしょう? ひとことで言うと、生き残りをかけた闘争ということになりましょうか。生物は常に生き残りをかけた闘争を続けており、勝者だけが生存を許される宿命なのでしょうか。
 例えば、同じ種類の動物が餌を巡って争奪戦を繰り広げ、勝ったものが生き残って子孫を残し、進化の明日を担う、それが生存競争でしょうか。敗者は淘汰され、勝者は明日の闘いの場に赴き、果てしない闘争を繰り返す。このようにして強い者だけが生き残ることによって、より強くより大きい方向へ、生物の進化は導かれて行く。この説明は定行進化のメカニズムをごく単純に言い表していますね。

 ところが、実際には多くの場合敗者も淘汰されることなく生き残り、子孫を残します。定行進化の法則に従って強く大きな種へと進化を遂げるのは、種の一部であって残りは進化せずに種を保存します。例えばAという種の一部から、より強く大きなBという種が進化したとしてもBという種は滅びるわけではなく、AとBは同じ時代に共存するのです。進化によって新しい種が誕生する場合、種全体が新種へ移行するのではなく、新種が旧種から枝分かれするのが普通で、これを分化と言います。
 ただ、旧種Aと新種Bが同じ環境で競合した場合、Aは衰退しやがて死滅することになり、種の置き換わりが生じることも少なくありません。AはBとの生存競争に負けるわけです。

 では、生存競争とは上述のAとBのように異種間で生じるのでしょうか。生物はふつう同じ種同士が殺し合うことはありません。社会生活や縄張りの習慣を持つ生物は、テリトリーに同種が侵入するとこれを撃退しますが、殺してしまうことはありません。侵入者も他人のテリトリーを認識すると撤退します。生物のテリトリー争いを観察した人間が、勝手に生存をかけた争奪戦だと思っているだけで、彼らは威嚇(に見える)行動によって侵入者に自分のテリトリーの存在を教えているだけかも知れません。
 弱肉強食という言葉は、弱い種が強い種の食事になることを表現いますが、これが生存競争の正しい解釈なのでしょうか。草食獣が肉食獣の餌になるような状況が、生存競争なのでしょうか。テレビ番組等で、肉食獣の狩猟の様子が紹介されると、解説者が弱肉強食や生存競争を同義語のように使っているのをよく耳にします。厳しい弱肉強食の世界だとか、食うか食われるかの生存競争とかいった具合です。でも筆者には、ライオンとシカが食うか食われるかの競争をしているようには見えないし、ライオンがシカを食い滅ぼして勝者になろうとしているようにも思えません。
 捕食者とその餌になる者との関係は、メンタルに考えるとひじょうに残酷に見えますが、じつは両者は絶妙な共生関係にあります。ライオンはシカが滅びると飢えることになりますし、シカはライオンがいないと増え過ぎて餌である草が不足してしまいます。

 先ほどの生物の分化の話しに戻りますが、旧種から分化した新種がいつでも勝者になるとは限りません。新しく分化した新種の方が、分化元である旧種より先に滅びてしまうようなことは少なくありません。クラゲやイソギンチャクの仲間は、太古の姿のままあまり変わらずに今も元気にしています。

 生活環境が、生物に対して一定の淘汰圧を加え続けていることは確かで、それにどれだけ耐えれるか、耐えるのに有利かということは、生物の繁栄と衰退を左右し、その盛衰の様子はあたかも競争のように見えます。そうした中で新しく分化して来る新種は、必ずより強く大きいもので、定行進化の法則を肯定しています。
 ただしそれは、生物に対して加えられる淘汰圧が一定であるという条件下だけの話しです。温暖で肥沃な土地で、植物がどんどん生い茂る条件下では、定行進化は維持されますが、気候は恒久的に一定ではありません。温暖な気候も永久には続かないのです。
 気候が寒冷化して来ると、強く大きく大食の生き物はいつまでも優位に立っていられません。個体の維持に大量の食物を必要とする者は、餌の確保が次第に困難になり、体力が衰え、出産率と子供の生存率が減退します。これに比べ、もともと少食だった小型種はダメージが小さくてすみます。大型種が衰退した分だけ淘汰圧が減少した小型種は、気候の寒冷化に伴って繁栄してゆくかもしれません。

 生物が、存亡を賭けた生存競争を繰り広げているというのは、人間の勝手な解釈です。ライオンはシカと競争しているわけではないし、同じライオンの群れを襲って食い滅ぼすこともしません。弱肉強食という言葉も自然の営みを正しく表現していません。シカは弱いからライオンに食われるのだ、食われないためには強くならねばならないのだ、そんな考え方は自然界には通用しません。シカがゾウのように強く大きな動物に進化したとしても、ライオンを食うことはありませんし、ライオンの方もシカをあきらめて別の餌を求めるでしょう。それに強く大きな者が勝者であるなら、恐竜は滅びなかったはずです。恐竜たちは今よりずっと温暖で肥沃だった中世代に必要とされて進化し、気候の変化に伴ってその役割を終えたのです。
 生物は、生態系という大きな社会の一員に属し、それぞれの役割を果たしながら生態系のバランスの維持に寄与し続けています。地球は多種多様な動植物が各自の役割を果たすことによって維持されている大共栄圏なのです。


