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人への馴化

2014/12/27


 ナチュラリストとして、野生の小さな動物たちと接して、大きな謎のひとつが、彼らがしばしば人間に馴れるという現象です。人は小さな虫から巨大なシャチに至るまで、飼養します。これは他の生き物たちにも見られる共存関係と形式的には同じですが、中身がずいぶん異なります。食用や乳の採取のために動物を家畜化して保護するのは、アリがシジミチョウの幼虫を育てたり、アブラムシを保護したりするのと同様ですが、ペット化というのはかなり特殊です。あるいは食用以外に、牛や馬は人や貨物の輸送に用いたり農地の耕作に使役したりしますが、これもかなり共生関係としては異質です。ヤドカリやカニの仲間が身を守るためにイソギンチャクの一種を体にくっつけて歩くのと同じと言えばそうなのでしょうが。
 古来より人と共存してきた犬では、狩猟や犬橇(イヌゾリ)のように使役するほか、警察犬や盲導犬といった高度な利用がありますが、それ以上にペットとしての利用がひじょうに多いです。イヌ属タイリクオオカミの亜種イエイヌは、ペットとして様々な需要を満たすため、セントバーナードのような大型品種からトイプードルといった小型品種に至るまで、多種多様な改良品種が作出されました。犬の家畜化あるいはペット化利用のことを、犬の社会性を応用し、人が群れのボスの代行的なポジションをとることで犬を従順させる、あるいは群れ社会に属しているような安心感を与えて利用するというふうに説明している記述を読んだことがあります。大筋において納得できる説明だと思いました。人間によくなついている犬を見ていますと、ボスに従っているというより仲良しごっこを楽しんでいるように見えることがあります。野生生活におけるボスとはちがい、人間のボスの多くは犬のボスほどには厳格ではなく、とても温かく接してくれるからでしょうか。日本の忠犬ハチ公伝説のように、犬と人間は、場合によっては犬同士をはるかに凌駕するきずなを築くことができるのかもしれません。

 進化的な哺乳動物の子供たちは、とても楽しそうに子供同士がじゃれ合ったり、母親に甘えたりといった仕種をよくしますが、それは成長と共に失われ、大人たちは感情を吐露することはほとんどありません。彼らの生態はおおむね本能に支配され、類人猿でさえも野生においては新たに誕生したボスは、先代のボスの子供たちを食い殺し、それを見て発情したメスたちに自分のタネを植えつけるという無感情な暮らしを送っています。
 これに比べて人間との暮らしは、ひじょうに情愛に満ちており、動物園の類人猿は成長してからでも楽しそうに笑い、好奇心が衰えません。彼らは穏やかな心境と若々しさを長く維持し、野生生活に比べてはるかに長生きします。警察犬や盲導犬のような厳しい訓練と規律の配下にあり、つねに緊張を維持しているような飼われ方では、あまり長生きすることはできないようです。
 大型水族館には、海の哺乳動物が芸を仕込まれていて大勢の人間の前でショーを披露しますが、彼らの場合はどうなのでしょう。犬や動物園の陸棲哺乳類と同じように、人と心が通じているのでしょうか。それとも調教に従う報酬として餌がもらえるというギブ&テイクに応じているだけなのでしょうか。海獣の生態と形態は人間とはかなりかけ離れているので、コミュニケーションも陸生動物と同じようにはゆかないように思えますが、水族館の海獣たちの振る舞いは、陸生動物と変わらないように見えます。

