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飲酒の話し

2014/02/22


 筆者は酒を飲みません。むかしはそれで苦労しました。高校を出て会社に入って初めてビールを飲んだ時には、腕にジンマシンが並びました。ビールって不味いですね。それでもあの時はハイキングの帰りで、喉が渇いてて駅長に進められてコップに2杯くらい飲んだでしょうか。顔が熱くなって目がショボショボして、しばらくは動くのがキツかったです。
 むかしは、社会人たるもの飲まないというのは我がままであるという風潮があり、飲めないというとよく説教をされました。「日本人の多くはアルコールに対する抵抗力が弱い、それでもみんな努力して付き合い程度には飲めるようになるものだ。その努力をしないのは甘えている」それが飲む人たちの理屈でした。
 宴会では最初にビールで乾杯をやります。その最初の1杯を飲み干すと、筆者はコップを伏せ、注ぎに来た相手とケンカします。人間には誰にでも嫌いな飲食物があるでしょう。それを勧めるとはケンカを売られてるってことですから、買うしかありません。じゃあ、お前の嫌いなチキンを食え、それがイヤなら人の嫌いなものを勧めるな。これが筆者の買い言葉です。しかし社会の常識として、悪いのは筆者ということになります。「人の嫌いなものを食えとか言うな、お前も嫌いなものくらいあるだろう」だから酒が嫌いだって言っている。「それはお前の我がままだ、努力もしないで嫌いなんて周りが迷惑する」おおむねこんな内容のケンカになります。まぁ、意外かも知れませんが筆者は宴会の席は嫌いじゃないので、しらふでも暴れますし、宴会を台無しにしたくはないので本気のケンカはしませんけどね。
 ただ、酔って説教するやつ、目が据わって怒りだすやつは嫌いです。「お前は酒も飲まんのに、つまみだけは食うのか」なんて言われると頭に来ます。こっちは割り勘でお前の酒代まで払ってやっているのに、つまみも食うなってか。酒飲みは、飲まない参加者に感謝しろ、ボケ。ってな感じです。これは本音です。「酒飲んでる横でジュース飲まれると、酒が不味くなる」なんて言われると、一発ケリを入れてやります。飲みたくもないジュース飲んででも付き合ってやってる人の行為を無にするやつは成敗しなければなりません。
 宴会は楽しむものです。バカ話しで盛り上がって大騒ぎするのは良いことです。その誘いには乗ります。けれど目を血走らせて怒ってるやつは酔ってるからと許しておいてはクセになります。
 ある時、テニスの練習の帰りにみんなでパブへ行こうということになって、筆者もノリノリで参加したのですが、そのお店にはノンアルコールがまったく置いてなかったのです。スポーツのあとで喉はカラカラです。仕方ないのでチューハイを飲むとこれがけっこう美味で、調子に乗って11杯とか飲みました。するとお腹の調子が悪くなってトイレに駆け込み、そこでお尻から大流血です。数日後、お尻がカンカンに腫れて医者に行くと、周辺膿症という痔だと診断されました。「酒は止められないか」という医師の問いかけに、よろこんで止めますとも、と答えました。

 それから社会は飲めない人間にとって優しい時代に徐々になって行きました。今ではアルハラという言葉まであって、飲める人が飲めない人に酒を強要するのは人権侵害なのだそうです。
 今では筆者もじじぃなので、宴会で酒を強要されても返り討ちにするだけですが、相手も狡猾になったのか、時代が良くなったのか、勧めてくる人はほとんどいなくなりました。
 それでも、世間に酒飲みはたくさんいます。酔った人間はひじょうに迷惑です。臭いし汚いし、暴力を振るうし。筆者は駅員なので、夜になると泥酔者の相手をすることもあります。話しも通じないし、言動や態度が豹変するし、まさに狂人ですね。そして自衛のために手を挙げると、過剰防衛でこっちが犯罪者になると言いますから理不尽な話しです。酔って周りの人間に危害を及ぼす奴に手を挙げて悪いというのは納得が行きません。周りに居合わせて、そいつを手助けしようとして殴られた人は、その人が悪くて酔っぱらいに責任はないというのはおかしな話しです。正常な人間は、暴力と侮辱を受けて、それが当然とはどういう法規なんですか。泥酔者に遭遇したら身を守っては行けない、常人を助けてもいけない、日本の法律はどうなっているんですか。泥酔者にまともな判断能力はないのは解りますが、泥酔したらどうなるか、どれほど周りに迷惑をかけ危害を及ぼすかくらい当人も承知で飲むわけでしょう。それがマナー違反であることを知ってて飲むわけでしょう。そんな人間に対して、それを制したら過剰防衛なんて無茶苦茶です。泥酔者は手加減なしで暴れるのに、それに対する防衛権も正常な人間は持てないなんて。
 そりゃ、高い殺傷能力のある武器で動きを封じるのは過剰防衛でしょうが、素手で相手の動きを封じるくらい認めてほしいものです。警察を呼べばいいと言いますが、警察官の到着までにこっちの身がもちません。怪我を負えば酔っぱらいを訴えられるそうですが、怪我する前に相手の動きを封じたいし、裁判ざたに無駄な労力と時間を奪われるのもごめんです。

 喫煙の話しの項でも述べましたが、自分の満足のために周囲に迷惑をかけることが許されるなんて、酒飲みは王様ですか? 悔しかったら飲めですか。飲みたくもないし、酔って周りに迷惑をかけたいという欲求もありません。
 酒を飲んで自動車を運転すると罰せられますが、それは周りに危害が及ぶからでしょう。酒を飲んで人なかをうろつくことも同じじゃないですか。車の運転ほどの殺傷能力は発揮できませんが、自分もそして周りにもかなり重大な危険を及ぼします。酔って階段で人と接触したら、相手は転倒して階段を転げ落ちるかも知れません。酔って自分が階段を転げ落ちたら、自分が負傷するのみならず、その先に人がいたらどうなります? 酔って列車のホームから線路に転落したら、自分の命に危険が迫りますが、接近した列車の運転士が急ブレーキをかけ、列車に乗っている旅客が将棋倒しになります。
 酔って公共の場を歩くことが認められているなんて、汚臭をまき散らし周りに不快な思いをさせてもかまわないなんて、酒飲みってほんと王様ですね。じつにうらやましい。
 酒飲みは、その挙動で自分や周囲に危険を及ぼす以外にも、嘔吐したり失禁したり、不衛生きわまりないです。まさに歩く汚物です。駅でもすぐ近くにトイレがあるのに、ホームで小便をするクソじじぃがたくさんいます。つい先日も、清掃係員が嘔吐物の処理をしてノロウィルスに感染しました。清掃係員はマスクに手袋を付けていますが、筆者のような駅員はそうした防御装備を支給されません。清掃係員は日に2回ほど半時間ほど巡回してくれるだけで、あとの駅の清掃は駅員の受け持ちなので、筆者は無防備なまま日々嘔吐物の処理に明け暮れています。駅が酔っぱらいの嘔吐場所だなんて決めたのは誰ですか。嘔吐物の処理は感染の危険性を覗いても、精神衛生上もひじょうによろしくないです。酔っぱらい様のゲロと小便の片づけをさせていただく我々に人権はないのですか。
 会社は、泥酔者もお客様ですなんて言いますが、とんでもないことです。泥酔者がいなければ、多くの旅客が不快な思いをせず、怪我を負う危険も減少するのですから、泥酔者を客としてもてなすというのは、常識人をバカにする行為です。常識を持って正しいマナーを守る人間は、泥酔者の危険性や悪臭やゲロに耐えろなんて、どういう接遇ですか。問題を起こさない客をなめる傾向は、最近の多くの調子に乗った企業にありがちなことですが、正直者や行儀よくするものばかりがバカを見る風潮はほんとよろしくないですね。
 泥酔者は、その悪しき症状を発症した時点で、公共の場から隔離されるべきです。でなければ公共の安全と衛生は脅かされたままです。筆者の勤める鉄道会社は、人件費削減で清掃係員も最小限しか雇わず、多くの駅のホームに水道も清掃設備もありません。我々駅員がせっせと掃きとってもゲロ跡は染みとなって残り、その上にまた新たなゲロ染みが重なり、毎日清掃が入るトイレの方が百倍衛生的です。旅客は日々、多数のゲロ染みを踏みしだいて通勤通学しています。駅のホームは病気の感染源です。飲食店ならぬ駅のホームは法的に衛生管理する必要はないのかもしれませんが、泥酔旅客は歓迎するが、嘔吐物の処理はしないという鉄道会社の態度も異常です。泥酔旅客の危険性もホームの不衛生さも鉄道会社は承知しています。承知していないなら無知無能もはなはだしい。ただ、国の法に触れなかったら何をしてもいいというわけです。
 酒を飲んで車の運転をすると、事故を起こす可能性が高くなりますが、交通事故以上に歩き回る泥酔者による暴力や怪我の件数は多いです。物的な被害を被らなくても、酔っぱらいの口から吐き出される罵詈雑言や悪臭、嘔吐物はたいへん迷惑です。それが違法でないから周りの人々は耐えがたきを耐えるしかありません。車による事故でなければ、泥酔者による事故や事件、迷惑は野放しにしていいという国のルールもまともとは思えません。
 悲しいことやつらいことがあって、公共の場で騒動を起こした場合、世間の目はひじょうに厳しいものです。その人の性格や精神状態が疑われ、汚名を挽回するのは並大抵ではありません。しかしながら泥酔して周りに迷惑をかけ続けている人間は、すぐに許され社会的地位を回復します。それが恥にもなりません。ここは酔っぱらい天国ですか。

