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正常と異常

2014/03/15


 先日、知人と人の精神について話しをしました。今の狂った世の中で、人はどこまで正常な精神を維持できるのか、なんて話題をいささか冗談めいた感じで話し合いました。そもそも精神状態の正常あるいは異常ってなんだろう、こんな不条理な人間社会にいて正常な精神を保っている方がむしろ異常なんじゃないのか、ってことは精神に異状を来しているとされる人がじつは正常で、正常だと信じられている人がそうだとは限らないんじゃないだろうか。会話はとめどない議論になって行きました。
 ある記事で読んだのですが、人間には動物と同じような欲望が本来備わっていて、弱者を見れば攻撃してやりたい、異性を見れば性衝動にかられる、自分の持っていないものを見れば欲しくなって奪いたくなる、そうした思いを抱くのは異常ではないのだそうです。しかし、欲望に従って行動すれば社会生活の秩序が乱れるので、理性という特別な観念でそれを自制し続けることになり、人は生きている限り欲望の抑圧に耐え続けていなければならないというのです。いかにも判りやすく単純な説明ですが、この理屈で行くと、欲望に忠実なことは本能的に当然であって異常ではない、それを抑圧つしていることの方がむしろ特異なことで、人は社会生活においてそれに耐え続けるという不自然な状況に置かれているということになります。そりゃストレスも溜まるってもんですよ。でも、人には他人に優れていると思われたい、尊敬されたい、人の役に立ちたい、人を助けると嬉しい、みんなで協力して物事を達成すると充実感を感じる、そうした欲望も持っています。そのために欲しいものを我慢することは人としての分別であり、欲望の抑圧ということとは少しちがう気がします。欲しいからといって物を盗んで、他人から見下されても平気ということの方が異常です。
 純粋に生物的な物欲は、人が先天的に持っているもので、他人から良く思われたいという欲求は人間生活の中で後天的に生じてくるものかもしれません。そうだとしても先天的な欲求に忠実であるために後天的な欲求を無視することが異常とは限らないというのは、正しくないでしょう。
 小さな子供でも、褒められたら嬉しいという満足感を覚え、親の手伝いをしたり、自分が食べるのを我慢して年下の子に与えたりします。食べるのを我慢するストレスよりも、年下の子が喜ぶことや、その行為を親から褒められることの満足感の方が大きいはずです。
 じゃあ、物を欲しがって駄々をこねたり、手伝いを強いられて不機嫌になるのはなぜか、あんて揚げ足をとってはいけませんよ。後天的な欲求を覚えたら、先天的な欲求を忘れてしまうというわけではないのですから。
 人や動物が群れや社会性を持つことは、同属が集合することの優位性ということが基になっていると思われます。1匹で暮らすよりも、集団で暮らす方が生存率が高くなるのです。高度な特殊化が進んだ生き物の多くが、同種間の摩擦を避けて単独生活をしていますが、1匹でも餌の採取や自衛に不利がなければ、仲間同士で餌の奪い合い(あるいは分配)をするよりも効率的に生きて行けます。しかるに我々人類は社会生活に適応した生き物です。単独で自然界に放り込まれた場合の方が、大きなストレスを受けることになり、消耗して短命を終えることでしょう。それ以前に餌の採集や自衛にことごとく失敗して死んでしまうかもしれません。とくに幼児期の人間は自然界での自活は困難ですし、赤ん坊の場合はもはや育児が不可欠です。
 社会生活の基本は、群れることで得られる安心感です。協力して餌集めや育児をすることが、個体に安らぎを与え、生きることのストレスを軽減してくれます。しかし社会が高度になり分業が進むと、序列や不平等が生じ、集団の中での摩擦が生じます。人間社会ではそれがどんどん膨れ上がり、集団の中で生存競争が生じてしまうありさまです。