 人間は、ヒトに進化する過程で、成体の形成が遅滞し幼児期が長くなるという変化を重ねてきました。時代と共に子供っぽい大人が増えて行くのを見ていますと、その傾向が今も続いているように思えます。動物にとって子供時代は最大の弱点なので、少しでも早く大人になり、一人前の能力を発揮する必要があり、多くの動物がそのように進化し、成体の特徴である形質の特殊化をどんどん伸ばして行きます。対してヒトは、子供時代がどんどん長くなり、成体としての形質の顕現は遅滞してゆきますから、形質の特殊化は失われてゆきます。近縁の類人猿と比べても、強靱な牙や顎、体毛という形質は未発達な状態で、代わりに子供としての形質が大人になっても残るようになってゆきました。
 進化的な哺乳類のように、形質の特殊化が進んで行く進化を成形進化の傾向が強く、ヒトのように幼児期の形質が増強されて行くのを幼形進化の傾向が強いと評価します。加えてヒトでは、子供の形質のまま(大人の形質が顕現しないまま)性成熟に至るようになり、このことを幼形成熟と言います。ヒトは幼形進化と幼形成熟によってヒトたる生き物に進化しました。これは他のあらゆる進化的な哺乳類とまったく異質で、進化の逆行のようにさえ見えます。
 ヒトは性成熟してからも、すなわち成体になってからもひじょうに感情的で好奇心旺盛で、そのことが知性の発達に大きく寄与したと思われます。そして知性の発達が他の動物には存在しないような高度な感情を産んだのでしょう。ヒトの知性と感情は相乗効果のように高め合い、ヒトとしての能力を育みました。本能支配を抑制して理性的に社会生活を形成する能力、道具や機械といった文明を築く能力、言語能力、そうした他とは一線を画す能力は、ヒトに至る特殊な進化のプロセスで育まれました。
 遺伝子レベルでは極めて近縁で差が少ないとされる類人猿たちは、やがて進化して言葉を話すようになるのかという疑問にイエスと答える人は多いと思いますが、類人猿は進化的な哺乳類の仲間です。他の進化的な哺乳類と同様に、環境に適応するための特殊化を進めて進化してゆきました。ヒトとは根本的にちがう進化を歩んだ彼らが言語能力を持つことはないと思います。人と共に暮らす類人猿たちはひじょうに感情的で、野生生活の時よりも高い知性を発揮するようで、文字や記号を理解したり、手話を会得したりするそうですが、おそらくそれが彼らの限界です。彼らも声を発し、野生生活でもそれで仲間を呼んだり危険を知らせたりしますし、クジラの仲間は数十分にもおよぶ歌を奏でて仲間に様々な情報を伝えます。それが彼らの言語であるにはちがいないのですが、彼らの言語は先天的に持っている能力です。ヒトのように後天的な学習によって会得し、それでものを考えるような言語とは別物です。

 他とはまったく異なる知性と感情が他の動物を支配し、動物が人になつくという現象を実現しているのではないかと筆者は思っています。そして人といる間、動物たちの中にも感情が芽生えるように思えます。人は他者に魂を吹き込む存在なのです。
 野生生活においても社会性や育児といった生態を持つ動物が、人に馴化するのは解らないでもありませんが、本来が孤高の生き物である爬虫類が人になつくのはまったく不思議なことです。野生ではたとえ親子であっても再会すれば敵あるいは餌という関係にある彼らが、他の動物の配下に下り、あまつさえなついてしまうというのは、じつに奇妙な現象です。
 かつて中生代の地上を支配した恐竜たちの多くは社会生活を営み、営巣して育児をしていたものもいたそうです。現生の爬虫類たちにもその遺伝子が残っているのでしょうか。現生の爬虫類と恐竜たちは共通の祖先を持つものの、恐竜に進化した種から進化した爬虫類はいません。現生爬虫類よりももしろ鳥類の方が恐竜に近いと言えます。鳥類の祖先は初期の恐竜でした。分類学的に鳥類を恐竜の一群であると見なす学者もいるくらいです。鳥類と恐竜は、共に営巣や育児、社会性という生態を進化させてゆきました。
 筆者が飼育したことがあるトカゲやヘビ、カメのほとんどが、飼育を続けるうちに人を見ると寄ってくるようになり、人の手から餌をもらうようになりました。野生生活では彼らは真逆の行動をとるはずです。彼らよりも高等動物であるはずの鳥たちの方が、慣らすのに苦労しました。ヒナから飼っていた個体とは有効な関係を築けましたが、親鳥から飼うとけっしてなついてはくれませんでした。そこへゆくと爬虫類の方が親からでもなつくケースが多かったです。
 人との暮らしが犬や猿を感情的な生活に誘うように、人に飼われている爬虫類にも感情が芽生えるのでしょうか。化学的な見地から、そんなことはあり得ない、そう信じてきましたが、実際に爬虫類を飼い始めると、爬虫類を家族のように可愛がる人たちを否定できなくなりました。人と一緒にいる間は爬虫類にも感情が芽生えるのではないか、そう疑わざるを得ない振る舞いを彼らはあまりにも多く、筆者に見せつけました。
 筆者の信頼するナチュラリスト仲間には、山で捕獲したクワガタムシを、人に対する反応から、野生育ちか人に飼われていたものが逃げ出したのかが判るそうです。確かに虫たちも飼い初めはバタつきますが、そのうち人を恐れなくなり、扱いが楽になることがよくあります。これは人が身近にいる暮らしに慣れるという反応であってなつくのとはちがうと思われますが、人にしかできない芸当ではあるのでしょう。
 ずいぶんむかしですが、新聞でこんな記事を読みました。飼育中のカマキリを温かい部屋に置くと冬になっても死なず、餌がないので菓子パンを与えて冬の間ずっと飼っていたというのです。そのカマキリは飼育者の手のひらに乗り、飼育者の手から菓子パン(マドレーヌだったかも)をもらって食べていたそうです。
 生き物に感情を与える話しとは少しちがいますが、人形職人は人形に魂を吹き込むのだそうです。また、人の住む家はいつまでも倒れずに建ち続けるけれど、誰も住まず魂の抜けた家は早々に崩れ去るのだそうです。フィギュアや人形が大勢並んでいる筆者の部屋は、嫁さんにとっては怖いところなのだそうです。目のあるものには魂があるからと言うのです。怖っ。でもそれも人間原理的にはイエスです。人間原理は、宗教的な人間中心主義とは別物です。