クソじじぃのこと

2014/02/25


 人間社会には様々なタイプの人間が存在しますが、その中でひじょうに厄介なのがクソじじぃです。じじぃとは男性の老人を蔑んだ呼び方で、それにクソを付けたいささか上品さを欠く表現がこれです。この場合、老齢であることはあまり関係なく、若くは40歳代でもクソじじぃと呼ぶに相応しい輩がいますし、もっと高齢になっても若々しくこれに該当しない紳士もたくさんいます。
 かく言う筆者も50歳を越えたじじぃです。最近は若々しい人が多くなり50歳代では老人と呼ぶには早すぎるのだそうですが、中年とも言い過ぎでしょう。まぁそんな感じの人もいますが、筆者のような白髪まみれのじじぃは、やっぱどう見てもじじぃです。
 人間は、経験した時間だけ老化が進むのは致し方ないのですが、実際に自分がじじぃになってみますと、むかしと比べて体力が落ちたとも、思考力が低下したとも思えません。最近、目が疲れやすくなったのは感じますが、メガネを変えたらまた良くなると思います。映画やテレビアニメも楽しいですし、生き物の飼育に関してもますます精力的で好奇心いっぱいです。やりたいこと楽しいことが山のようにありすぎて全然時間が足りません。
 同年代の人間と話しをしても楽しいことはあまりありません。50の声を聞くとガクッと体力が落ちたのがよく判るなんておっしゃってますが、それって40になった時も言ってましたぜ。もの覚えが悪くなった、外食は油っ濃くてかなわん、何を見てもおもしろくない、そんなことも10年間聞かされてきました。40代から同じような感じなのだから、50代になってもそんなに老化してないってことじゃん、良かったじゃん、と思うんですけどね。
 あとは若い人たちへの批判ですか。最近の若い奴は何を考えてるか解らん、とか軟弱な奴が増えたとか、けったいな言葉づかいしやがるとか。じじぃの方が何考えてるか解らんし。気まぐれで、話しがころころ変わるし、今言ったことも忘れるし、くだらない冗談を繰り返して自分ひとりで笑ってるし、相手の言葉をさえぎって話すし、総じて悲観的で、相手の話しをくだらないとか無駄だとか言うばかりだし。筆者は同年代や年上の人と話しの合う人間はあまりいません。若い人たちの話しの方がずっとよく理解できます。とくにオタク仲間とは、まるで友だち同士のような会話になります。アニメやフィギュアの話しに夢中になり、美味いもん食べに一緒に出かけます。世の中つらいこと、悲しいこと、頭に来ることもたくさんありますが、楽しいことや夢だってたくさんあるじゃないですか。
 まぁ、若いころは自分がこんなふうになるとは思っていませんでしたし、自分はいつまでアニメが好きでいられるのだろうなんて考えていたわけですが、実際にじじぃになってみると、人の気持ちなんて高校生の頃から何も変わらないってことに気づかされます。筆者はたぶんヨボヨボじじぃになっても視力と聴力が残っている限り、アニメを観続けます。美少女アニメを観に劇場にも足を運びます。
 じじぃになるとですね、いろんな経験を積んできた分だけ視野が広くなり、考え方が柔軟になります。若い頃には思いもつかなかった発想がスラスラ出て来て、文章を書いたりするのも楽しいです。去年もライトノベルを1本書きましたよ、350枚ほどのやつ。若い頃に自分は、いろんなことが無理だって思えたものですが、今は夢や希望に満ちあふれています。それは自分のことばかりではなくて、人間社会の未来に対してもです。
 なんか、自分の若さ自慢みたいになってしまいましたが、有名人なんかには筆者の親世代の現役アニメーターだとか、70歳に手が届くアクションスターなんかもいるわけで、知名度が高くない方でも、高齢でも現役でバリバリ働いている方はたくさんいます。筆者の周りには年寄りくさい同輩が多いものの、筆者が所属している全国ネットの文学サークルには、老齢になってから初めてパソコンに触れ、1年足らずのうちにブラインドタッチをマスターし、マシーンやインターネットに精通し、サークルの出した既刊を電子図書化してしまったという強者がいます。彼より20年も早くパソコンを始めた筆者が、今では彼に教えてもらっている始末です。

 で、クソじじぃの話しなのですが、むかしと比べたら高齢者がどんどん若返る現代においても、頑固で排他的で、公共意識が欠落した厄介者がたくさん生き残っています。
 いったい何が気に入らないのか知りませんが、いつも不機嫌で、溜め息を吐いたり、舌打ちしたり、ブツブツ言ったりとまったく落ち着きません。電車の中では3人分くらい座席を占有しますし、雑踏ではわざと他人に肩をぶつけて歩きます、それも女性やおとなしそうな人限定で。
 筆者は鉄道員で、現在は駅員をやっておりますが、クソじじぃの傍若無人ぶりにはあきれ果てます。若い駅員や女子職員に「おい、こら、電車1分も遅れとるやんけ」とわめき散らし、そこへ筆者のような年配者が「お客さん、どうされましたか」と声をかけると、とたんに卑屈な笑みを浮かべ、小声でぶつくさ言いながら去って行きます。笑みが不気味です。恥という言葉をクソじじぃは知りません。卑怯な行ないを恥ずかしいとも思わないのです。
 クソじじぃに酒が入ると、まったく手が付けられません。人間あれだけ恥知らずになれるものなのでしょうか。もはやヒトとして分類するのも疑問です。ヒトとは知性を持ち理性的に行動する生き物でしょう。理性のかけらもなく恥ずかしいという感情もないものをヒトと呼称して良いのでしょうか。それとも、彼らは精神を病むほどつらく悲しい経験をしてきて、ああなってしまったのでしょうか。

 クソじじぃは、見ているだけで腹立たしいですが、とくに若い人たちを一方的に批判したり小馬鹿にしたりするのは許せないですね。同世代の人間として情けないし恥ずかしいです。「最近の若いもんは……」という句は古今東西を問わず古い者の口を吐いて出る名言なのだそうですが、自分がじじぃになってみると、若い人たちは年配者に比べて素晴らしい人が多く感心させられます。若い頃は経験が少ない分だけ不安も多いし、視野も狭くなりがちかと思われるのですが、おおらかで寛大な心の持ち主もたくさんいます。筆者は今もひじょうに多くのことを若い人たちに教えてもらっています。そりゃ中には残念な若者も存在しますが、それが若者の代表的なパターンだと思って批判するのはマスコミとじじぃだけでしょう。
 じじぃたちが自分の身勝手を棚上げして若者を批判したりバカにしたりするのを見ると、本当に残念な気持ちになります。
 現代のじじぃどもは、高度経済成長期をぬくぬくと生きてきて、利己的な考えで過当競争と格差社会と環境破壊を産み出し、若い世代に多大な借金を押しつけて来ました。じじぃの多くはろくな貢献もせずに高給をもらい、若い人たちは重労働低賃金に苦しんでいます。この状況でなお若い人たちを批判するじじぃの身勝手には本当に腹が立ちます。
 と言いつつ、筆者も経済成長期の恩恵を存分に被ってきた幸せ者のひとりです。立派なことを言うなら、今の暮らしを手放してホームレスにでもなれと言われそうですが、そうしたところでそれも偽善に過ぎないでしょう。筆者のような万年平社員が投げ出せる財産なんてたかが知れていますし、同世代の同僚と比べると低賃金で働いている分だけ少しは上品でしょ?
 何もできないクセに若者批判はやめてもらいたい。いいえちがいますね、労働運動等で微力でもできることはあるはずです。それもやりたがらずに、弱者批判だけをするのは恥ずべきことだと思います。
 「おれたちの時代は終わった、これからはお前たちの時代だ。お前たちがもっと声を上げないででどうする」労働運動に際して、そんなことを若者に言うじじぃがいました。これから先、労働者の処遇が良くならなくても、自分たちは後がないからそれでも構わないが、今後も長く会社勤めをする若い人たちにはもっと頑張ってほしいとも。一見若者思いの正論に聞こえますが、もはや後先がないじじぃこそ怖いものなしなのですから、率先して運動に参加すべきではないでしょうか。若い人たちに範を示してから隠居するなりいなくなるなりすべきでしょう。
 ……なんか、自分はちゃんとしてるみたいな話しになってしまいましたが、筆者も他人を批判できるほどご立派な人間ではございません。労働運動にもそれなりに参加してまいりましたが、もっと真剣に取り組んでいる人たちに比べたら、なんにも貢献していません。
 本項で言いたかったことは、自分が実際にじじぃになってみて、気持ちや感性が若い頃と少しも変わらないのを実感していること、若い人たちを批判する気持ちにはなれないこと、むしろ若い人たちに多くを学び、感動をいただき感謝していること、じじぃが若い人たちを批判するには及ばないぞ、ってことです。
 まぁそれでも他人を批判したがるのが人間ってものなのかも知れませんが。筆者がじじぃを批判するのも結局は同じことですね。
 ただ、社会ではせめてお行儀よく、人の邪魔にならず、迷惑もかけないように行動すべきです。自分の立場が強ければ横柄になり、会社では権力に従順なのも見苦しいです。恥ずかしいです。クソじじぃには、周りから嫌われたいという欲求でもあるのでしょうか。ああなる意味が解りません。大きな病気や悲運のせいで心がすさんでしまった人もいるでしょう。でも、普通の暮らしをまっとうできているのにクソじじぃに成り下がっている輩も大勢います。
 いったい何が彼らをそうさせるのでしょう。そんなに世の中が気に食わないのなら、自室に引きこもったらどうですか。身勝手で傍若無人なクソじじぃさえいなければ、世の中はずいぶん快適になると思うのですが。

