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情報の流れ(6)
絶対と相対

2014/11/12


 人間社会を行き交う情報には、有益なものと有害なものがあるのは当然のことです。世の中には善い行いをする人間ばかりではないのと同じです。こうした事実は、いわば常識なのですが、どれが有益でどれが有害な情報なのかということが困難であったり、情報に内在する悪意が見ぬけなかったりすることに問題があります。見抜けなかったゆえに被害や損害を被り、人間不信に陥ったり世の中に希望を見いだせなくなる人が増えて行くということは、たいへん悲しいことです。人と交流することを拒む人が増えて行くということは、すなわち正しい情報も滞るということで、人間社会は正常な機能を失ってゆきます。世の中が狂ってゆくのです。
 前項でマスコミの情報の弊害について述べましたが、マスコミにとっては事件を誇大に脚色したり、犯罪者を悪く評価したりすることは、売り上げを伸ばすというメリットのために重要です。錯綜する幾多の情報の中から、商品として発信する情報に注目を集めるための手段であり、マスコミの営利性にとっては有益なことなのです。その情報を受け止める側が、マスコミの誇大表現に踊らされて、加害者が高校生なら今時の高校生は残忍だ、平和ボケしていて物事の善悪も判らない、というふうに高校生全体を敵視するという短絡的で愚かな評価に達するところが弊害なのです。この事例の見方を変えると、人生経験を積んだいい年をした大人が、マスコミの誇大表現を額面通りに受け止めてすべての高校生を見下すとは、今時の古い者は能無しだ、平和ボケしていて物事の善悪も判らない、ということになります。このように情報に踊らされてやたら他人に悪意を持つことが、群集心理として世の中に影響を与えていることが問題です。受け手にこのような悪意があれば、マスコミが誇大な表現をひかえたところで、結局のところは高校生敵視につながってしまいます。
 ひとりが悪行に手を染めると、その者が所属する団体全体が悪くみられるというのは古くから言われてきたことがらです。それが群集心理というもので、言わば常識であるというなら、人間全体が愚かで学習しないと言わざるを得ません。
 筆者が子供の頃、日本という国は、路上や公共施設にゴミをまき散らすのが当たり前でした。映画館でも自分の食べたものの空き袋を足元に置いて帰りましたし、駅構内の線路は灰皿と化していました。それがマスコミを通じた公共マナー向上の呼びかけにより改善され、放置されるゴミがずいぶん少なくなりました。今では自分のゴミは路上に残して帰るものと考える人はあまりいないでしょう。
 同じように情報の受け止め方というのも進歩し改善されてゆかねばなりません。そうでなければ住みよい社会は実現しません。ひとりが悪ければ同胞すべてが悪い式の感情論的な概念は、古い時代には良かったかもしれませんが、情報が多様化し錯綜する時代には改められなければなりません。
 情報の価値は一定ではありません。時間の推移、あるいは立場のちがい文化のちがいによって変化します。同じ情報がある人間には有益であっても別の人には有害になる、正義の価値観と同じです。正しいとされる情報もいつまでも正しいとは限りません。そのように流動的に価値判断の変わる性格のものを、我々は受け止め処理してゆかねばならないのです。これはヒトが進化して言葉を持つようになった時から背負ってしまった宿命ですから、何ぴともこれから逃れられません。

 情報の価値には、どんどん変わって行くものもあれば、まったく変わらないものもあります。同じ情報でも人によって変わる度合いも異なります。先端技術を担うような仕事では、常に最新の考え方(価値判断)を把握する必要があるでしょうし、伝統工芸を生業とする仕事では、古式に根ざした考え方を守ってゆかねばならないでしょう。
 個人の暮らしの中でも、変わらない価値観とどんどん変わって行く価値観があります。生活様式も好きな食べ物も、変わって行く部分とそうでない部分があるでしょ?
「むかしはこんなところに信号なんてなかった」と道路事情の変化に腹を立てるジジィも、最近では水分補給をせずに長時間歩くとぶっ倒れます。ジジィの若い頃は、運動の際に水を飲むとバテると言って水分補給はひかえたものです。むかしは水を飲んで運動すると横っ腹が痛くなりました。現代においては日に当たることよりも水分不足が熱中症の原因です。
 専門家が素人に出し抜かれたり、大企業が小さな会社に大敗を期したりする現象は、マニュアルやベーシックへの過度な辛抱によって時代の変化へのレスポンスが低下することによって生じます。膨大なデータを参照して作成したマニュアルや、長年の経験から培われたベーシックを見なおすというのは用ではありません。マニュアルやベーシックの存在は、専門家を短時間で効果的に養成します。専門教育を受けた者の多くは、エキスパートに到達しますが、独学では何倍あるいは何十倍の時間がかかり、多くが挫折します。しかしながら人間を取り巻く環境は自らの進歩によって変化して行くので、エキスパートと言えども日々の学究を怠ると、先入観にとらわれず斬新な発想の素人に敗北することになるのです。