 生物や生態系、人と自然との関わり合いといった問題を、フィジカルな化学的アプローチで考えるのには限界があるような気がします。そもそも自分の感情だの思考だの、こうしてものを書いたり、想像したりすることが、不思議で仕方ありません。頭の中に転がっている脳を巡る電気信号だけで、ものを考えてパソコンのキーをたたいて文字表現を行なったりできるものなのでしょうか。どえらい設備を持つスーパーコンピューターでさえかなわぬことを、人間はどうして易々と行なえるのでしょう? それほどの演算処理能力が、いったいどう進化したら生物に備わるというのでしょう。やがてコンピューターが進化して疑似人格が形成されるていどになれば、機械が感情を持つかもしれないといいます。感情って何なのでしょう。魂の叫びですか? 疑似人格を作っちまう人間の科学力っていったい何ですか? 蒸気の圧力が機械を動かし始めてだかだか200年あまりで科学技術はコンピューターにまで進化するものなのでしょうか。そんなことが可能なら、神様がいてヒトに進化する種を地球にばら蒔いたとしてもおかしくないんじゃねぇの、なんて想像が頭を過ります。
 素人考えとは気楽なものです。でも、専門家は専門分野でのアプローチという制限の下で物事を判断し理解しようとしなければならないので大変です。もっといろんな考え方を動員して考えればよろしかろうとも思うのですが、それでは統制というものがなくなり学術的な理解には至らず、いつまで経っても夢物語なのでしょうね。でも、夢物語も時代が経てば新たな統制が生まれて、魔術が技術になるように学術的な統一を見るのでしょうけどね。

 とにかく筆者ができることは、科学も想像もフィジカルもメンタルも総動員して、生物のネットワークについて考えることです。生物はコロニーや群れを作るものも、孤立して生きている(ように見える)ものも、すべてネットワークでつながっている、そう考えています。そのネットワークには生態系も気象も地質の循環も含まれ、個々の生き物の振る舞いはその一面であるのでしょう。そして人間が他の動物たちと心を通わせたり、自分たちの都合のよいように造り替えたりできるのも、みんな根っこでつながっていて、それぞれ異質に見える側面を見ているに過ぎないからなのでしょう。これはひじょうに乱暴で稚拙な考え方ですが、個々の生物の振る舞いを適応という見方をするのではなく、世界という大きな"系"を維持するために必要な振る舞いであるという別の方向から観るという点で意義があるのではないかと考えます。
 人の歴史も生物の進化の歴史も、振り返れば今の世界を構成するのに必要なプロセスに帰結し、未来へと続いてゆきます。
 素粒子の世界やエネルギーの本質について知るために、統一場理論や大統一論が模索されるように、生命とその世界を知るための統一論的な考え方が必要ではないか、そんな気がします。

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