食物連鎖のピラミッドの崩壊

 生物は食べ物を摂取して生きるためのエネルギーを得ていますが、生物の食べ物は、動物質であれ植物質であれ、他の生物です。生物の食生活関係は、食うか食われるかの生存競争ではなく、食う者は一方的に食う側に立ち、食われる者はいつも食われる側で、両者の間に競争はありません。植物は太陽エネルギーから栄養素を生産し、草食獣がそれを食べ、肉食獣が草食獣を食べます。そして死した肉食獣は死体食や腐肉食の者に食べられ、残りはバクテリアに分解されて土になります。土は植物の滋養となります。このような循環を食物連鎖と言い、生物の生涯はこの循環の輪に組み込まれています。
 食物連鎖の様子をピラミッドとして表現し、頂上にいる生物と底辺にいる生物を種類分けする考え方がありますが、これは極めて奇妙で理不尽な発想です。図式は頂上のとがった三角形として表され、底辺には小さくて弱い生き物が並び、頂上へ行くほど強い生き物が配されます。三角形になっているのは、上へ行くほど個体数が減少することを表しているのでしょう。つまり底辺近くにいる草食獣はたくさんいて大きな群れを成し、これよりも強い肉食獣は頭数が少ないということです。理屈に合っているのですが、わざわざ図式にして説明なくても当たり前のことですね。食う者より食われる方が多くなければ食物連鎖は成り立ちません。
 この図式が生物の個体数の状況を表しているのだとしたら、我々人間はかなり低い位置にいることになります。しかし、人間を常食している生き物など聞いたことがありません。人間は文明の力で武装し、堅牢な営巣地を築き、向かうところ敵なしです。
 食物連鎖のピラミッドという考え方については、生物学の専門家でなくても多くの人が知っていて、自然科学の常識みたいになっているようですが、人間がピラミッドのどの辺りに位置するのかと尋ねると、たいていの人が迷うことなく頂上と答え、一部の聡明な人は判らないと答えます。テレビ番組で生物学の専門家が、堂々と「人間は食物連鎖のピラミッドの頂点にいる」とおっしゃっているのを聞いたことがあります。もしそうだとしたら、このピラミッドは、頂点がおそろしく肥大したものになってしまいます。
 ゾウという大型獣も、卑怯な手を使う人間を除けば、無敵無敗の猛者ですが、植物しか食べない彼らをライオンより上位に置こうと考える人はあまりいないでしょう。

 食物連鎖のピラミッドの矛盾点をちまちまとほじくり返してみても空しいですね。それ以前に生物の食物連鎖をまるで縦社会の序列のように表現する考え方自体が正しくないと言いたいわけです。生物の世界すなわち生態系は、縦社会ではありません。生物たちは、食物連鎖の頂上を目指して覇権を巡る競争を続けているわけではないのです。
 生物はそれぞれの役割をきちんと果たすことによって、生息地での存在を認められ、生態系のバランス維持に貢献しています。ただ、生態系及びそれを取り巻く環境は極めて流動的に変化し続け、その中で生物たちは栄枯盛衰を繰り返しています。新天地を目指して勢力拡大を図ることもあれば、自衛と攻撃のための武装を発達させることもあります。そして適応力で劣った者は敗者として淘汰されます。個々の生物を見る限り、生存を賭した攻防戦を繰り広げているように見えますし、それを生存競争と表現してもあまり矛盾はありません。
 しかし、それを競争と捉えずに共存共栄のための営みというふうに考えると、生態系の全体像と個々の生物の位置づけが、よりいっそう鮮明に理解できます。生物同士の相互関係は、人間界の縦社会のような単純な力関係で表現できるものではありません。人間界流に言うと、ライオンはシカより強く、食物連鎖のピラミッドの上位に位置しますが、見方を変えると、大群を構成して繁栄を極めているシカに、ライオンは寄生して生きているということもできます。生存個体数と勢力範囲において、ライオンはどう頑張ってもシカに太刀打ちできません。両者はそれぞれの役割を果たすべきで、勢力争いなどしようものなら共倒れするだけです。
 ライオンとシカのような肉食獣と草食獣の関係でなくても、同じ肉食獣同士、草食獣同士でも役割分担があり、きちんと住み分けています。生態系の緩衝能力の項でも話しましたように、生物は多種多様の種類が共存して豊かな生物層を形成し、生態系を維持しているのです。
 そうした共存共栄の中で、種の絶滅が生じるのは、淘汰圧に負ける者が生じるのは、生物同士の利己的な競争の結果ではなく、劣勢な種が環境の変化に追従することができなくなるからです。また、生物の進化が強く大きい方に定行的に進むのは、淘汰圧が一定である結果様々な変異が生じても、その淘汰圧に対して強い者しか生き残れないからです。
 生存競争あるいは食物連鎖のピラミッドといった発想は、人間界の縦社会になぞらえて生態系を観察した結果生じた偏見に過ぎません。その偏見が常識のように人々の間に浸透し受け入れられているのは、たいへん残念なことです。
 生物は競争などしていません。シカがライオンを怨んだり復讐を企てたりもしません。人間界の競争社会を、自然界における生存競争を模したもだとする考え方もかなり一般的で、人間も生物の一員なのだから、競い争うようにできているのだと、競争社会を宿命のように言う人も少なくありません。でも実際には、競争している生き物など、人間以外には存在しないのです。