衛生観念と細菌

2014/02/27


 虫や爬虫類が、哺乳類や鳥類とちがって多くの人たちに気味悪がられる原因は何でしょう? 珍しい虫や奇妙な生き物に多くの人たちがワクワクしないのはなぜでしょう。こういうことを考えることがそもそもナンセンスなのだということは解ります。筆者にだって苦手な物事は存在しますし、何でも捕まえて飼ってみるくせに嫌いな動物もいたりします。すみません、身勝手で。人の嗜好性や好き嫌いについて考えるのはほんとナンセンスです。筆者に酒の美味さ楽しさを説得されても困るのと同様に、虫や爬虫類の魅力を嫌いな人に懇々と語るのは愚かなことです。そして筆者が属している日本という国社会では、虫や爬虫類が苦手というのが一般的で、あんなものが好きというのは少数派なのです。
 でもね、世間一般の嗜好性も時と共に変化して行くものです。筆者が若い頃は、美少女アニメを大人が嗜好するのは不気味がられましたし、少女誘拐事件などが世間を騒がせたりすると同類扱いされて恐れられたり心配されることもありました。世間一般の人たちのそうした反応は理解できました。理解できるけれども、だったら世の男性諸君が女性を好きになるのはなぜなんだろうとも思いました。可愛いものが好きじゃないなら、女性なんて好きになれないんじゃないのか、なんて。ところが時と共に世間のアニメに対する見方考え方も変化し、今ではアニメは日本が世界に誇る文化にまでなりました。アニメとは相いれない大人の世界だと思っていたパチンコにも美少女アニメキャラが大出演です。やっぱみんな可愛いもの好きだったんじゃないか、なんて。
 同様に、日本での虫や爬虫類の認知度も時代と共に高くなり、一頃は昆虫ブームや爬虫類ブームまで興り、今ではそれらの専門ショップもたくさん増え、ホームセンターにも虫や爬虫類が並ぶことさえあるほどです。
 それでもアニメオタクは大勢を占めているわけではありませんし、虫や爬虫類好きは今でも変わり者の部類に入るのでしょう。ただ、むかしに比べると世間の嫌悪感がだいぶ低減して、オタクや変わり者の市民権がかなり認められるようになったというだけです。オタクのみなさん、変わり者のみなさんは、これに乗じて調子に乗ることなく、嫌いな人の方が圧倒的に多いのだという認識を忘れちゃいけまへん。

 考えてみれば、アニメオタクも虫好きの変わり者も共通しているのは、子供の属性を大人になっても持ち続けているってことのようですね。アニメや虫に興味のない大人でも、子供の頃にはテレビアニメにくぎ付けだったでしょうし、野山で虫を追いかけた経験もあるでしょう。子供の頃は虫に触るのも平気だったのに大人になってからは無理だ、なんてこともよく耳にします。
 子供の頃は興味津々だった虫たちも、大人になると忌み嫌う対象になってしまうなんて、じじぃになっても心は少年の筆者などからすると、残念というかもったいないというか、あんな面白いもの……なんて言ってはいけないんですよね、それは好きなものの身勝手です。
 ただ、本項ではあえてその苦手のカラクリに挑みたいと思うのです。
 虫や爬虫類は無理だけど、魚の解体は平気、タコやイカは美味そうに見える、カニも解体してムシャムシャ食べる。筆者などに言わせると、カニの方が虫よりもはるかにグロいです。ご立派なズワイガニのお顔をガン見したことありますか? なかなかヤリますよ、あれは。あれが平気ならアリンコやカマキリなんてずいぶん可愛らしいものです。スルメイカやでっかいサバをさばきながら、ちっこいヘビやトカゲが無理とか言われても説得力ないんですけど。鮮魚の調理現場の迫力は、小ヘビの脱皮シーンなどで到底たち打ちできまへん。
 食べ物であれば、なかなかいかついものまで食欲の対象なのに、虫は聞くだけでも無理というふうに、人はいつ頃からなってしまうのでしょう。諸外国には虫を食欲の対象にするところもたくさんありますし、時代をさかのぼれば日本でもタニシやイナゴもご馳走でした。
 これは生活習慣や既成概念、教育の問題ですね。虫は無理だという大人が、子供にそれが怖いもの、忌み嫌うべきものと教え込むことがそもそもの原因ではないかと思われます。もっとも昆虫採集や虫の飼育を徹底的に排除するような家庭教育をする親は多くないでしょう。ペットショップ等で子供にせがまれてカブトムシなんぞを買い与えたことのある親も少なくないでしょう。しかしながら、虫を寝室や食堂に持ち込むことは不衛生であるとして許さないのが普通ですし、家の中にさえ持ち込ませない、せいぜい玄関止まりというのが常識的です。
 そう、虫獣類は不衛生なのです、一般的な認識は。ゴキブリやハエやカは、病気の直接的な感染源ですらあります。そうした身近な害虫は子供の目の前でも容赦なく抹殺しますし、子供にもそうするよう指導します。その害虫のお仲間である虫たちは、必然的に不衛生なもの、場合によっては有害なものということになるのでしょう。ヘビやトカゲは感染源という認識は薄いですが、彼らは自衛本能として人に噛み付き負傷させます。これも感染症を連想させます。
 現代日本ではとくに、虫を食材にする例がほとんどありません。爬虫類もしかり。魚介類として食卓に登るのは主に海産生物で、身近な小動物はまず食品対象外です。ぶっちゃけますと、魚も甲殻類も身近な獣虫類と同様の野生動物であり、同じように寄生虫を宿していたりします。……この話しは止めましょう。多くの人たちにとって精神衛生上よろしくないですから。
 そう、この精神衛生上の問題というのが日本人のような衛生観念の高い人間にはとても重要でして、虫や爬虫類を忌み嫌う大きな原因なのだと思われます。人家の周りや近くの緑地にいる身近な生物は食材にはならず、食べられる生き物は海や遠くの渓流に住んでいます。
 細菌による感染症は怖いです。極力防ぎたいです。多くの日本人のように時計の命令に厳しく縛られていっぱいいっぱいの暮らしをしているようなケースではとくに、傷病によって生活ペースを乱されるのが恐ろしいものです。感染症は徹底的に避ける、それがデジタルで目いっぱいの日本人の自衛本能なのかも知れませんね。……感染症は防げても心の病になりそうですが。

 わかりました。忙し人の日本人諸氏に虫や爬虫類の可愛らしさをお勧めするのはやめましょう。解ってもらえる永遠の少年少女たちだけと、その面白さ楽しさを共有するとしましょう。虫と甲殻類とどこがちがうねん、なんて理論攻撃もやめましょう。感情的な精神衛生なるものを重視してさしあげましょう。
 外国人が驚愕するような潔癖症は、日本人の分単位で時間に縛られた生活を維持するためのものなのかもしれません。毎日欠かさずに入浴し、除菌効果の期待できる洗剤や石鹸を使う、それが日本人の常識に組み込まれたパーツなのでしょう。
 しかしながら、不衛生なものがすべて生物由来であるとするのは大間違いです。薬品や塗料といったものの中にも不衛生なものが山ほどあります。ハウスシック症候群を引き起こす家屋の接着剤等も人体に有害な、すなわち不衛生なものの1つですね。石油製品や放射線物質など、無生物でありながら不潔なものはたくさんあります。
 逆に、細菌類の中にも衛生的つまり人体に健康的な作用を及ぼすものがたくさんいます。乳酸菌やビフィズス菌は有名ですね。いわゆる善玉菌といわれるものは主に腸内細菌として知られており、ひじょうに重要な役割を担っています。食品加工に用いられるイースト菌や納豆菌も間接的に人と共存しています。熱帯魚を飼育している人たちは、水質の維持にバクテリアの存在を無視できないことを知っています。
 人と直接関わりを持つ善玉菌は腸の中に住んでおり、その研究はかなり進んでいますが、人体のその他の場所、口や鼻孔、皮膚といったところにも有用な細菌が住んでいて、人と共存しているのではないでしょうか。ミトコンドリアのように人の細胞内のオルガネラ(細胞小器官)になってしまったものさえいますし。ヒトは多細胞生物ですが、突きつめれば単細胞生物の集合体です。個々の細胞は細菌類とまったく異質のものではありません。我々は同じDNAを有する細胞の集合体として多細胞生物たるヒトを定義していますが、ミトコンドリアは独自のDNAを有していますし、ビフィズス菌だって彼自身のDNAを有していますが、人体内に必ず存在するレギュラーメンバーです。
 健全なヒトというものを考える時、ヒト遺伝子を持った細胞のみを着目したのでは不完全なんですね。すごめな科学技術で人間のコピーをするなら、人体内の同居人の存在も見逃さないようにしましょう。
 細菌類が悪玉ばかりではないと知りつつも潔癖症の日本人は毎日入浴して体に磨きをかけ、歯垢を分解するほどの強力な歯磨き薬剤で口内を綺麗にします。除菌効果の高い石鹸で子供たちの柔らかい手を洗います。もしかするとこれらの行為は、口内や喉、皮膚に住んでいる天然の除菌効果、すなわち有用なバクテリアをせっせと排除する行為なのかも知れません。人体のあらゆるところにあたりまえのように細菌たちは住んでいますから、その方たちの研究をもっと進め、どなたが人間にとって古来からの友人なのかを把握する必要があるのではないでしょうか。
 科学の進歩は、生活環境を衛生的なものに変えて行きましたが、それに比例するように食品アレルギーや花粉アレルギーが増えて行ったのも事実です。ヒトにとって重要な栄養源である肉や大豆、野菜や果物に拒絶反応を発症するなんて、健康的とは言えません。古き善き隣人である細菌たちをバイ菌などと呼んで一掃してしまう前に、彼らのことをよく研究することも重要なのではないでしょうか。

