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報道の悪意

2014/11/24


 新聞やテレビ等の報道には、多分に悪意が含まれています。高校生が殺人事件を起こしたら、最近の高校生は恐ろしいと、高校生全体を避難するような表現をします。政治家の政策にも次の選挙を意識しているとか、政敵を牽制しているとか、権力争いが当然のこと、争い蹴落とし合うことが政治家の本分であるといった表現をします。ニュースキャスターは紳士的な顔をして、競争や格差を増長させること、人間の醜さをクルーズアップすることに余念がないように見えます。
 犯罪や権力争いが減少し、人々が平和に暮らすようになったらマスコミはどうするのでしょう。人の不幸や醜い部分が少なくなったら、ニュースキャスターや新聞記者は失業するのでしょうか。そうなることが怖くて、人間は醜いものだと訴え続け、政治家の権力争いは何においても大切なのだと論じ続けるのでしょうか。
 争いをあおり、他人の不幸をめしのタネにするなんて、立派な仕事もあったものです。
 しかしながら、正義のために悪を露顕させ報道しようとするジャーナリストもいるでしょうし、人々の善行をもっとクローズアップしたい記者も少なくないでしょう。命懸けで巨悪に立ち向かうジャーナリストもいるでしょうし、取材活動の中で人の情に触れ、心を洗われることだってあるでしょう。
 では、結果として凶悪な事件やスキャンダルばかりが目立ってしまうのは、やはり世の中が善行よりも悪行に満ちあふれているからでしょうか。
 そうではありません。世の中は人の善行であふれています。別項でも述べましたが、ほとんどの人間が善人で道義を重んじるから、セルフサービスの業種が成り立つのです。悪行が及ぼす損害が大きすぎれば、スーパーマーケットも駅の自動改札も成立しません。商売人はマンツーマンでしか物を売れず、駅には多数の係員を配置するしかなく、人々はひじょうに高い買い物をし、高額な運賃を支払うしかありません。
 マスコミの報道が悪行の方に傾倒するのは、それが特殊なことだからです。善行に満ちた社会では人間の善行が当たり前で、それにニュース性がないのです。ニュース性がない出来事を報道しても誰も関心を示しません。今日も大勢の人々のマナーのおかげで、スーパーが収益を上げ、鉄道も定時運転していると報道しても、誰も関心を示しません。そんなこと常識であり当たり前のことなのです。
 善行が、道徳を重んじることが常識であり当たり前である社会とは、考えてみれば不思議なものです。人の目を盗んでこっそり悪事をすることは不可能ではないのに、大勢の人々がそれをせず、そのおかげで社会のシステムは円滑に回り、高度な社会が成り立っているわけですが、考えてみれば世の中のひとりひとりがしっかりとした自覚を持ち、身勝手な欲求を自制し、理性的に道徳的に行動するというたゆまぬ努力を続けているわけです。みんなが思い思いに好き勝手をやって維持できる社会、保てる安全と平和なんてありはしません。

 人々の善行や道徳心を、法律や権力への恐れによるものだと考える人もいます。悪いことをして罰せられるのが怖いからやらない、会社をクビになって収入がなくなるのが怖いからせっせと働きルール違反もしない。法律があって警察力が目を光らしていなければ、世の中は無法地帯になる。それも本当かもしれません。
 でも人を善行に促すものは戒律や畏れだけではないでしょう。守りたい家族があり、叶えたい夢があり、人の役に立ちたいという欲求があり、社会的役割を果たしていることへの充実感があるからこそ、悪事に手を染めない、それも本当です。愛する家族が幸福に暮らすためには、夢を実現するためには、世の中が乱れていては叶わないのですから。
 戒律や畏れが社会の秩序を維持していることも否定できませんが、法がしばしば畏れの対象である権力を守る方向に傾倒し、差別や格差、貧困を産めば、犯罪が増大します。秩序の番人が犯罪を産む原因になってしまうのです。乱世はしばしばそうやって訪れます。