生物学における相対論

 理論物理学の世界には相対性理論といういささか難しい考え方があります。ドイツの物理学者アインシュタイン博士が考え出した理論で、等速運動し続ける場(慣性系)での物体の運動を記述した特殊相対性理論と、加速する場や重力場の状況も含めて説明した一般相対性理論があります。
 特殊相対性理論によると、速度と重力が一定の場では物理の法則は不変なので、ものの大きさや重さ、時間の流れは一定です。つまり物事は等速運動する特定の場では不変だけれど、場の状態が変われば物事はその姿を変えるよ、ということなのです。
 物理の法則は全宇宙で普遍的であると言われていますが、場の条件が変われば事象の姿が変わってしまうとすれば、例えば地球から他の天体を観測するような場合、地球という場から別の天体という場を観測した場合、そこで得られる測定値は正しいものではないということになります。地球上から見た時に限定される数値だということです。
 同じ地球上でも、高山と海岸では地球から受ける重力の値が微妙にちがいますし、止まっている人と移動中の人とでは、別々の慣性系にいます。超音速ジェット機で移動する人の時間は、地上をポコポコ歩いている人の時間よりわずかに経過が遅くなるので、地上の人からするとじんわりと過去へタイムトラベルし続けています。空の上の人の時計はゆっくりと遅れ続けます。
 こうなると等しい慣性系なんてものは、宇宙においては極めてピンポイントな特殊な場であり、あらゆる場の状況を考慮し一般化できんものか、ということで考え出されたのが一般相対性理論です。
 一般相対性理論では、光速度不変原理という物差しを用いて、全宇宙の場の状況を一般化します。秒速30万キロメートルで運動する光の速度は、あらゆる場の状況を超越して一定です。光は光源を離れた瞬間に加速することなく秒速30万キロメートルに達します。この速度が宇宙における物理的限界速度で、この速度に達した時、物質の時間は消滅します。だから光は加速に時間がかからないわけで、どこまで飛んでも彼自身の時間は経過しません。星を離れた光は鮮度を保ったまま数十億光年を飛び続け、天体望遠鏡に届くのです。
 宇宙のあらゆる場を無視して不変である光の存在のおかげで、慣性や重力(厳密には両者は同じ)の影響により変化する事象の様子を観測するのに一定の基準ができたのです。
 相対性理論の登場により、物事を観測し測定する精度が、これまでの古典力学による方法よりも格段に向上しました。現在の文明を支えるエレクトロニクスも、相対性理論の賜物です。
 なんだか頭が痛くなりましたね。筆者も頭がかゆくなりました。なのでこれまでの話しは忘れて下さい。書いてる本人がよく理解していないものを読者に解ってもらおうとは思いません。
 でも、宇宙とは、自然科学とはこういうものなのですよ。

 相対性理論すなわち相対論は、すべての物事の状態は絶対ではないということを言っています。すべての事象は、ある特定の条件に対してそれに相対した特定の状態をとり、条件が変われば事象の状態も変化に相対して変わるのです。
 相対論は、すべての物事の存在が絶対的ではなく、相対的なのだということを教えてくれます。
 物事の1つの姿を絶対であると信じるのではなく、その姿である背景にはどのような条件があるのか、どのような条件でその姿をとるのか、そこのところを考えていけば、これまで見えなかった真理に近づくことができます。
 理論物理学における相対論は、筆者に発想の転換あるいは逆転の発想の重要性を教えてくれました。太陽は東から登って西に沈みます。天文学の知識がなければ、太陽が空を移動していると信じていても人は問題なく生活して行けます。地球を基準にすると実際に太陽は天を駆けており、その様子を矛盾なく測定することができます。しかし、太陽が不動で地球の方が自転しているという逆転の発想で、むかしの地動説論者たちは真実に近づくことができたのです。

 生物学の世界でも同じで、既製概念を絶対的なものとして信じている限り、様々な矛盾は解決できません。
 ライオンがシカよりも強いというのは、弱肉強食の価値判断で比較するという条件に相対してのことです。繁殖力と個体数という条件では、シカが圧倒的に強くなります。
 食うか食われるかの生存競争という発想も、人間界の競争社会になぞらえると、そのように表現できなくもないというだけで、生態系のバランスという基準で見れば、生物は競争ではなくむしろ共存しています。
 筆者も生物の一員ですが、牛と競争して食い滅ぼそうとは思いません。筆者はいつも牛を食う側に立っていて連戦連勝ですが、道端でばったり牛と出会った場合、次の1勝を目指して戦いを挑もうとは思いません。敗走するのはたぶん筆者の方です。牛と筆者の力関係も条件の変化に相対して変わるのです。