社会の主力

2014/02/27


 歴史の教科書を読みますと、人の歴史は政治家や資産家といったエリートが作ってきた、その他の大衆(マス)と称される人たちは、社会における量的人員すなわち単なる頭数であるというふうに表現されています。これは筆者がそう思うだけではなく、事実そうなっています。偉大な指導者が民衆を導き、単なる頭数である民衆はそれに従うしか能がなかったと。
 古くは国王は神のように崇められ、民衆とは異なる存在、つまり同じ人間ではないとされて来ました。民衆の下にさらに人に非ず者や、奴隷といった家畜同然の存在まで定義されたり、かつまた宗教上の道理によって邪悪な者と定義されて処刑される者もありました。
 エリートは偉大であり、その行ないを妨げる者は罪深き者、思慮のない者、人ならざる者とされ、世の中はエリートがその裁量によって築いてきたのだそうです。しかし難儀なことに、エリートたちはたいへん欲深く、自分がナンバーワンであることを望み、すきあらば隣国の財産をかすめ取ろうとしたり、討ち滅ぼしてしまおうとしたりして来ました。人の歴史は戦乱の歴史とさえ言われます。
 その様子を達観する点の声に依りますれば、この乱世の様子を「人間とは愚かな者」ということになるそうです。人は愚かで欲深く、人の世は争いが絶えず、今や地球を一瞬にして灰塵に帰すほどの火器を手に入れてしまった。核保有国の将軍の狂気によって、人類はいつ滅んでもおかしくないそうです。僕たち私たちが、未来を信じて努力したところで、国家権力を一手に握ったアホなおっさんが巡航ミサイルのボタンをポチッと押しやがったら、人はすべて等しく一掃されてしまうのだそうです。……そうなのでしょうか。そうなのでしょうけれど、なかなかそうなりませんし、権力者は壮絶な火器を建造する一方で、未来に有益な創造にも前向きです。……ギャグですか。

 歴史の教科書に書かれてあるように、王さんや殿さんがすんげぇお城や宮殿を創ったなんて、魔法使いじゃあるまいしそんなの信じられるわけありません。驚嘆すべきは、某カリスマ性の高いおっさんが「難攻不落の城を築くがよろしかろぅ」なんてご無体なことをのたまったのを受けて、それを実際にやり遂げちまった技術力であり労働力の素晴らしさです。王さんや殿さんの夢想を、自分たちの夢としてやり遂げた民衆のパワーこそが尊ばれるべきものではないでしょうか。構想よりも、城を現実のものに仕上げてしまう技能の方にこそ、筆者は畏怖を感じます。
 高校だか中学だかの歴史の試験で、大坂城を造ったのはだれ、という問題で豊臣秀吉と書いてマルをもらった覚えがありますが、そんなわけないってことくらい当時の筆者にも解っていました。正しくは太閤さんの命によって民衆が建てた、ですよね。じつはそれもかなり適当な答えでして、現存するお掘りや石垣の多くは徳川幕府の仕業だそうです。そんな権力者の体裁はさておき、名もなき技術屋が設計し、林業や採掘の達人が建材を調達し、大勢の民衆が力を合わせて建材を運び、土木工事に参加したことは事実です。パソコンも重機もない時代に、あれだけのものを設計し、大勢の人が力を合わせて実際に創っちまった事実には、ただただ驚かされるばかりです。
 そして日本国内だけでも、城といわれる建造物はたくさん残っています。インターネットもない時代にその技術が全国に伝授された情報網を考えると気が遠くなります。江戸時代にはインターネットはないけれど、魔法はあったのでしょう、きっと。
 太閤さんは、築城を指示したということで歴史に名を残し、歴史とはそうした上辺だけを記述するエリート主義の記録ではあります。
 話かわって現在、といっても筆者がまだチビッコだった頃のことですが、アメリカの航空宇宙局の宇宙船が月まで人を運びました。パソコンもセラミックもない時代にですよ。ICもCPUもなくてコンピューターらしきものは真空管で稼働してたんですよ。この、イカダで太平洋を渡るより無茶なことをやり遂げたNASAは多いに評判が上がり、宇宙飛行士は英雄として街頭パレードをしました。命知らずの試みに挑んだアームストロング船長ほか2名の才能はすごいけれど、彼らを月まで送り届けるという無茶をやりとげた数多くの技術者、そして真空管で地上管制を行ない、月面軟着陸から太平洋への帰還までを見守ったオペレーターたちの手腕の方がすごいと、筆者は思いました。人類初の宇宙飛行を行なったソビエト(ロシア)のガガリーン大佐の勇気と知力体力もすごいし英雄に値するのでしょうが、あの人は宇宙船につかまってて「地球は青いぜ」って言っただけじゃん、と筆者は思いました。未知の宇宙空間に乗物を送り届けて帰還させるなんて、どんなすごい技術やねん、と多くの名もない技術者にエールを送りたかったです。

 人は、かようにヒーローという上辺だけを称賛する傾向にありますが、誰がなんと言うと、城もアポロも数多くの人間が力を合わせて実現させた、人類の英知です。
 たとえ歴史の教科書がエリートすなわち権力者や資産家を礼賛しようとも、高校生だか中学生だかだった筆者が、自分可愛さに大坂城の築城者を太閤さんであると、ウソと判っていて書いたとしても、人類の偉大な遺産はことごとく民衆パワーによって実現されたものなのです。
 スポーツカーはしばしばエンジン性能が注目されますが、実際にはそのパワーをタイヤに伝える伝達系がしっかりしておらねばならず、スポーツカーを俊足に導いているのは手のひらほどの面積で地面と設置しているタイヤの粘着力です。エンジンも伝達システムも、そのタイヤの小さな面にすべてを注いでいるのです。ウソだと思うなら、タイヤを外してアクセルペダルを踏んでみてください。エンジンは勢い良くうなり、タイヤハウスの中でホイールが虚しく回るだけという惨めな絵柄が展開します。エンジンは車の心臓でしょうが、足たるタイヤがなければやかましいだけの箱です。

 筆者の周りの人たちと、人類の明日について会話すると、なかなか悲観的なことを言う方が少なくありません。人間の欲には限りがないから、技術は進歩しても欲望という点では人間は愚かだから、いつかは自分で滅亡を招くにちがいない。核兵器が実在する以上、それは明日かも知れない。
 そうでしょうか。そうした悲観的な未来の到来の可能性は小さくありません。でも、明るい未来の可能性も同様にあるはずです。未来のことは解りませんが、過去から現代に至る歴史を見ましても、そこに希望が見いだせます。専制君主と差別の社会から、民衆の地位が少しずつ向上し、民主主義の概念が生まれ、今では個人と世界がインターネットでつながるまでになりました。
 人類の歴史は戦乱の歴史とは、悲観的な側面だけを見た評価に過ぎません。人類が欲深く愚かで、絶えず争っていたのだとしたら、建造物や芸術作品はいったいどうして残っているのでしょう。どうしてそれらは造られ、技術は受け継がれたのでしょう。……受け継がれた技術が発展し続けるのはなぜでしょう。
 人類のすべての建造物は、直接あるいは間接的に戦争のために造られたものなのでしょうか。科学技術が進歩したのは戦争で相手国に勝つための競争のたまものなのでしょうか。船や飛行機や車は、兵器として流用されていますが、最初からその目的で発明されたのでしょうか。物をより多くより遠くへより速く届けたいという思いには、それによって相手国を責め滅ぼしたいという意図があったのでしょうか。

 人間は欲深く愚かだというのも、人のひとつの側面に過ぎません。エリートがみんな利己的な欲求に溺れているわけではありません。多くの人々を救いたい、病苦を退け豊かな暮らしを実現したい、そうした高邁な理想の追求が度を越えて戦争という過激な破壊行為に傾倒してしまい、民衆もそれに同調してしまったのではないでしょうか。
 世の中には確かに突出した才能を発揮して、思想や技術の改革に貢献する人がいます。優れたカリスマ性で民衆を統合し得る人もいます。しかしながら、人間社会が正常に機能する背景には、民衆という大きな流れの中に内在する思慮と良識がなくてはならないのです。太閤さんが難攻不落の城を造ると豪語しても、民衆がボケラーッとしていてはいつまで経っても上町台地は退屈な野っ原のままだったでしょう。そこにお城が屹立し、城下町が栄えた背景には、この土地を護り豊かな暮らしを守るという民衆の思慮と良識があったはずです。
 今の日本ではお馴染みの、スーパーマーケットや鉄道の自動改札、それは人件費を節約して物資や運賃を安く提供しようという発想で生まれたシステムです。そうしたセルフサービスがおおむね正常に機能しているのも、民衆の常識の程度が高いからでしょう。悲観論者が言うように、人がみんな欲深く愚かだったら、スーパーでの万引きは当たり前のものとなり、改札はことごとく強行突破され、企業は採算が合わなくなるでしょう。優れた才能の持ち主が画期的なアイディアを思いついても、民衆に思慮がなければそれは機能しないのです。
 東京に比べると関西は、紳士的であることよりもおおらかさを好む傾向があり、ルールなんか破ってなんぼやんけ、なんて名言があるくらいですが、それでもスーパーマーケットも鉄道も正常に機能していますし、時代の移り変わりと共に街中からゴミが減り、公共意識も高くなりました。これは権力者がその力で民衆を導いたせいではないでしょう。
 人は見返りがなければ行動しないとか、自分の得にならない人助けはしない、ということもないです。困っている人を助けたい、無償でも人の喜ぶことをしたい、そうした行動は日夜町中に満ちあふれています。その思いの1つ1つが大きな流れとなって人間社会を支えているのです。

