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孤高と団結

2014/12/24


 人は群れると大胆になります。ひとりだとおとなしい人間が群れると行動が粗暴になったり、お行儀が悪くなったりします。筆者は鉄道員をしていますから、駅を訪れる旅客を観察すると、そうした群集心理をしばしば目撃します。周りへの配慮を欠いた大声で談笑する集団旅客というものはなかなか厄介なものです。まるで酒の力を借りて暴れる酒乱みたいなところがあります。群集心理に年齢は関係なく、下校時の高校生からグループ登山の高齢者まで、みんな同じです。群れるとたちまち気が大きくなり、態度がでかくなります。たいへんに見苦しいです。
 学校や会社という団体生活においても、しばしば集団が構成され、弱者をからかったりいじめたりします。集団に属し、孤立している者を見下すことで自分の値打ちが上がるようです。卑怯な考え方ですね。
 これに比べ、群れに属さず一匹狼でいる人は、なんだか気高く見えます。孤高という言葉がありますが、自身の信念を貫き妥協しないために群れることを望まないという姿勢は勇敢でかつ知性が感じられます。
 しかしながら、群れることが卑怯者の集まりとは限りません。また孤独を愛することが必ずしも理知的であるとも限りません。人は、信念を持って独りで行動したり、自分だけの時間を楽しむことも必要である反面、群れて会社の上司の悪口を言い合ったり、チームワークにより独りではできないことをなし遂げたりしなければなりません。1人の人間が、孤高の戦士になったり集団の中で力を発揮したり、はたまた群れることの安心に身を委ねたり、孤独を愛したり、様々な側面を持つわけです。むしろ持つべきだと思われます。
 自分は群れることが嫌いな一匹狼だと決めつけたり、逆に自分は無力で独りでは何もできないから誰か、あるいは集団に着いて行くしかない、そのように自己判断するのは、適切であるとは限りません。人は自立していてそのプライベートは尊重されるべきものであると同時に、社会や集団に属して協調性や才能を発揮し、責任を果たすべき存在でもあるのです。

 自分のことを振り返ってみますと、現在の職場では、筆者はどちらかと言うと孤立しています。それは筆者が望んだことではなく会社の意向です。筆者は普通の労働者として当たり前に労働運動に参加してきたわけですが、労働組合に対して不当に支配的介入を行ない、組合の役員を会社が選任して牛耳ってしまうという腐敗が当たり前になっている会社では、筆者のような普通の人間が特別視され、保身のために何も学ばずただ会社に従順なだけという卑怯者たちが一般的になります。普通に労働運動に携わる人間は、みんなのために闘っているにもかかわらず、みんなから煙たがられ、嫌われさえするのです。
 コンプライアンスシステムが正常に機能し、企業倫理が当たり前に評価される会社に筆者が身を置いたとしたら、筆者は職場で阻害されるようなこともないと思われます。筆者のことを孤独を愛する一匹狼のうように見ている人もあるようですが、この場合は筆者が好んでそうしているのではありません。犯罪集団に成り下がっている企業が狂っているわけです。
 しかしながら、筆者は完全無欠の正義感でもありません。企業にメリットがあるなら、ある程度のルール違反にも気づかないフリをします。自分だって業務でミスをしてペナルティを軽減してもらうようなケースもありますしね。労使ともにメリットがあり社会にも損失を与えないようなルール違反なら、まぁいいかという気になります。って、こんなこと公言するものではないですよね、これはあくまでたとえ話ですからね。実際のところどうなのよ、という突っ込みは、大人の判断として無用に願いますよ。
 会社や職場からは疎外されがちであっても、労働運動を支持する人たちには仲間がいます。労働運動は団結が命です。1人でものを言っても会社になめられるだけです。会社というものは、労働者が弱体化するとどこまでも付け込んできて、人員削減に賃金カット、労働条件の切り詰めに際限がありません。今や、会社の若い社員は、労働協約にもない不当な低賃金重労働にあえいでいる有り様です。これではさすがにおとなしいジジィも怒ります。