 人間界における競争社会と縦社会の構図は、自然界の弱肉強食の掟と食物連鎖のピラミッドを模倣しているという風に、多くの人々が思っているかも知れません。しかしそれは、勝ち組人生を送っている人たちの詭弁でした。競争を繰り返し富の独占に邁進した結果、様々な考え方やいろんな能力を疎外し、人間社会は環境の変化に対する緩衝能力を失ってしまったのです。現在の縦社会と競争の構図を改めない限り、人間社会はわやくちゃになってしまうでしょう。不況で苦しいから景気対策を講じると言ったところで、経済成長という考え方しかできないのでは、先が知れてます。好景気の次にはさらに悲惨な不況が到来し、自然破壊がまた一段と進みます。
 人は愚かな生き物だから、けっきょく滅びるしかないのだ。悲観論者はそんなことを言います。愚かならば学べばよいのです。学べないなら人間をやめなさい。
 ある時、ライオンにインタビューしてみたのですが、彼らはやはりシカと競争などしていないと言っていました。ライオンはこうも言っていました。我々ライオンはアフリカの平原での狩猟生活に適応した生き物で、その役割を果たし続ける。しかし人間は環境に適応するのではなく環境を変えようとして来た。人間は多くの破壊と資源の浪費を行なった。しかし他の生き物に愛情を注いだり、地球のために何かしようと考えたりするのも人間だけだ。


生物と進化

 すべての生物は進化し続けています。その程度は千差万別で、短い期間にどんどん変わって行き、様々な種に次々と分化する場合もあれば、ひじょうに長い間ほとんど進化しない場合もあります。
 我々人類は、200万年〜300万年前に類人猿の一種から進化して来たと言われていますが、人類や類人猿、それらを含む哺乳動物はかなり短期間に劇的な進化を遂げ、多種多様な動物に分化しました。これとは逆にクラゲやイソギンチャク等の原始的な海洋動物は数億年来あまり進化していません。それでも全く進化していないわけではなく、太古のクラゲと現生のクラゲはちがう種類の動物です。進化の程度があまりにもゆっくりしているのでほとんど変わっていないように見えるだけです。
 地球上の生物全体を見渡しますと、生物の進化とは、時間の流れと共に新しいタイプの生き物が追加され、原始的なものから新しいものまで生物のバリエーションが増えて行くことであると言えるでしょう。
 当たり前のことですが、新しいタイプの生物は古いタイプの生物の一部から分化して来ます。このとき古いタイプの生物が新しいものに置き換えられてしまうのではなく、新旧の共存が始まります。
 生物の進化の様子はしばしば「進化系統樹」という枝分かれしてゆく図表で示されますが、1本1本の枝が生物の種やグループを表し、枝の数は時間の推移と共に増えて行きます。枝は長く伸び続けて次々に新しい枝を分化させる場合もあれば、短命で終わってしまうこともあります。また新種を分化させたあと間もなく途絶えてしまうこともあります。様々な紆余曲折があるものの、生物の種類は時間と共に着実に増えて行きます。
 種類がどんどん増えると、同じような生物が同じ場所で共存する事態が起こりますが、このことは生態系全体にとってはたいへん重要で、生活環境の変化によって共倒れしてしまうことを防ぎます。生物はそれぞれの種が、独立して生存競争しているというよりも、互いに係わり合い、環境の変化でダメージを受ける種があれば、別の種が頑張るといった形で生態系を維持しているように見えます。
 生物の進化は、個々の生物が生存を賭けた競走によって生じ、その結果弱者は淘汰され強者が生き残るという形で進むと説明されることが多いようですが、自然界では強い者も弱い者も共に繁栄し、生態系全体のバランスを保っています。
 生物の進化は、偶発的な突然変異の積み重ねであると一般に考えられているようですが、筆者はやはり、経験や後天的に獲得した形質の情報が突然変異を引き起こす要因であるという考えを捨て切れません。

 生物の進化について勉強すればするほど、謎は深まるばかりです。地球上の生態系の歴史を見ていると、そのドラマがあたかも最初からプログラムされたシナリオに基づいているように見えて来ます。遺伝子という生物を司るユニットには、その星の環境で生命が繁栄し、生態系という巨大な環境を構築するにいたるためのプログラムが最初から記述されており、生命が誕生日するとすぐにそのプログラムが始動し、状況に応じた変異が生体にもたらされ、海には海洋生物があふれ、陸地は植生に覆われそこに動物が住むようになる、生物とはそのような装置であり地球上の生物圏全体が1つの生き物みたいなものなのではないでしょうか。
 ではいったい誰がそのような装置を地球にもたらしたのでしょう? このように考えると神のような高次元の存在に登場願わねばならなくなるわけで、それはもはや生物学の問題ではありません。
 それならば、宇宙の構造がそうなっているのでしょうか。太陽から適当な距離にある適当な質量と水を有する惑星に数十億年という時間が与えられれば、生命が誕生し数億年で知性体が生まれるようになっているのでしょうか。それとも地球という星でそういう出来事が起きたことはたまたまの偶然であり、こんな事例は他には存在しないのでしょうか。