 ということで、本項では社会の主力という話しをしているのですが、それが何なのかは、もうお判りですよね。歴史の教科書にどう書かれていようとも、それは過去から現代そして未来へと変わりはしないのです。

正常と異常

2014/03/15


 先日、知人と人の精神について話しをしました。今の狂った世の中で、人はどこまで正常な精神を維持できるのか、なんて話題をいささか冗談めいた感じで話し合いました。そもそも精神状態の正常あるいは異常ってなんだろう、こんな不条理な人間社会にいて正常な精神を保っている方がむしろ異常なんじゃないのか、ってことは精神に異状を来しているとされる人がじつは正常で、正常だと信じられている人がそうだとは限らないんじゃないだろうか。会話はとめどない議論になって行きました。
 ある記事で読んだのですが、人間には動物と同じような欲望が本来備わっていて、弱者を見れば攻撃してやりたい、異性を見れば性衝動にかられる、自分の持っていないものを見れば欲しくなって奪いたくなる、そうした思いを抱くのは異常ではないのだそうです。しかし、欲望に従って行動すれば社会生活の秩序が乱れるので、理性という特別な観念でそれを自制し続けることになり、人は生きている限り欲望の抑圧に耐え続けていなければならないというのです。いかにも判りやすく単純な説明ですが、この理屈で行くと、欲望に忠実なことは本能的に当然であって異常ではない、それを抑圧つしていることの方がむしろ特異なことで、人は社会生活においてそれに耐え続けるという不自然な状況に置かれているということになります。そりゃストレスも溜まるってもんですよ。でも、人には他人に優れていると思われたい、尊敬されたい、人の役に立ちたい、人を助けると嬉しい、みんなで協力して物事を達成すると充実感を感じる、そうした欲望も持っています。そのために欲しいものを我慢することは人としての分別であり、欲望の抑圧ということとは少しちがう気がします。欲しいからといって物を盗んで、他人から見下されても平気ということの方が異常です。
 純粋に生物的な物欲は、人が先天的に持っているもので、他人から良く思われたいという欲求は人間生活の中で後天的に生じてくるものかもしれません。そうだとしても先天的な欲求に忠実であるために後天的な欲求を無視することが異常とは限らないというのは、正しくないでしょう。
 小さな子供でも、褒められたら嬉しいという満足感を覚え、親の手伝いをしたり、自分が食べるのを我慢して年下の子に与えたりします。食べるのを我慢するストレスよりも、年下の子が喜ぶことや、その行為を親から褒められることの満足感の方が大きいはずです。
 じゃあ、物を欲しがって駄々をこねたり、手伝いを強いられて不機嫌になるのはなぜか、あんて揚げ足をとってはいけませんよ。後天的な欲求を覚えたら、先天的な欲求を忘れてしまうというわけではないのですから。
 人や動物が群れや社会性を持つことは、同属が集合することの優位性ということが基になっていると思われます。1匹で暮らすよりも、集団で暮らす方が生存率が高くなるのです。高度な特殊化が進んだ生き物の多くが、同種間の摩擦を避けて単独生活をしていますが、1匹でも餌の採取や自衛に不利がなければ、仲間同士で餌の奪い合い(あるいは分配)をするよりも効率的に生きて行けます。しかるに我々人類は社会生活に適応した生き物です。単独で自然界に放り込まれた場合の方が、大きなストレスを受けることになり、消耗して短命を終えることでしょう。それ以前に餌の採集や自衛にことごとく失敗して死んでしまうかもしれません。とくに幼児期の人間は自然界での自活は困難ですし、赤ん坊の場合はもはや育児が不可欠です。
 社会生活の基本は、群れることで得られる安心感です。協力して餌集めや育児をすることが、個体に安らぎを与え、生きることのストレスを軽減してくれます。しかし社会が高度になり分業が進むと、序列や不平等が生じ、集団の中での摩擦が生じます。人間社会ではそれがどんどん膨れ上がり、集団の中で生存競争が生じてしまうありさまです。

 冒頭で述べた、今の狂った世の中で、人は正常な精神を維持できるのかという話しは、本来、個体が協力し合って安心を得ることが社会性の基本であるのに、人間社会には集団内に競争が生じているということを狂気としてとらえています。群れることで安心できるはずが、社会に属することで大きなストレスを受ける事態が発生し、憎しみや他人の不幸を喜ぶ衝動が横行しています。悲観的になったり、引きこもりや自殺という選択をしてしまう人も出現します。人にとってマイナスの衝動が横行するのは、人間個人の異常性よりも社会性であることが大きいと思われます。
 読者は、健全で正常な精神を維持できていますか?
 あるアスペルガー症候群に詳しい方の話しによると、知的障害を伴わなずにコミュニケーション能力に欠陥があるような人は少なくなく、程度の差をつきつめて行くと、どこまでが正常でどこからが異常という線引きが難しくなるのだそうです。情緒が不安定であったり、物の考え方がひじょうに個性的であっても、通常のコミュニケーションにさほど支障がなければ、精神異常と定義する必要もないし治療も必要ないけれど、物事の判断はおおむね正常にできても、過度に悲観的になったり、人との関わりを避けてしまい集団生活に支障がでるような場合には、カウンセリングや治療が必要になってくる。つまり異常の程度がひじょうに小さければ正常と定義して支障がない。こう考えると完全に正常な人はどれくらいいるのか、果たして存在するのか、ってことになるそうです。
 人の精神の異常性あるいは正常性は、精神医学の専門家の判断とはべつに、社会通念にも左右されることが多いように思えます。天才と気狂いは紙一重といった(今では死語かな)ことを、むかしはよく耳にしましたが、常人ではついて行けないような考え方をし、その行ないが奇行に見えるようなことが、天才と称される人にはありがちなのだそうです。あるいはマッドサイエンティストと言われる科学者のように、独自の研究のために人権や人命を軽んじ、破壊的行為に及ぶ人も狂人と呼ばれます。
 破壊的行為に及ばなくても、猟奇的な芸術に執着したり、一般的に忌避される物事を嗜好したりする場合も正常を疑われる場合があります。女性の下着を集める男は変態コレクターですが、人気の婦人用下着をデザインする男性が天才デザイナーと言われたりします。集めると変態ですが作ると天才です。物に対する執着や衝動は変態も天才も差異がないかもしれませんけどね。
 映画や小説におけるエログロ要素は、筆者のひじょうに好むところでありますが、そうした内容の作品を数多く手がけておられる作家や映画監督は、名声と天才の称号を欲しいままにしていますが、それらを鑑賞して喜んでいる筆者は、残念ながら変態です。性的欲求の充足のためにAV作品をせっせとネットで検索して、それを紹介し合っている人たちに変態と呼ばれています。いい年をしてアニメを見ている筆者はオタクですが、それを創る大人たちはアーティストです。
 もっと残念なことに、筆者は変態とかオタクと呼ばれることに不快感を抱いておりません。漫然と性行為を繰り返すAV作品を見て夜のおかずにしている人たちよりも、変態やオタクの方が楽しいし夢がありますから。ああ、AV作品にも芸術性の高いものがありますよ。創る人というのはやっぱ偉大です。
 筆者は、学生の頃から宇宙や生き物に高い興味を持っており、宇宙の果てや起源に関する書物を読んでいました。するとよく母にたしなめられたものです。そんなことを考えていると気が変になるというのです。天才と気狂いは紙一重という言葉も、よく母の口に登りました。宇宙論や理論物理学の話題であれこれ想像を巡らせることの楽しさを母に解ってもらえないのは残念でしたが、母が心配する気持ちも理解できたので、あまり反論はしませんでした。
 虫や爬虫類を飼育することも、やはり変わってるとか変態だとか言われる対象になります。なんで筆者の好きなことは変に思われることばかりなのでしょう。変態呼ばわりならまだしも、頭がおかしいとか、異常だとか言われたこともあります。そしてそれを否定できないところがまた悲しいというか……。
 人の精神の異常性あるいは正常性は、精神医学の専門家の判断とはべつに、社会通念にも左右されることが多いです。日本という社会で、虫やヘビを集めると変態だと言われ、正気さえ疑われます。でも、熱帯地方の虫やヘビを食する文化のあるところでは、筆者のような者に対する風当たりはもっと緩やかでしょう。子供の頃は虫を集めてもアニメを見ても、常識はずれだとは言われませんでしたが、大人になると変態やオタクのレッテルを突きつけられます。いや、いいんですよそれで。そういう風潮の社会に筆者がいるだけのことですから。言いたいのは、条件が変われば正常か異常かも変わるし、社会的立場が変われば変態が天才に転化するものだってことなんです。面白いでしょ?
 筆者は、虫や爬虫類を嗜好することも、アニメ好きなことも、ホラーやエログロ作品が大好物なことも家族や勤め先で内緒にしてはいません。それでも阻害されたり、友だちが少なかったりってことはないです。若い人たちをメイドカフェに連れて行ったりすることもあります。要はやり方ってことなんですよ。
 筆者は、世間一般ずれした嗜好や考え方という点で、変わってるとか異常だとか言われることもありますし、自分でそれを否定もできませんが、周囲の人間関係というものをも観察の対象にしてしまい、興味を持って分析しそれに対処すれば、カウンセリングを受けることも精神病院送りにされることもなく、一般人として暮らせます。
 よくこんなことを耳にします。狂った世の中に住んでいたら、おかしくならない方がおかしい。なるほど。おかしくなっていないとされる大勢の人がじつはおかしいのかもです。みんなでおかしくなればそれが正常ってわけです。
 古典映画の名作「まぼろしの市街戦(1966年フランス)」はこんなお話しです。戦時下のある町に爆弾が仕掛けられ、市民がみんな退避して無人になったところに、精神病院の患者たちが流出し、思い思いの身なりをして成りきりごっこを楽しんでいるんですね。そこに敵対する小隊が進軍してきて、患者たちの目の前で銃撃戦を繰り広げ、あっと言う間に双方死滅してしまうのです。患者たちは言います。まるで気狂いだ。こんな異常で恐ろしい世界はごめんだってことで、みんな精神病院に舞い戻ります。爆弾事件も解決して町に人々が戻り、ふだんの暮らしが再開されるのですが、爆弾処理に独りで奮戦していた若い兵士は、その一部始終を目にしました。彼は軍服を脱ぎ捨て全裸になり、相棒の伝書鳩のかごだけをぶら下げて精神病院の門をたたくのでした。