 冒頭で述べた、今の狂った世の中で、人は正常な精神を維持できるのかという話しは、本来、個体が協力し合って安心を得ることが社会性の基本であるのに、人間社会には集団内に競争が生じているということを狂気としてとらえています。群れることで安心できるはずが、社会に属することで大きなストレスを受ける事態が発生し、憎しみや他人の不幸を喜ぶ衝動が横行しています。悲観的になったり、引きこもりや自殺という選択をしてしまう人も出現します。人にとってマイナスの衝動が横行するのは、人間個人の異常性よりも社会性であることが大きいと思われます。
 読者は、健全で正常な精神を維持できていますか?
 あるアスペルガー症候群に詳しい方の話しによると、知的障害を伴わなずにコミュニケーション能力に欠陥があるような人は少なくなく、程度の差をつきつめて行くと、どこまでが正常でどこからが異常という線引きが難しくなるのだそうです。情緒が不安定であったり、物の考え方がひじょうに個性的であっても、通常のコミュニケーションにさほど支障がなければ、精神異常と定義する必要もないし治療も必要ないけれど、物事の判断はおおむね正常にできても、過度に悲観的になったり、人との関わりを避けてしまい集団生活に支障がでるような場合には、カウンセリングや治療が必要になってくる。つまり異常の程度がひじょうに小さければ正常と定義して支障がない。こう考えると完全に正常な人はどれくらいいるのか、果たして存在するのか、ってことになるそうです。
 人の精神の異常性あるいは正常性は、精神医学の専門家の判断とはべつに、社会通念にも左右されることが多いように思えます。天才と気狂いは紙一重といった(今では死語かな)ことを、むかしはよく耳にしましたが、常人ではついて行けないような考え方をし、その行ないが奇行に見えるようなことが、天才と称される人にはありがちなのだそうです。あるいはマッドサイエンティストと言われる科学者のように、独自の研究のために人権や人命を軽んじ、破壊的行為に及ぶ人も狂人と呼ばれます。
 破壊的行為に及ばなくても、猟奇的な芸術に執着したり、一般的に忌避される物事を嗜好したりする場合も正常を疑われる場合があります。女性の下着を集める男は変態コレクターですが、人気の婦人用下着をデザインする男性が天才デザイナーと言われたりします。集めると変態ですが作ると天才です。物に対する執着や衝動は変態も天才も差異がないかもしれませんけどね。
 映画や小説におけるエログロ要素は、筆者のひじょうに好むところでありますが、そうした内容の作品を数多く手がけておられる作家や映画監督は、名声と天才の称号を欲しいままにしていますが、それらを鑑賞して喜んでいる筆者は、残念ながら変態です。性的欲求の充足のためにAV作品をせっせとネットで検索して、それを紹介し合っている人たちに変態と呼ばれています。いい年をしてアニメを見ている筆者はオタクですが、それを創る大人たちはアーティストです。
 もっと残念なことに、筆者は変態とかオタクと呼ばれることに不快感を抱いておりません。漫然と性行為を繰り返すAV作品を見て夜のおかずにしている人たちよりも、変態やオタクの方が楽しいし夢がありますから。ああ、AV作品にも芸術性の高いものがありますよ。創る人というのはやっぱ偉大です。
 筆者は、学生の頃から宇宙や生き物に高い興味を持っており、宇宙の果てや起源に関する書物を読んでいました。するとよく母にたしなめられたものです。そんなことを考えていると気が変になるというのです。天才と気狂いは紙一重という言葉も、よく母の口に登りました。宇宙論や理論物理学の話題であれこれ想像を巡らせることの楽しさを母に解ってもらえないのは残念でしたが、母が心配する気持ちも理解できたので、あまり反論はしませんでした。
 虫や爬虫類を飼育することも、やはり変わってるとか変態だとか言われる対象になります。なんで筆者の好きなことは変に思われることばかりなのでしょう。変態呼ばわりならまだしも、頭がおかしいとか、異常だとか言われたこともあります。そしてそれを否定できないところがまた悲しいというか……。
 人の精神の異常性あるいは正常性は、精神医学の専門家の判断とはべつに、社会通念にも左右されることが多いです。日本という社会で、虫やヘビを集めると変態だと言われ、正気さえ疑われます。でも、熱帯地方の虫やヘビを食する文化のあるところでは、筆者のような者に対する風当たりはもっと緩やかでしょう。子供の頃は虫を集めてもアニメを見ても、常識はずれだとは言われませんでしたが、大人になると変態やオタクのレッテルを突きつけられます。いや、いいんですよそれで。そういう風潮の社会に筆者がいるだけのことですから。言いたいのは、条件が変われば正常か異常かも変わるし、社会的立場が変われば変態が天才に転化するものだってことなんです。面白いでしょ?
 筆者は、虫や爬虫類を嗜好することも、アニメ好きなことも、ホラーやエログロ作品が大好物なことも家族や勤め先で内緒にしてはいません。それでも阻害されたり、友だちが少なかったりってことはないです。若い人たちをメイドカフェに連れて行ったりすることもあります。要はやり方ってことなんですよ。
 筆者は、世間一般ずれした嗜好や考え方という点で、変わってるとか異常だとか言われることもありますし、自分でそれを否定もできませんが、周囲の人間関係というものをも観察の対象にしてしまい、興味を持って分析しそれに対処すれば、カウンセリングを受けることも精神病院送りにされることもなく、一般人として暮らせます。
 よくこんなことを耳にします。狂った世の中に住んでいたら、おかしくならない方がおかしい。なるほど。おかしくなっていないとされる大勢の人がじつはおかしいのかもです。みんなでおかしくなればそれが正常ってわけです。
 古典映画の名作「まぼろしの市街戦(1966年フランス)」はこんなお話しです。戦時下のある町に爆弾が仕掛けられ、市民がみんな退避して無人になったところに、精神病院の患者たちが流出し、思い思いの身なりをして成りきりごっこを楽しんでいるんですね。そこに敵対する小隊が進軍してきて、患者たちの目の前で銃撃戦を繰り広げ、あっと言う間に双方死滅してしまうのです。患者たちは言います。まるで気狂いだ。こんな異常で恐ろしい世界はごめんだってことで、みんな精神病院に舞い戻ります。爆弾事件も解決して町に人々が戻り、ふだんの暮らしが再開されるのですが、爆弾処理に独りで奮戦していた若い兵士は、その一部始終を目にしました。彼は軍服を脱ぎ捨て全裸になり、相棒の伝書鳩のかごだけをぶら下げて精神病院の門をたたくのでした。

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