 科学の専門家といわれる人たちの学術的な見解にせよ、筆者のようないささかロマンチックな素人考えにしろ、地球上のすべての生物が同じ組成の遺伝子を有し、停ることなく進化し続ける有機体であるということには疑問を差し挿さむ余地はありません。
 生物は遺伝子の制御によってひじょうに正確に形質がコピーされ、世代交代が行なわれますが、完璧に見えるコピーはじつは不動のものではなく、親と子供とでは異なっています。とくに有性生殖(オスとメスが互いの遺伝子を分け合う)の場合は、ちがいは明瞭です。形質にほとんど差異が見られなくても遺伝子の情報はちがっています。情報のちがいは世代交代ごとに大きくなって行き、それがある一定のラインを越えたとき、親と子とでは種がちがうほどの変異として顕現するのではないでしょうか。それが進化の原動力ではないかと筆者は考えています。
 そして世代交代ごとに遺伝子上に蓄積されてゆく情報の差異は、生物の経験に基づいているのではないでしょうか。だから同じ環境で同様の変異は斉一的に生じ、新種は同じ境遇の配偶者と高確率で出会うことができ、偶発的な突然変異よりもはるかに確実に進化は成功するのです。


経験の記録と平行進化

 生物の進化を促すものは、偶発的な突然変異の積み重ねではなく、生物の経験や後天的に獲得した形質の情報の蓄積である可能性を筆者は疑っています。でなければ、人為淘汰による品種改良や、環境のちがいによる地域変異の集団発現を説明できないと。
 生命を掌る遺伝子の情報量は膨大な量に及び、そのほとんどが使用されていない無駄な情報です。しかしそれらは破棄されずに貯め込まれ、細胞分裂や生殖の際にその正確になコピーが、次の細胞、次の世代に受け継がれます。それら使われない莫大な量の情報は、生物がたどって来た進化の歴史であり、経験や後天的に獲得した形質の情報なのではないか、そういう情報を記述し記録しておくメカニズムを遺伝子は有しているのではないか、そして普段使用している遺伝子の情報では対処できないような状況に遭遇したとき、参照したり活用したりするのではないでしょうか。こうした考え方は荒唐無稽な想像でしょうか。
 生物が暮らしている環境は変化し続けています。例えば温暖な土地が何らかの理由で寒冷化し始めたとき、その生物の祖先に寒冷地に住んだ経験があり、その時の遺伝情報が保存してあれば、それを参照して寒冷化に対処することができます。防寒用の皮下脂肪や厚い毛皮を再現することができます。薄毛の親からいきなり剛毛の子が生まれるような劇的な変化はないにしても、まったく何も情報がない状況よりもずっと有利でしょう。

 生物の進化における面白い現象のひとつに、平行進化または進化の収斂現象というものがあります。場所や時代の異なる別々の環境に暮らす別の種類の生き物に、同じような形質が顕現するという現象です。例えば現生の哺乳動物であるイルカ、これとそっくりな爬虫類が今から1億年ばかりむかしの海に棲息していました。イクチオサウルスというその海洋爬虫類は、大きな目と鋭い聴覚を有し、知能も高かったと想像されています。両者はまったく別の種類の生き物で、進化して来た時代にも大きな隔たりがあります。両者の共通点といえば、海に暮らし強力な遊泳能力と鋭い感覚器を有していたこと、高い知性に恵まれていたことなどです。イクチオサウルスも中生代の海でイルカのような社会生活を送っていたのかもしれません。
 海で知性的な暮らしをしようとすれば、必然的にあのフォルムになるのでしょうか。それとも両者とも祖先は魚類であり、海洋生活に適応するにあたり古い遺伝情報を参照した結果、同じような形質を顕現するに至ったのでしょうか。筆者の考えはもちろん後者です。
 別々の場所に暮らす別々の生き物に見られる類似性のすべてが古い遺伝情報を参照した結果であるとは申しません。同じような環境に適応するという生活条件が、たまたま体の特徴の類似を生じさせるようなこともあるでしょう。しかしそのたまたまにしても、それぞれの生物が同じ進化の道筋をたどった同じ組成の遺伝子システムを持つ者同士なのだから、遺伝子に起因した発想の類似性が生じるのではないでしょうか。