社会の正常と異常

2014/03/18


 人の精神の正常性あるいは異常性という問題はなかなか難しいものです。脳に障害がなくても、異常な体験によって心的外傷を負うこともあります。顕著な症状がなくても、変なクセや一般の人が忌避するものを嗜好するなど、考え方や感じ方が人と変わっていたりズレていたりする場合もあります。排他的な思想や人種や人の見かけに対する偏見も、正しいものの見方とはされません。どこまでが個性として妥協できるもので、どの程度から異常と判断すべきものなのか、そんな判断基準は判然としていません。周囲の人との協調性が著しく欠落していたり、道義に反する偏見を持つことは、正常とは言いがたいのでしょうが、それも環境によって変わります。日本の社会では極めて協調性のある人が、たとえば虫を食する文化圏ではどれだけ協調性を発揮できるか判りませんし、訓練によってその文化に順応できるかどうかも未知数でしょう。
 腐敗混濁した社会に住んでいると、みんな病んでしまうなどとまことしやか言う人もいますが、それもあながち間違いだとは言えません。国を挙げて戦争しているような社会では、他国を憎しみ他民族や異教徒の殺戮に邁進することは、国内において常識的な行為とされ、殺人の件数や効果的な殺傷行為が高く評価されるでしょう。現代日本に住む私たちは、競争社会と言われる環境に生きており、高等教育の片寄った学術知識をどれだけ習得しているかで人の優劣が決められ、能力を評価された者が勝ち組として豊かな暮らしができるという格差社会が当たり前であるとしています。高等教育で学ぶ、微分積分や元素記号や化学式、物理学や生物学の習得は、高度な能力を必要とするかも知れませんが、クイズ王になれるほどの雑学の習得、バイクの組み立てや修理の技能、画力といったものも同様に高度な能力のはずなのですが、現代社会ではお上が定義した高等教育のカリキュラム以外は認められません。ヤンキーの兄ちゃんがどんなに素晴らしくバイクを組み立てても、学校の勉強をサボっていてはただの不良ですし、教科書の隅に写真と見まがうほどの絵を描いても、教科書の中身を暗記していなければ、素晴らしい画力は無駄なこと無益なこととして先生から退けられます。バイクの組み立てや画力が社会生活に大いに貢献でき、学校の授業で学んだ知識が実社会でほとんど役に立たないとしてもです。
 お上が用意した片寄った学術知識の習得によって、人を蹴落として富を独占し、勝ち組負け組といった格差を築くこと、社会の中に生存競争を持ち込むこと、支配的階級と従属する階級を作ること、それが果たして正常なのでしょうか。競争社会は現代社会において当然の理のように受け入れられていますが、それは勝ち組の独占状態を正当化するための狂気染みた盲信ではないのでしょうか。争いや殺し合いは誤りであるとしながらも、人の野望は果てしないとし、抑止力としての軍備を国家レベルで整えることが、果たして正常なのでしょうか。
 高度な情報ネットワークが個人と世界をつなぐような時代でも、国を統治し人を統べる者が必要で、統治者と国家組織を防衛するために軍備を軍備を整えなければならない、外国を敵と見なさなければならない、こんな殺伐とした方法しか人間社会を運営する方法はないのでしょうか。
 たとえば、すべての国々が相互に助け合って物資を平等に分け合うようなシステムを構築しようとした場合、必ず裏切り者が現れて世界を支配しようとする、それは本当でしょうか。世の中には様々な考え方の人がいて、甘い平和を認めず、自由競争こそが人間にとって相応しいと考える人も少なくないでしょう。筆者自身、武器のまったくない世界というのは想像しにくいです。しかしながら、誰かが欲張って支配欲や独占欲を発揮するのを見張るために、大そうな機動兵器を大量に生産し、巡行ミサイルを向け合い、戦争の演習を欠かさない、それほどまでに不信感むき出しにしなければ平和は守れないものでしょうか。
 たとえば、より多くの人たちがネットワークを通じて話し合いをし、戦争の準備をみんなでやめて何でも話し合いで解決しましょうということを決めたとしますね。そうした状況で、国民たちは国家一丸となって他国を裏切り、絶対にばれないように軍備を整え密かに演習を行ない、平和に乗じて他国に進軍するなんてことを企てるでしょうか。誰かがそういうことを画策したとして、すべての国民がそれに同調するでしょうか。
 理想論の話しはもうよしましょう。過去の多くの戦争が高邁な理想の下に勃発しました。理想を実現し恒久平和の世の中を実現するには、その思想を邪魔する考え方、異教徒や他民族を殲滅しなければならないという民意誘導が生じるのが世の常でした、これまでは。
 国家レベルの話しは、当面は権力主義者に委ねるとして、私たちは一般市民としてもう少し身近な、小さな話しをしましょう。たとえば町内会くらいのコミュニケーションになると、参加できる敷居はひじょうに低くなります。町内会の定例会では、町会費をどのように使うかが、子供会や老人会、防犯委員といったそれぞれの立場で話し合われます。ご近所同士の話し合いなのでかなりざっくばらんな会話が成されます。そうした中で意見対立やそれに伴う派閥化が生じるのは、やはり利権や欲の衝突が原因ですね。老人会の連中は暇だから役所にうまく取り入って市からの助成金を独占しようとしているとか、子供のいない所帯にとって子供会に多くの予算が割かれるのは面白くないとか、誰かさんは仕事にかまけて定例会にも一斉清掃にも出てこないとか。そういう争いごとを見ると、人はやはり自分だけが可愛くて他人が憎いものなのだろうかと憂鬱になってしまいますが、その反面で、町の美化や安全のために建設的な意見が交わされたり、町内会の催し物が滞りなく実施されたりするのを見ると、人の情というものを感じます。
 筆者は、阪神淡路大震災のあと、被害に遇われた人たちの思いを直接聞いたことがあります。会社の労働組合が運営する文芸部として被災地を取材したのですが、震災直後は皆さん考えがまとまらないようでしたが、時が経つにつれ、家や財産が失われても、そこに人がいる限りなんとかなる、必ず助け合いの話が広がる、そういう感想を聞かせてくれるようになりました。日頃は無愛想で怖いおっさんが、瓦礫の下から何人も怪我人を引きずり出していたとか、金銭に細かくてケチだと思われていたおばさんが、焚き出しをして無償でみそ汁を配っていたとか、そんなエピソードがたくさん出てきました。1日も早く電車を開通させるために命懸けで復旧作業に邁進する作業員たちの話しもなかなか壮絶でした。
 人は、欲や野望だけで行動するとは限りません。譲り合いや助け合いが尊ばれる状況では、自分の利益を犠牲にしてでも人を助け、公共性の回復に助力するものです。現代社会が私利私欲で渦巻いているのだとしたら、それは社会が正常性を欠き、人から人間らしい思いを奪っているからではないでしょうか。
 筆者が勤めている会社では、職場のことを考え、労働運動を支持する者は嫌われ危険視され、私欲のために他人を蹴落とすような人間ばかりが評価されます。上司として部下を指導する者はことごとく傲慢で、ウソと恫喝が横行し、不正やパワハラが蔓延しています。私欲のために会社の不当労働行為に加担することが当たり前で、不正に加担しない者は周りから敬遠されます。個人レベルで会話すると多くの社員が人間性あふれる話題を口にしますが、それを公言することを恐れます。巨悪に対する恐怖心やあきらめから、無関心が横行しています。
 上司に信頼できる人間は皆無です。絶対に弱みは見せられません。悩み事の相談など上司にしたら最後です。その途端に筆者の辞職が確定し、上司たちは祝杯を上げることでしょう。
 筆者は、取り立てて正義漢でもありませんし、小さな不正も許せないような性格でもありません。ずるがしこい人間も嫌いではありません。多少のワルの方が話して面白いし、経験豊富な分だけ情が厚い場合も多いです。筆者は、自分を偽ってイエスマンを演じて出世することに興味がなく、巨悪に対して黙らないことを楽しいと感じる、ごく当たり前の態度を貫いているだけです。皆さんだって、正義のヒーローが悪代官をやっけるドラマを見て、悪代官に同情してヒーローを憎んだりしないでしょ? それとも、それはお話しであって現実はちがいますか? 筆者がよく受けたアドバイスのように、もっと大人になれ、という方に賛成ですか?
 筆者にも愛社精神はありますよ。むかしは自分が勤める会社のテレビCMや、ニュースで話題になるのを喜んで見ていました。鉄道の仕組みやダイヤを、上手くできていると感心していました。でも、むかしはです。最近は、デタラメなルールやダイヤにあきれるばかり、旅客を気の毒に思うばかりです。世間を偽ってダミー会社を一時的に作り、そこで雇用した契約社員を労働条件承継法を悪用して低賃金重労働の名ばかり社員にしてしまい、その後の新卒社員も同様に冷遇するという薄汚い手口に憤りを覚えるばかりです。現在は、自分の勤める会社を世間的にも恥ずかしく、残念に思っています。こうした考えに対し、上司たちは口をそろえて気に入らないなら辞めたらいいと言います。そんなこと言われるとますます辞められません。奴らにとってのやっかい者のじじぃという立ち位置にはそれなりに旨みがあります。
 すみません、筆者の勤め人としての愚痴が長引いてしまいました。会社の悪口よりも、こうした企業の体質が現代社会では当たり前のように横行しているのではないか、ということを懸念するわけです。そこで怠惰と無関心に溺れる大多数の社員を見ていると、病んだ社会にいると人間まで病んでしまうなんて風評にうなずきたくなります。
 社会の腐敗を、政治家や資本家のせいにする声をよく耳にします。果してそうなのでしょうか。読者のみなさんは、いかがですか? 今の世の中は良くないと思ってますか? それを政治家や資本家のせいにして、自分は無力だからと無関心を決め込んでいませんか? 会社にお勤めの方なら、自分が声を挙げたって何も変わらない、必死に労働運動している奴はバカだ、なんて思っていませんか? 大勢の職員の無関心が会社を悪くしているのではないですか。社員が全員でノーと言っても、会社はそれに動じないと思いますか? 全員の首を切って悪事を続けると思いますか? 社員もいないのに。
 日本の憲法は正常に機能すればひじょうに素晴らしい法律です。関係法令や各都市の条例も民主的で市民を守る内容のものばかりです。資本や企業を守るために市民を犠牲にすべしというルールはどこにもありません。法が整い、民主主義と自由平等が堂々と唄われる環境が汚されているとしたら、それは大勢の市民の、夢や希望の欠如、自分を無力だとあきらめる怠惰や無関心のせいです。人は社会によって毒されますが、社会を毒しているのもまた人なのです。

