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情報の流れ(2)
ノウハウとマニュアル

2014/10/15


 ノウハウとは方法論のことであり、マニュアルとはそれを実用的にまとめたもの、ということになりましょうか。しかしながら本項で語りたいことはそういうことではありません。ノウハウやマニュアルといった情報の扱い方あるいは受け止め方について、感じるところを述べたいと思うわけです。
 私たちが、技術を習得したり知識を深めようとする際には、教科書や解説書等のマニュアルに頼り、指導者や教育者によって習得の仕方を教わり、習得の度合いを評価されながら徐々に高度な技能へと進んでゆきます。指導あるいは教育に当たる専門家は、マニュアルに沿って技術や知識を学び手に授けます。多くの場合、指導や教育はマニュアルの解説であったりします。マニュアルに書かれてあることはどういうことなのか、どのように理解すべきなのか、実用に向けてどのように応用すればよいのか、それを説明しながら、学び手が正しい理解と技術の習得に至るように導きます。
 同じマニュアルで教わっても、学び手の技能に差ができます。その原因は指導や教育をほどこす側に個性があることが想像できます。同じ指導者あるいは教育者に学んでもやはり習得できる技能にはちがいが生じます。その原因は学び手の能力や思考パターンの差異であることが想像できます。同じ指導者が同じことを言っても、人によって受け止め方が異なり、理解度が変わります。ある指導者の教え方ではよく理解できなかったことが、別の人の助言によって理解が深まるようなこともあります。指導者の力量のちがい、あるいは指導者の表現方法がある人にとっては解りやすく、別の人にとっては解りづらい、そういうこともあるでしょう。文字や言葉による情報の伝達は、指導や教育においても完全ということはないわけです。
 そもそもマニュアルというものの完成度がどれほどのものであるかは難しい問題です。マニュアルに記述されている表現もやはり完全なものにはなり得ません。だから同じことを解説したマニュアルにもいろんなものが存在したりします。私たちが学校教育で用いた教科書も、全国共通のものではありませんでした。筆者も別の学校で別の教科書で別の教員に学べば、学力がちがっていたかもしれません。苦手科目と得意科目が変わるようなこともあったかもです。

 私たちがものを学ぶのは、学校教育や社員教育ばかりではありません。部活動における先輩の指導、趣味の集まりによる情報交換、さまざまなシーンで私たちは人からものを教わります。そしてそのことはとりもなおさず“情報を得る”ということにほかなりません。
 教育や指導のみならず、私たちは種々の記述や映像をマニュアルに独学でもものを学びます。独学は技能の習熟度が自己の評価によるしかなく、理解の仕方の是非を他人から聞くこともできないので非効率的でリスクが大きいです。自分のペースで自由に学べるというメリットはありますが。

 私たちが物事を理解している、知識を習得している、ということはえてしてマニュアルの受け売りに陥ってしまっている恐れがあります。マニュアルどおりのことを覚えていて言葉にできたとしても、理解もせずただ暗記しているだけかもしれません。本質を学んでおらず表層的な理解に過ぎないこともあるでしょう。
 たとえば、セミは短命の虫であるということは多くの人々が理解していることであり、そう答えてまちがいを指摘されることは少ないでしょう。短命ではかないものの代名詞とさえ使われているくらいですし。ところが孵化してから成虫に至るまで数年あるいは10年を越えて生きるセミは、他に例がないほど長命な虫です。セミは羽化してから1〜2週間の命の大きな声で啼く虫、ではありますが、それはセミの死ぬ直前のわずかばかりの時間の様子を解説したに過ぎず、じつは彼らは長い歳月を地中で暮らしているわけです。セミに限らず成虫でいる時間がひじょうに短い昆虫はたくさんいます。羽化して繁殖に参加したら早々に寿命が尽きる虫は少なくありません。
 もしも、セミの幼虫が人にとって重要な食料源だったり、人の暮らしに必要なものであったりした場合は、セミに対する一般的な認識も変わっていたでしょうね。

 そしてマニュアルやノウハウは、不動不変なものではありません。新しい発見によって情報が改正されたり、社会情勢に応じて表現が改められたりします。筆者が子供の頃は、運動中に水を飲むとバテるから飲まないようにと教わりましたが、現在では水分補給をしない運動は危険だと言われています。筆者が子供の頃はウィルスのことをビールスと言い、アニメのことをテレビ漫画と言いました。JRのことは国鉄と言い、キムチのことは朝鮮漬けと言いました。
 ものごとを習熟したり技能を身に着けるには、一定の答えが必要です。しかしながら答えという情報は一定のものではありません。変わって行くものなのです。今はこれが正しいとされるけれど、むかしはこうだった、それが答えという情報です。

 情報とは流動的な答えである、と言い換えることができるでしょう。考えてみればそれは当たり前のことであり、誰しも常に経験していることなのですが、案外忘れがちだったりします。そしてせっかく導き出した答えが、やっとたどり着いた正解が、じつはその時の常識や社会情勢を反映した値に過ぎず、いずれ変わって行くものだと思うと憂鬱になります。でも、情報とはそういうものであるということを根本で理解しておかないと、マニュアルの受け売りでつまづくことになります。
 情報を変化させるものは、時間だけではありません。地域的な差異、取り扱う人間による差異、立場上の違いといった空間における変化というものも存在するので大変です。取り扱う人間による差異は、見解や認識のちがいというふうに言われたりもしますね。

 情報とは、時間軸に対しても空間の広がりに対しても常に流動的なものです。絶対的な答えというものはナンセンスであり、マニュアルの受け売りであり、真の理解から遠いものであります。
 科学者はよく「これが現代の科学の限界である」とか「今のところ解っているのはこれだけである」といった表現をしますが、それは答えが今後変わって行くことを示唆し、引き続き探求し究明して行くことに意欲的であることを表現しています。今はこれが答えであるが、いつか塗り替えられる、塗り替えられるべきだ、という理解をしているわけです。
 他人の意見についても、今は彼はこう考えているが、今後変わることもあるだろうという理解が必要です。専門書もすべて正しいことを記述しているとは限りません。ネット上の情報もしかりです。

 生き物の飼育方法もどんどん変わってゆきます。生き物にとって最善とされてきたことが、じつは大きな負担だったといったこともありがちなことです。専門書に書かれていた通りに実践すると飼育下で長生きさせられなかったものが、別のやり方で長期的に健康を維持できたという事例も少なくありません。
 当ブログにも飼育マニュアル的な内容がしばしば登場しますが、それは筆者の経験ではそうであった、筆者はこのように飼ってたまたま上手くいったという事例を挙げているに過ぎません。前項で先人の意見ということで述べたように、このブログの内容もひとつの意見として読み、どこまで受け入れるかは読者自身の判断で決めなければなりません。様々な意見や解説を見聞きせず、ひとりの発言だけに耳を傾けても、情報の受け売りが上手くなるだけで真理には近づけません。自分でノウハウを見つけることもできません。
 情報を流動的な答えであると受け止める、この一見当たり前のようで案外ないがしろにされていることがらを見つめなおし、自己の学究態度を見なおしてみれば、ひとつ高みを目指すための足がかりになることでしょう。

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