 周囲が悪しき方向に流される時には孤高であり、団結力が必要なときには、チームワークを重んじ責任を果たす、人はかくあるべきですね。そして人は皆、おおむねそのように生きているはずです。仕事に限らず趣味の世界であっても、経験を積んで自分の考え方を確立してくれば、周りの人間関係や環境がよろしくない方に傾倒しようとしたら、それに流されまいとするでしょう。逆に苦手な分野において経験や勉強が足りていなければ、集団と一緒に悪しき方向に流されているかもしれません。
 一匹狼であることが、周囲に染まらないのではなく、染まれないのであれば、それは当人にも周りにもメリットがありません。みんなが我慢していることを我慢せず、当たり前の責任を果たせないのは、一匹狼とは言えません。時間を守れない、約束を果たせない、その繰り返しで孤立してしまうのは、一匹狼とは言えません。
 一匹狼は、じつは周囲と密接な関係を保っていることが少なくありません。怠惰や不正に流されて行ったら集団がダメになってしまう。みんながやっていることでもオレはやらない、そんな一匹狼は周囲に良い影響を及ぼしていることがあります。その人のおかげで、悪しき方向への流れが緩慢になり、腐敗が深刻になる前にそれではいけないと気づく人が出てくるかもしれません。

 筆者は、労働運動に関しては周りの大多数の人たちのようには妥協できない態度をとっておりますが、職場での上司の悪口には率先して参加します。人の陰口などモラルに反する卑怯な行ないですが、我々平社員にとってはムカつく上司もいるわけです。現場の意見には耳を貸さず一方的に社命を押しつけてくるような上司には、やっぱ頭に来るものです。それがついつい陰口になって広がるわけですね。上司の陰口を言えるのは、ある意味健全な職場じゃないですか。上司の陰口なんてライバルにとっては足を引っ張る恰好の材料ですからね。それを言い合えるというのは、ちくるような陰湿な奴がいない証拠ですよ。この時ばかりは、筆者も群集心理に進んで流されるというわけです。筆者の場合、他人に引っ張られるほど長い足は持ち合わせていないので、怖いものなしなんで、悪ノリし放題です。

 団結、それは大変大きな力を産みます。そしてそれは安易な方向に群れるのとはまったく異質なものです。場合によっては一匹狼でいるよりも大変です。
 筆者が団結の真の力を知ったのは、電車の運転士だった頃に業務上の失敗をした時のことでした。ブレーキ操作の判断ミスで、列車を正しい位置に止められなかったという過失により、運転統括部署に出頭させられ、24日間の監禁生活を送りました。失敗したのだから何らかのペナルティはあってしかるべきですが、表向きは今後のミスを防ぐための日勤教育という名目で、その実態は筆者を職場か追い出す、つまり駅に降ろすための脅迫でした。薄暗い部屋に幽閉され、虚偽と恫喝、数時間にわたる放置の繰り返しでした。筆者がどれほど無能で主張がでたらめか、禁煙と書かれた部屋で煙草の煙を吹きつけられながら懇々と説かれ、家族や友人を罵倒される毎日でした。しかし事故にならないミスで国家試験まで受けて取得した運転士の職を奪われるような事例を作れば、会社の見せしめ人事は悪化する一方です。労働協約違反となるので会社の一存で職を取り上げるわけにはゆかず、筆者自身が運転士としての自信を無くし自ら職を退くように仕向ける必要がありました。
 コンプライアンスシステムがあってもそれは社員の不正を摘発するためのもので、企業倫理は悪化するばかりという会社ですから、筆者には弁護する人間もつけてもらえず、一方的な上司の言い分を認めろと罵倒されるだけでした。殺人犯でも弁護士がつくのにね。表向き、筆者の言うことが二転三転して手がつけられないと公言し、会社はいくらでも拘束し続けるつもりで、結局24日の長期日勤教育に及んだわけですが、孤立無援で罵倒される日々というのは大変屈辱的なもので、人間の尊厳が徹底的に失われます。無実のものが自白強要に応じる気持ちがよく理解できました。とりあえずは今の状況から逃れたい、そんな思いにかられ冷静な判断を失います。そうした日々の中で筆者は、死のうと安易に考えました。恨みつらみを遺書に残して死んだら憎き上司も少しはこたえるだろう、そう思い立つと遺書を綴ることが楽しみのような、生きる目標のようなものに思えてきました。
 そして筆者を危機から救ってくれたのが、労働運動に携わる仲間の団結でした。彼らは筆者に携帯電話を持たせ、メールでいろんな指示を送ってきてくれました。筆者も上司に言われたこと、させられたことを逐一仲間に報告し、それをもとに仲間たちも日勤教育が不当であること、人道性に欠くことを会社に訴え続けました。
 自分は独りじゃないと実感できることは大きな力です。自殺への誘惑は消え、上司たちの愚行を客観的に観察できるようになりました。
 労働の現場では、独りになってはいけない、独りにしてはいけないと言われています。それが運動の原点でもあります。不当な日勤教育から仲間たちによって救われた経験は、筆者に団結することの強さと、独りの弱さを痛感させてくれました。