政治と文化

2014/03/29


 人類の歴史は戦争の歴史であった、そんなことをしばしば耳にします。民衆は常に良きリーダーを求め、その統率力の下に戦乱に赴き、領土や資源を取り合ってきた。それだけではなく勝者は敗者を大量に虐殺し、その過程で人を人とも思わぬ残虐な行為が横行した。それが人類の歴史なのだそうです。人と人とは、国や思想信条がちがえば解り合うことはなく、争いはこれからもずっと続くのでしょうか。
 歴史ものの書物や映画等をみてみましても、大量殺人の達人が勇者として描かれ、その武勇伝が美化されています。これは文明が進み、民主的な法が整備されるようになってからも変わらず、国同士が戦争状態に突入すると、兵士同士の殺し合いが奨励されます。平時の1つの国の中では殺人はひじょうに重い罪に問われますが、戦争状態では相手国の人間を大量に殺しても罪にならないどころか英雄扱いされるのです。
 現在でも世界のどこかで戦争が続いています。戦争はなくすわけにはゆかないものなのでしょうか。科学技術が進歩し、すべての人種が同じ種類の人間であることが一般人にも理解されるようになり、強力な電脳ネットワークが個人と世界をつなぐような、そんな時代になっても、人は国家間でにらみ合い、強力な火器を製造して殺戮の準備を進めています。
 宗教団体や政治結社が武装蜂起すれば、その行為は厳しく処罰されます。環境保護団体が汚染をまき散らす企業に対して脅迫行為を行なっただけでも、テロリストと定義され逮捕され罰せられます。では、国が国際社会に対して武装蜂起することはどうして処罰の対象にならないのでしょう。平和社会は人類共通の願いのはずです。それを脅かすような軍備を整えることを、国際法はどうして裁かないのでしょう。国の統治者という特権階級には戦争というゲームを楽しむ権利が認められているのでしょうか。
 ある思想団体が、外国でテロ事件を起こして被害者が出たような場合、被害を受けた国が、テロ組織の母国に対して報復攻撃を行なうなんてドラマを観たことがありますが、それって犯罪者を罰することになっていないのではないでしょうか。テロ組織の母国が、組織を利用して先制攻撃を仕掛けて宣戦布告したわけではないでしょう。犯罪を起こした者たちを検挙して罰すればいいものを、その出身国に攻撃をしかけ、死傷者を増大させるというのは、テロ事件を口実に戦争を始めているとしか思えません。
 たとえば、同じ日本国内で、他県の人間によって殺人事件が起きたとして、県は殺人者の出身県に対して報復攻撃を行なってもよいのでしょうか。同じ地球に住む同じ種類の人間同士なのに、テロ事件等をきっかけに戦争を始めても良いというのは変じゃないですか。

 以上は、極めて単純に本質論を説いたまでで、こんな簡単な理屈で戦争が収拾できるものではないことは解っています。筆者は現状の政治に真っ向から異を唱える理想主義者ではありません。世界にはひじょうに多くの思想や考え方が渦巻いていて、単純明快な1つの理想論で収拾できるものではありません。
 筆者が異を唱えるとしたら、それはむしろ人々の悲観やあきらめ、無関心に対してです。政治を預からぬ身の我々一般市民は、政治家よりももっと単純に物事を理解し、人間らしい方法で物事の本質に迫ることができます。そうした素晴らしい可能性と、同じ立場の大勢の仲間を持っているにも関わらず、自分たちの力を信じようとせず、希望を棄ててしまうことを、たいへん残念に思います。
 と言いつつ、人々が政情に対して無関心や無気力になってしまう気持ちも、これまたよく解るんですよね、悲しいことに。新聞やテレビの報道では、政治は政治家の持ち物であって、他の人間は意見することはできないという前提で政治について語りますよね。選挙で選ばれた官僚という特権階級の偉い人たちが政治をするのであって、彼らが権力を巡って争ったり駆け引きをしたり、金権政治のために血税が消耗されたりするのも当然みたいに言われますよね。ある政党は選挙を踏まえて当面の増税には反対するが、敵対する政党は高齢者の支持を期待して福祉増強をPRしているとか、同じ政党内でもどの会派が力を持っているとか、マスコミによると権力者同士がパワーゲームに興じるのは当然なんだということになっています。我々一般市民は無力であると、説得されているみたいなものですし、政治とは我々の暮らしとはまったく別次元の話しになっていますよね。
 しかしながら、政治が遠い別次元の話しになってしまうことの原因もまた、市民の無関心にあります。議院選挙の投票率の低さが、我々を政治から遠ざけています。労働運動と同じで、職場の無関心が労働組合の会社との癒着を生じさせるように、政治も投票率の低さによって市民生活と民主主義からかけ離れたものになってゆきます。市民のために頑張ろうとする政治家も、低い投票率によって金権政治に飲み込まれて行くのです。

 政治家って本当に争いごとが好きですよね。そもそも政界入りあるいは入閣が権力ゲームなのですから、争うことが彼らの基本なのかもしれません。むかしの武将の国取り合戦と同じです。古来より連綿と続いた特権階級による国取り合戦を、民主主義による議会政治にまで発展させた人類の進歩は本当にすごいと思います。
 お殿様や将軍様が、西洋では王様が、世襲で政治を行なっていた世の中から、一般市民から選挙によって選ばれた人が政治に加わるという民主化が育つまで、どれだけの苦難があったことか。その事を思えば、言論の自由が保証されインターネットなんていう強大な発言力を得た我々が、自分たちの無力を嘆くばかりでは、人類のここまでの努力が無駄になってしまいます。
 戦争はなくならない。人間は欲深い生き物だから、いつかは争いによって自滅するのだ、そんな悲観論を説く人も少なくありませんし、それは真実のように聞こえます。だとしたら、現代の議会政治に至るまでの民主主義の成長は何だったのでしょう。人が欲深いだけなら、王様はどうして権力を人民に明け渡したのでしょう。王侯貴族が尽力して築いてきたものを、民主的な社会に譲渡したのは何だったのでしょう。……現代の政治において、電脳ネットワークとそれを自在に操るパソコンやスマホといった端末を一般市民の持ち物にしたのは、人々に強力な情報収集能力と情報発信能力を与えたのは、それで人民を洗脳しアイデンティティを管理し、超管理社会を実現するためだったのとはちがうでしょう。
 電脳ネットワークの一般市民への開放は、さらに高い次元の民主化への足がかりです。これによって地域格差や性差、職業差を超えた対話が可能となり、権力に依らない真の民主政治の可能性が大きく前進しました。