 戦争がなく平和な社会でも、人々は人間は欲深く愚かで醜いものだということを口にします。マスコミが鋭利目的が過ぎるあまりに、火に油を注ぎます。多感な若者たちの目にも、それが真実のように映るでしょうし、平和や社会秩序が大勢の人々の良識と努力によって維持されているなどと思いもしないでしょう。
 世の中の高度な社会システムが、人々の善行によって正常に運営されているのに、人々は日常的に人間の愚行や醜さを口にし、滅びを予測します。世の中バカばかりだ、人間の欲望にはキリがないから争いが絶えない、だから人はいつかは滅びてしまう。
 筆者には、そうした声が人々の希望のように聞こえます。人類は数千年も前に壮大な都市国家を建造する技術を獲得し、同時に大規模な戦争を展開するための火器を手に入れました。しかしながら戦争で人類が滅亡に瀕したことはありませんでした。筆者が子供の頃に世界人口は今の半分ていどで、これがあと10億も増加すると食料が尽きると言われていました。核兵器が開発された時にも、一瞬にして地球を灰にできる火器を手に入れた人類は、滅亡へのパスポートを手にしてしまったと言われました。石油も以前の計算ではそろそろ枯渇しているはずですし、地球温暖化もそれが人類の悪行のせいなのか、自然にダメージを与えるものなのか、解らなくなって来ました。中生代の恐竜全盛期は今よりもさらに温暖化が進んでおり、海面が上昇して海岸線を覆い広大な大陸棚を形成していました。陸地においても海洋においても、生物は大繁栄していたのです。
 我々が学校教育で習う人類の歴史は、戦争の繰り返しということになっていますが、じつは戦乱は局地的に散発的に繰り返されただけで、現在の状況とそれほど変わらなかったのではないでしょうか。戦争を宿命とし兵士を英雄に仕立て上げることが資本主義の競争社会を肯定するのに都合がよいからなのではないでしょうか。人類の歴史が戦乱の繰り返しであったなら、古い建造物や芸術作品の多くが残っているのはなぜでしょう。飛び交う砲弾をくぐり抜けながら人々は城を築き、絵を描き、音楽の公演を聞いたのでしょうか。
 人類の悪行が善行に優るのだとしたら、人間社会は成立するのでしょうか? よく言われるように人間は愚かで、欲望にはキリがなく、いずれ滅びるのが宿命だとしたら、存続への努力をする必要があるのでしょうか。有史以来大規模な火器を行使した戦争が繰り返されたのに滅亡に瀕したことはなく、民主化が進み、科学技術が世界を網羅する情報網を築くことに成功したというのに、我々は何も学ばず、滅びるしかないというのでしょうか。
 政治経済のレベルでは、人々は果てしなく争い、巨悪が繁栄し、国と国とが武器を向けあっていますが、文化のレベルでは国境なんて存在しません。インターネットは世界中の人をオンラインでつなぎ、武力でなく話し合いで物事を解決する機会を作りました。そこに希望はないのでしょうか。
 世の中が腐敗し殺伐としていると感じるのも、考え方ひとつではないでしょうか。マスコミは悪意の報道しかしない、人間はバカばかりだ、今どきの高校生は恐ろしい。一握りの悪例をとらえてそれがすべてだとする考え方が、世の中を腐敗混濁したものにしているのではないでしょうか。新鮮で品質の良い果物を、小さな小さな傷ひとつで腐っていると決めつけるようなものです。その傷が見る見る大きくなって果物をたちどころに腐らせてしまうと信じるか、小さな傷など果物の鮮度になんら影響するものではないと信じるかで、同じ果物に対する評価もちがってきます。どちらも一概に間違いであるとは言い切れないものの、悪い評価は美味しく食べられるものをも不味いものにしてしまいます。どうせなら美味しくいただいた方が得ですよね。

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