進化のシナリオと前適応

 生物の進化の歴史を見ていると、しばしばそれがシナリオのあるドラマであるような感覚に襲われることがあります。そのあまりにも見事な計画性にしばしば驚かされます。
 まだ生物が存在しない原始の地球は、太陽からの強烈な紫外線や宇宙線にさらされ、さながら電子レンジ状態でした。大気はメタンや窒素が主成分のなんとも暑苦しい状態で、酸素などはほとんど含まれていませんでした。
 しかしこの苛酷な地球環境は、じつは生命の誕生にとってとても重要だったのです。大量の紫外線や宇宙線は、地上の有機物を調理して生命の素材となる化合物を生成するのに必要な条件でしたし、酸素が少ないことは誕生しつつある原始の生命にとって幸いでした。他の元素と結び付きやすく鉄をも錆び付かせる酸素は、生物にとってはたいへん有害なものでしたから。
 生物が進化し、太陽光で滋養を生成する原始的な植物が進化してくると、彼らは光合成の際に生じる酸素を大気中にどんどん放出しました。有害物質である酸素の放出は言わば排泄行為でした。多くの植物たちによる大量の酸素排泄のおかげで地球上の大気は大量の酸素を含むようになり、大気上層には分厚いオゾンの層が形成されました。
 オゾン(O3)層は太陽からの紫外線をひじょうに効果的にカットします。紫外線は生命の誕生に必要不可欠だったものの、ひとたび生命が誕生し進化を始めると細胞を焼き滅ぼす有害なエネルギーとなってしまうので、オゾン層によるUVカットは、生物を保護するのに不可欠なものとなりました。
 やがて植物を食べ、それを燃焼してエネルギーにかえるタイプの生物つまり動物が増えてくると、彼らは酸素を必要としたので、植物たちが酸素を排泄し続けることはまことに好都合でした。動物たちは酸素を吸い込み、植物の光合成に必要な二酸化炭素を排出します。
 生命の進化と発展は最初は浅い海で起こりましたが、やがて彼らは陸地にも勢力を拡げました。陸地で植物が育つためには土が必要ですが、無機物の集まりである砂を土に変えるためにバクテリアという微生物が頑張りました。
 このようにして地球は、生命が誕生しやすい電子調理機状態から、生物が住みやすい場所に、生物によって作り変えられて行ったのです。じつに巧妙かつ見事なシナリオだと思いませんか?

 地球は生物自身の手で生物に適した環境に創り変えられたわけですが、それは綿密に計算された計画に基づいて進められたような絶妙かつ劇的な歴史でした。その後の生物進化の歴史も、自然あるいは偶然というにはあまりにも出来すぎたドラマの数々で彩られています。
 その最も顕著な例が前適応といわれる現象です。前適応とは、次の進化に必要な形質や生態を生物が事前に身につけているというもので、進化の計画性を強く感じさせます。
 前適応の身近な事例は、我々人類の進化を可能にしたもので、サルの仲間から類人猿が進化して来た時に起こっています。
 サルの仲間から進化した最初の類人猿テナガザルは、樹上生活の中で"腕渡り"という移動方法を身につけました。前足で枝をつかんだ状態でぶら下がり、前足を交互に繰り出しながら枝を渡って行くやり方ですね。
 哺乳動物の中でも霊長類のなかまは、ずいぶんむかしから前足で物をつかむという機能を発達させており、サルの仲間が進化してくると前足のこの機能は"手"としてさらに進化してゆきました。そしてテナガザルの仲間がサルから進化して来たわけですが、霊長類が前足に物をつかむ機能を発達させたことは、サルに手を与えるための前適応でありましたし、テナガザルの腕渡りを実現させるための前適応でもありました。
 そして、テナガザルがぶら下がり姿勢で体を垂直に維持することは、類人猿から人類が進化して来るための前適応でした。テナガザルが体を垂直に維持し、顔を体に対して垂直の方向に向けるという機能が発達しなければ、人類の直立二足歩行スタイルは実現しなかったでしょう。
 セキツイ動物の仲間は、魚類から爬虫類、両生類、鳥類、哺乳類に到るまで、首の骨が背骨に対して水平で、その先に頭部が付いていますから、顔は体に対して水平方向つまり前を向いているわけですが、テナガザルの仲間は首の骨を腹の方向に曲げ、顔を体に対して垂直の方向を向くようにしました。でないと腕渡りの時に前でなく上を見るしかありませんからね。
 セキツイ動物が陸生動物に進化して以降、首が自在に動き、回頭性が生じたことは、テナガザルが顔を体に対して垂直に向けることの前適応であったと言えるかもしれません。
 また、魚類が水から出て陸生動物に進化するには、肺呼吸が不可欠でしたが、肺という器官は、魚類の浮力調整タンクである浮袋が変化して生まれました。魚類の浮袋は両生類が肺を獲得するための前適応だったわけですね。
 このように、生物の次の進化を想定していたような器官や機能の発達は、生物進化の歴史の中で随所に見られます。その見事なストーリー性には感動すら覚えます。
 生物が進化して新しいタイプのものが誕生する場合、先祖にない器官や機能が唐突に現れるということはありません。先祖が持っていたものを巧みに応用して新たな形質を作り出すのです。進化について知るうえでこれはひじょうに重要なことです。


幼形進化と幼形成熟

 生物の形質が、生活様式に応じた変化を際立たせることを、形質や器官の特殊化といいます。肉食獣は狩猟生活のために鋭い牙や爪を特殊化させ、寒冷地生活動物では分厚い毛皮や皮下脂肪といった特殊化が見られます。ゾウの鼻やキリンの首も生活様式に応じて特殊化した例ですね。
 定行進化の法則によると、進化的な生物ほど特殊化のていどが大きくなります。そして生物個体で見てみると、成熟して成体となったものに顕著な特殊化が見られます。当然と言えば当然なのですが、ここで重要なのは、進化を担う形質の特殊化は成体つまりおとなの特徴だということです。そして成体の特徴が強調されてゆく進化を成形進化と表現したりします。
 成形進化は、ある一定の環境に適応するために形質の特殊化を進めるうえで有益ですが、逆に環境の変化に対しては弱さを露呈します。例えば、強く大きな動物は豊かな猟場では有利ですが、寒冷化が進み獲物の数が減ると大きな体を維持するのに充分なエネルギーを確保できなくなり衰退します。
 環境が変化すると、これまで後進的(原始的)だった生物が天敵の不在によって勢力を拡大したりします。