 時代と共に進歩し、自らの環境をどんどん塗り替えて行く人の営みとは、面白いものです。明日はどう変化するかも予測できません。人間社会とは様々な思惑を持ったいろんな個性の集合体なのですから。
 では、このつかみどころのない変化の中で、我々は何をどう判断して対処して行けばよいのでしょう。その判断も状況に応じて変更しなければならないとしたら、そもそも判断すること自体が脅威になってしまいます。
 そうした状況下で、可能な限り効率的にあるいは建設的に物事を判断し、強い意志を持って生きて行くひとつの方法として、筆者は物事を相対的に考えるということをよくやります。
 そもそも相対的という言葉をよく理解していないのですが、筆者は絶対的の対語として相対的を用いています。絶対的であることを疑うことによって相対的に考え、いろんな可能性を考慮してみるわけです。選択肢を増やして情報を吟味しなおしてみようってわけです。
 絶対的という概念は、価値観が不動であるというもので、火は熱いに決まっているとか、チビよりノッポの方が大きいに決まっているというようなものです。一方、相対的という概念は、何々に対してこうである、条件が何々であれば結論はこうであるというふうに、価値観が何かに相(あい)対して決定されます。たき火の火は400℃ていどで、我々の日常生活にとっては熱いですが、1000℃を越える溶鉱炉ではたき火の温度はずいぶん冷めた温度ということになります。人間の身長の測り方は直立した時の足のかかとから頭のてっぺんまでですが、カエルの場合はそういう測り方はしません。アメフクラガエルという地中性の手足の短いカエルと、アマガエルを並べると誰がどう見てもアメフクラガエルの方が大きいですが、アマガエルが後足を伸ばすと、総全長はアメフクラガエルを越えます。それでもアメフクラガエルの方がチビだとは誰も感じないでしょう。筆者は人間としてはチビですが、人間の大きさをカエルのように頭胴長(人の場合は座高)で計るならば、八頭身の美女に勝ってノッポさんになることができます。火が熱いという概念も、相対的に表現するならば、日常生活の中では熱いと表現し、人の背丈も座高ではなく身長では彼の方が大きいというふうに表現しなければなりません。
 20世紀のはじめ、理論物理学者のアインシュタイン博士は、相対性理論を発表しました。物理の法則は絶対ではなく、等速運動する座標系という条件内において不変であるというのがその内容で、物理的に物事を観察したり計測したりするのは、同じ慣性系ならばという条件づけが必要であることを述べました。しかし宇宙の中では場は一定ではありません。恒星の重力場に捕らえられた星の角運動でさえ、たとえば彗星のような超大な楕円軌道をとる天体では、太陽に接近するときには加速し、遠ざかる時には減速しながら公転軌道を維持しています。同じ慣性系の中ではという条件は、宇宙的には特殊なので、最初に発表された特殊相対論と呼ばれました。では加速する系を含めあらゆる場に通用する法則はないのかと模索し、加速や異なる重力場での効果を含めて一般化した一般相対論にたどり着きました。それぞれ異なる場の効果を計る物差しとして光速度不変の法則が用いられました。媒体を必要とせずに直進する光は、光源を離れた瞬間にマックス速度の秒速30万キロに達しており、その後等速を維持し続けます。これを基準にすればあらゆる場の効果を計れるではないかということですね。光も大きな重力で曲がるし、レンズで屈折するじゃないかとおっしゃるなかれ、屈折しても速度は維持します。また、光速度不変の法則に疑問を抱く人もいますし、光の速度を越える速さの尊台を示唆する考え方もあるようですが、とりあえず現状では相対性理論はもっとも制度の高い理論でして、従来の古典物理学の時代に比べ、計測の精度が桁違いに向上しました。そのおかげでパソコンが順調に動作していますし、ナノテクノロジーも進化しつつあります。
 場の条件を考慮しなかった古典物理学では計測の精度を上げられなかったように、物事の価値判断においても条件を考慮しなければ、閉塞的な状況下で堂々巡りする結論から抜け出せません。ライオンとシマウマを比較した場合にも、ライオンの方が絶対的に強いとは言えません。地球上でより多くの個体数を有する(より繁栄している)という観点ではシマウマの方が圧倒的に強いです。
 思考の堂々巡りから脱出するために、発想の転換という言葉がよく用いられますが、考え方あるいは観点を変えるのに、物事を相対的に見るというやり方は具体性もあって有効です。
 相対的に見る(考える)とは、ひらたく申せば、物事は何かに相(あい)対して存在すると考えることです。何々という条件ならこうであるとか、何々に対してはこうなるというふうに、原因と結果を対にして考えるということになります。
 上述の火やカエルの話しは言葉のお遊びではありますが、あれは物事を相対的に見ることの本質を突いています。そして物事を相対的に見るとは、情報の価値判断を相対的に行なうということと同義です。

 筆者は、もう20年くらい前から相対的な価値判断ということに注目してまいりました。「日常相対論」というタイトルで随筆を書こうとも考えたほどです。面倒そうなのでいまだに実行に移していませんが。
 物事を相対的に考える、情報の価値判断を相対的に行なうという習慣によって、情報に惑わされたり、有益な価値を見落としてしまったりという損失をかなり回避することができますし、他人の意見も聞きやすくなります。他人が意見を翻してもその人に不信感を抱く前に原因を考えてみようという気になります。情報の氾濫への恐怖も減ります。
 絶対という判断はなるべくひかえる、答えは1つじゃないし、不動でもない、現在の判断や答えがなぜそうなのか、何に対してそうなのかを考えてみる、そういう習慣を身に着けることによって、情報を少しでも有益なものにすることもできますし、隣人や仲間との信頼関係を築く助けにもなります。
 むかし、情報の氾濫にどう対処するかについて知人と話し合う機会があり、物事を相対的に考えるという話しをしましたところ、彼はひじょうに共感し、暮らしの中でさっそく実践して行くと宣言しました。ところが価値判断に注意深くなろうとするあまり、決断に迷いがつきまとうようになり、断行力が低下し、優柔不断に陥ってしまいました。過ぎたるは及ばざるがごとしで、注意深くあり過ぎるのも考えものです。絶対なんて存在しないと思うあまり結論を導けないというのも、絶対が存在しないという絶対的判断に陥っているということなのです。妥協や曖昧さも思考の中に動員しましょう。

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