 人間ひとりひとりは弱いけれど、団結すればひじょうに大きな力になる、理屈では解っていても日常生活ではなかなか実感できないものです。筆者の仲間には、もっともっと恐ろしい経験をした方もいます。その人は会社を相手取って名誉棄損の裁判を起こしました。すごい勇気ですね。そして多くの仲間がそれを応援し、公判の度に傍聴席を満席にしにゆきました。彼は一度は駅に降ろされたものの無事に復職して現在も列車の運転を続けています。
 1995年の兵庫南部地震すなわち阪神淡路大震災の折り、筆者は労働組合の文芸誌の取材で現地を訪れましたが、生き長らえた人たちは、異口同音にこうおっしゃっていました。何もかも失っても、そこに人間がいれば大丈夫だ。人と人とが力を合せれば乗り切れないものはない、みなさん口々にそうおっしゃっていました。あの悲劇を一言の美談で済ませることはできませんが、人間とはそうしたものなのです。

 資本家は我々を個別にバラバラにして服従させようとします。会社でも社員を個別に競争させ、出世を餌に従わせようとしますね。しかし餌に食いついた社員を会社は必ずしも救ってくれるとは限りません。出世コースに乗って順調な会社生活を送っているように見えても、どこかへ飛ばされてしまったり、家族を犠牲にしたり、健康を害してしまったりして、つらい人生を歩んでいる人がたくさんいます。会社は非情だとよく言われますが、個人よりも会社組織の維持と発展を旨とするのは会社の本分であり罪ではありません。それが会社というものです。
 しかるに企業は人なりともいいます。会社は人が育て、人を育てるものでもあります。かく言う筆者も会社勤めのおかげで生きる糧と社会的地位を得ているわけです。会社には、人を使役し搾取しようとする一面と、人を育成する一面とがあります。後者を社員のためにより役立てるには、労働者の団結が不可欠です。同僚を出し抜き、出世コースに乗っかったとしても、それは会社に利用されていることが多いです。監督職管理職の人間が、人間性を失い会社に隷属してしまうのもそのためですね。しかしそのせいで健康を害してしまったり家族に愛想を尽かされてしまったりしては、それまでの努力も無駄になってしまいます。そんなピンチの時こそ会社ではなく人に頼らねばなりません。人と人とが団結力を信じ、自分もその力の一員であることを思い出してみましょう。

 人類はヒトに進化しようとしていた頃から、ひとりひとりが小さな力を持ち寄って大きな力を産み、困難に立ち向かってきました。その力はしばしば強大な組織力に発展し、統治者を産み、組織に隷属する人々を産むという本末転倒に発展しました。人は今度は人が作った組織に立ち向かわなければならなくなったのです。そうやって組織と団結力のせめぎ合いは過去から連綿と続き、少しずつ民主化が進みました。現代においても人間社会というものはひじょうに大きな格差と差別、組織の犠牲を産み続けていますが、その反面で人々は高度な情報という強力な武器も手にしました。人は団結して真価を発揮することができるということを多くの人が信じて行動すれば、人間社会のさらなる民主化が実現することでしょう。

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