 成形進化とは逆に、新しい環境に応じて成体の持つ特殊化を徐々に破棄してゆくような進化もあります。大きな体や鋭い牙といった特殊化が、新しい生活様式では不利になり、むしろ特殊化が未発達な幼体の状態の方が有利である場合、幼体の特徴が強調され発育が遅れて幼体である時間が長くなってゆくような場合があります。このような進化を幼形進化といいます。
 人類の祖先は、大きな顎骨に鋭い牙、腕渡りに適した強靭な前脚、豊かな毛皮を有した類人猿の仲間でした。しかし森を追われて草原生活に移行した彼らは、これらの特殊化を棄てるために幼形進化を進めました。
 子供である時間が長くなり、成体の特徴が現れてくるのを遅滞させ、牙や毛皮を破棄していったのです。現生の類人猿でも子供の頭骨を見てみると、顎骨が小さく人類の子供の頭骨と極めてよく似ています。ところが、類人猿は急速に成長し、顎骨がどんどん発達して前に出て来て鋭い牙が出現します。これに対して人類はゆっくりと成長し、顎骨の発達もあまり見られません。けっきょく成体となっても頭骨の様子は子供のものとそれほど変わりません。
 極めて進化的な哺乳動物である類人猿の仲間は、急速に成長して成体の特徴が顕現するようになり、数年で性成熟に至って生殖に加わるようになるのに、人類は性成熟までに十数年を要し成熟してからも類人猿のような特徴は現れないのです。
 その代わりに、二足歩行に適した長い脚や直立するのに必要な特殊な頚椎と骨盤、内蔵の付き方といった新たな形質が発達しました。類人猿もしばしば直立しますが、彼らの内蔵は背骨に対して垂直方向にぶら下がっています。これが人類になると、内臓は背骨に水平にぶら下がっています。人類は幼形進化によって類人猿時代の形質の特殊化を棄て去り、二足歩行動物としての新たな特殊化を進めたわけです。

 人類は幼形進化によって類人猿の有する特殊化を棄て去り、ヒトへ進化したわけですが、幼形進化と共に人類をヒトならしめた進化上の現象に、幼形成熟があります。ネオテニーの名でも知られるこの現象は、成長して成体の特徴が現れる前に性的に成熟してしまい、繁殖に参加するようになることを言います。つまり子供のままおとなになってしまうのです。
 幼形成熟は幼形進化の特徴のひとつであるとも言える現象ですが、これによって祖先の成体としての特徴をよりいっそうはっきりと切り捨ててしまうことができます。祖先が一定の環境に適応するためにせっせと育てて来た形質の特殊化をきれいさっぱり棄て去り、まったく新しいタイプの生物として進化してしまうのです。
 ヒトは、幼形進化によって幼体の時間と特徴を引き延ばし、成体の形質の顕現を遅滞させ、やがて幼体成熟によって幼体のまま性成熟するようになって成体の形質を切り棄て、サルからヒトへ進化したわけです。

 幼形成熟の最も顕著な例を1つ挙げておきます。ホヤという日本では食材にもなる海洋動物がいますが、これは動物でありながら岩などに固着して動かず、ひたすら獲物が来るのを待ち続ける生活を送っています。ちょうどイソギンチャクと同じ感じですね。一見してまったく動物らしからぬこのホヤですが、幼体は活発に泳ぎ回ることができます。卵からかえった幼体は小さなオタマジャクシのような生き物で、自分で泳いで遠くへ行き、親から離れた新しい場所で変態して固着生活に移行します。ホヤはこうして生活圏を拡げているのです。
 ホヤの成体は硬質の外殻を有し、植物のように動きませんが、心臓や呼吸器を備えており、脊索という神経束を有しています。この動物としての構造はとくに幼体ではよく活かされ、幼体は眼点を有し、餌を採ることもできます。
 今を去る5億年以上前、古生代の海にすでに存在したホヤの仲間のある者が、幼形成熟に至り、幼体のまま繁殖するようになりました。成体の形質を切り棄てた彼らは生涯遊泳生活を送る新しいタイプの動物に進化したのです。
 彼らの背中側に走る脊索という神経束は、のちに骨で包まれた脊椎(セキツイ)へと進化し、やがて最初の脊椎動物である魚類が、ここから導き出されることになるのです。


生物の進化を理解する

  これまで述べて来ました生物の進化に対する考察は、あくまで素人の見地からのアプローチであり、これが現在の専門家たちによる標準的な進化論というわけではありません。進化は突然変異という偶然の積み重ねで起きるのであり、生物個体がその生涯で経験したこと、獲得した形質というものは記録として残らないし遺伝もしない。筆者がこれまでに出会って来た専門書にはそのように記載されていました。しかしながら、最新の進化論がどのような考え方になっているのか、個体の経験や獲得形質の進化への影響について、今の専門家がどう考えているのか、実のところは専門家ならぬ筆者には解りません。なので、本箸を読んだだけで進化について理解を深めたと思うのはまちがいです。本箸は、生物の進化に対する考え方と研究の仕方のひとつのかたちを提示したに過ぎません。
 テレビ番組等で、コメンテーターの口から「人類は食物連鎖のピラミッドの頂点に立っている」とか「食うか食われるかの生存競争が自然のおきてである」などといったセリフが飛び出すのを聞くと、たいへん悲しくなります。生物は個々の力量で競争を繰り返し、そのパワーバランスで生態系が維持されていると、多くの人々が盲信しているように見えるからです。
 あるいは、人類は進化の行き詰まりに直面しており、行き場を失った進化の形としてネオテニー(幼形進化)に至ったなんてことも耳にしたことがあります。進化的な哺乳動物ということで言えば、大型の草食獣や肉食獣、巨大な海獣、あるいは新生代に栄えすでに滅びた化石哺乳類の方が、人類よりもはるかに進んでいます。人類の形態や生態は、進化的哺乳類としての条件をあまり満たしていません。
 人間社会は古くから競争で成り立ち、殺戮と破壊を繰り返して来たと言われています。それを生存競争とダーウィン式の進化論になぞらえて社会ダーウィニズムという表現が生まれました。生物は競争し戦うものだから、人間社会が競争と殺戮で成り立っているのは自然の摂理だというわけです。
 しかしながら生物は競争などしていませんし、同じ種類の者同士が滅ぼし合うのは人間だけです。食物連鎖のピラミッドなんてものもどこにも存在しません。生き物たちは生態系の中で自分の役割を果たし、きちんと住み分けています。生存競争だの弱肉強食だのといった表現は、競争社会を正当化するための、金持ちの詭弁のように思えます。
 生物の進化を理解するためには、生存競争の宿命論から脱却し、個々の生物の進化よりも生態系というネットワークの中における種の進化という考え方で研究を進める必要があります。
 また、人類の進化についても哺乳類としての進化の頂点を極めた結果ネオテニーを来たしたのではなく、人類がまだ進化して来て間もない未成熟な種であり、幼形進化によった祖先型から生まれ変わりつつあるということを理解しなければなりません。人類の進化については別章に後述します。


 筆者は、専門書をせっせとひもとくよりも、種々の動植物を飼養することで、生態系の中の生物個体の位置付けや、進化のメカニズムについて理解a深めました。あるいは昆虫採集等で同じ野山を毎年繰り返し歩くことで、生き物の住み分けや生物層の厚みの必要性について学びました。陳腐な言葉ですが、筆者にとっては自然はでっかい教科書でした。
 とは言っても、物事をきちんと分析し理解するためには、それを表現する言葉が必要です。あるていどの専門知識と専門用語を学習することは重要です。ただ、専門書に精通するだけで達人気取りを決め込むのはまちがいです。専門知識を習熟することで物事を充分に理解したつもりになり、独創性を失ってしまってはいけません。
 学習は重要です。しかしあるていど学習が進んだら、研究をしてゆかねばなりません。研究とは想像力です。
 学習とは物事を分類すること、つまり垣根を作ることで、研究とはその垣根を壊してゆくことであると筆者は思っています。物事をより統一的に理解し、新たな方法論を見つけることが研究です。
 生物の進化について、現在どのように研究が進んでいるのかについて知るのに、インターネットでキーワード検索を行なうのは、お手軽であるうえにひじょうに有効な手段でもあるので、ぜひ実施していただきたいと思います。専門知識や用語を理解するのにもひじょうに有効です。
 無料百科事典ウィキペディア等を利用すると、1つの記事から関連項目を次々に見つけられるので、理解も深まります。とりあえずは、進化、遺伝、種、形質、器官、獲得形質、特殊化、突然変異、種分化、適応放散、生態系、ネオテニー、多細胞生物、といったキーワードを検索し、記事の中に含まれるキーワードをさらに閲覧してゆくと良いでしょう。
 生物は進化し続けるものであり同じ状態に留まることは決してありません。その変化は決して後戻りしないがゆえに進化であり、進化はまた種の分化を招きます。そのようにして地球上には生物の種類が増え、豊かな生物層が築かれました。そして生態系という大きな構造を構築しています。その構造が偶然にできあがって行ったものなのか、そのような構造を築くように生物の遺伝子にプログラムされているのか、遺伝子というシステムを生物はどのようにして獲得したのか、コドンといわれる遺伝子コードをどのようにして定義したのか、まだなにも解っていません。この難問を解決してゆくには、より多くの研究家の想像力と探究心を導入しなければなりません。本箸をお読みいただいた読者にもぜひ、謎の究明に参加していただきたいと思います。


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