 権力者は争いごとが大好きです。マネーゲームやウォーゲームは、民衆の大きな犠牲を伴う非人道的な行為です。ビデオゲームとちがって実際に人の命をやりとりし、財産や建造物を破壊します。ビデオゲームの残酷描写が、猟奇犯罪の原因にもなるとか、青少年の教育によろしくないとか言われますが、権力者たちは暴力描写を含むビデオゲームを規制しながら、実際に人を大量虐殺するための火器を製造し、兵士たちに訓練し、戦争の準備を進めています。ビデオゲームの架空の戦闘は教育によろしくないけれど、実際の殺戮や破壊を想定したウォーゲームは教育的なのでしょうか。
 ……またまた政治批判的な表現になってしまいましたが、人間社会の実情とは、このように矛盾に満ちあふれ、人々を混乱させるものなのです。
 国家レベルの権力が実在して、社会に大きな格差がある限り、ウォーゲームはなくならないし、これに対するテロ行為もなくならないでしょう。かといって、世界中から兵器がなくなり平和が保証された社会というのもなかなか考えにくいものです。争いや競争を全廃するためにはすべての人々が平等で、社会的格差もなくならなければならないでしょうが、そうした平和を維持するために、人々はどれだけの自制や規制を強いられることになるのでしょう。そんな社会は窮屈すぎるといって、それに対して新たなテロが発生するかもしれません。
 様々な環境で生活している大勢の人間が、争うことなく平和に暮らすというのは、なかなか困難なものです。
 それでも、人類は平和社会を構築する努力をしてゆかねばなりませんし、環境や資源の問題を協力して解決して行く体制を築いてゆかねばなりません。大勢の人間がこの地球で生きて行くというのは、容易なことではないですね。難しすぎて考えることをあきらめたくなります。

 国家間の競争や民族闘争、宗教上の対立と、人と人とが憎み合う理由は様々ですが、その反面で人間同士は文化によって、あらゆる障壁を乗り越えます。日本の近隣諸国は前世紀の大戦時代の日本の諸行を理由に強い反日感情を抱いていると言われています。しかしながら、日本のアニメや食文化を愛し、日本びいきな外国人もたくさんいます。
 筆者の親の世代の人たちは、韓国や中国に対して差別的な言葉をよく口にしました。同様に欧米諸国については敬意を抱き、欧米の生活水準に追いつくことが理想のように言われていました。洋服や洋食、鉄道網やハイウェイ、様々な文明の利器が西洋から流入してきて日本人の暮らし向きをどんどん変えて行きました。大戦時代は宿敵だったアメリカから様々な文化を輸入し、日本は急速にアメリカナイズされてゆきました。
 急速なアメリカナイズによって経済成長を遂げた日本は、アジアの中で最も進んだ国になったと筆者や同世代の人たちは思っていました。ところが、いつの間にかアジアの様々な国に高層ビルが建ち、飛行場ができていることを知り、びっくりしました。いつの間にか、進んでいるのは日本だけでなくなり、みんな文明国になっている。民族格差がなくなり平和社会が実現するかもしれない、そう思ってワクワクしました。
 文化水準に隔たりがなくなるというのは素晴らしいことです。様々な文化を共有できますから、それで人と人とがつながることができます。日本のアニメがアジア諸国でも人気を博することの背景には、それらの国々の人たちがテレビ放送を楽しみ、DVDを再生する手段を持っているからです。日本の食文化が多くの国々に支持されるようになったのは、世界中のあらゆる国の人たちがインターネットを使いこなし、リアルな情報を入手することができることの賜物でしょう。また、日本にいちばん近い国の韓国からは、韓流ドラマやK-POPがどんどん流入して来て、それらはあっと言う間に世界を席巻してしまいました。地球の裏側の南米の人たちにも多くの熱狂的なK-POPファンがいます。インターネットで世界がつながっているからですね。そしてK-POP歌手の南米ツアーも実現しています。
 筆者の嫁さんも、早くから韓流ドラマを楽しみ、その流れで今は熱烈なK-POPのファンです。パソコンなど無縁な彼女でしたが、今ではネットアクセスできる端末は彼女の命綱です。幸いにも日本はK-POP歌手の大きな活動の場になっており、毎月のように日本でコンサートや全国ツアーが行なわれるので、彼女は日本に居ながらにして生のK-POPアイドルに会うことができますが、少しは韓国語を覚えてそのうちソウルに遠征するという夢を持っているようです。かく言う筆者も今ではK-POPの魅力にすっかりハマッてしまい、少女時代の日本ファンクラブの会員です。韓流映画を観に映画館にも赴きます。その映画の原作が日本のコミックだと知らされ、新たな日本の漫画作品を知ることになったりとか。
 筆者の息子は、筆者同様にオタクですが、オタクの西のメッカ日本橋を、しばしば金髪碧眼の幼なじみと歩き回っています。古来より日本は黄色人種の単一民族国家でしたが、どんどん多民族化が進んでいます。
 K-POPや韓流ドラマが命の筆者の嫁さんが、韓国を敵国とし争いを望むでしょうか。金髪碧眼の親友を持つ筆者の息子が、アメリカとの戦争を望むでしょうか。そして生き物大好きな筆者にとっては、アメリカも南米も、東南アジアや中東もアフリカも、オセアニアもすべてヘビやトカゲの重要な原産国であり、いずれの国とも対立は困ります。

 世界を網羅する電脳ネットワークは、地域格差や文化の差異、言葉の壁を超えて世界を1つにしました。文化という点では国境はどんどん不明瞭なものになりつつあります。人々は様々な文化を通じて世界中の様々な国を知り、その国が好きになり、その文化を自分の生活に取り入れています。かつては民族主義や人種差別が人と人とを遠ざけ、まるでちがう種類の生き物のようだったのに、文化というものはそれを平然と超越してしまいます。これは極めて高度で進歩的な営みですね。
 それに比べると財力と権力で民衆を威嚇し、格差社会を築いて人を区別し、異国を敵と見なして人々を戦争に駆り立てる考え方の、なんとも後進的で幼稚なことか。
 筆者の周りには、文化的な生活をしている人がたくさんいます。世界の様々な国の文化に精通し、海外旅行をあれこれ経験しています。うらやましい。国際結婚をされている人もいます。マネーゲームやウォーゲームの話しにしか興味がないという人にはなかなか巡り合えません。筆者には、ほとんどの人々が高度な文化人で、競争や戦争を望んでいる人というのは極めて少人数の特殊な考え方の人たちとしか思えないのですが……。
 ……政治と文化は、平和社会という観点では対局の存在のような気がします。

人類の進歩と民主化

2014/04/05


 ヒトは類人猿と共通の祖先から分化し、独自の進化を遂げました。現生の類人猿たちは今から250万年以上むかしの新生代にひじょうに栄えた哺乳動物の末裔で、その後劇的な進化を遂げることもなく現代に至っています。筆者がしばしば使用する新生代とは、厳密には地質年代第3紀のことで、更新世以降の第4紀を含みません。"代"区分によると現在も新生代となりますが、"紀"区分では新生代は暁新世から鮮新世までを第3紀(新第3紀と古第3紀に分けられる)、更新世以降を第4紀と言います。第4紀は258万8000年前から始まり、その前期となる更新世は世界規模の氷床が発達する氷河期と氷床が後退する間氷期が繰り返される時代となり、第3紀以前の新生代とはまったく異なる気候状態となり、これまで隆盛を誇っていた進化的哺乳類は急速に衰退しました。進化的な類人猿もほとんどが姿を消し、ゴリラ、オランウータン、チンパンジーがわずかに生き長らえています。人類(ヒト科動物)すなわちアウストラロピテクス属やホモ属の仲間は、類人猿の仲間たちが死滅して行く更新世の間に類人猿の仲間から分化し発展しました。つまり進化的哺乳類の中で人類だけが更新世に進化してきたわけです。そして今から1万年以上前には、ホモ属の仲間の1つの種だけを残して他の人類は滅び去り、今から1万年前から現代にかけての完新世(沖積世)にその生き残りであるホモ・サピエンスが地球上に文明を築きました。
 類人猿の仲間は、ゾウやウマやクジラ、大型肉食獣といった数々の進化的哺乳動物と同様に第3紀に繁栄を築き、氷河期となる第4紀にはわずかな生き残りを残して死滅しましたが、唯一人類だけが第4紀になってから進化し、衰退して行く哺乳類と置き換わる形で世界中に適応放散しました。新第3紀が哺乳類の時代なら第4紀は人類の時代となりました。
 そうして最後の氷河期が終わった今から1万年前にはまだ石器人だった人類は、その後急速に文明を発達させ現代のエレクトロニクス文明に至りました。

 人類は文明時代の初期には、群れ社会をひじょうに高度で大規模なものにした都市国家というものを築くに至りましたが、その大規模な人の集合体は一部のエリートによって統治されるのが常でした。統治者は平民とはまったく異なる種類の存在、それこそ神のように崇められ絶大な権力を持っていました。
 原始時代の人々の暮らしは、小規模な集落単位の社会生活だったでしょう。それらが統合されながらどんどん大きな社会に成長して行き、やがて巨大な都市国家が誕生してのでしょう。日本でも、江戸時代までは、国内で権力者同士がせめぎ合いを繰り返していましたが、今や国は1つになり。国内での憎しみや恨みは消えました。しかし今度は諸外国との競争に乗り出すこととなり、外国相手にいくつもの大きな戦争を経験した現在、近隣諸国の遺恨をいまだに残しています。
 社会の成長と人間同士の闘争は、今や世界規模になり、人類は地球を滅ぼすに足る火器を手に入れるに至りましたが、その反面で文化交流や国際支援という協調が発達しつつあります。宇宙開発事業では、国家間の協力が不可欠であり、これまで技術革新は競争であったものが、国際協力の下で行なわれるようになってきました。
 人類の、互いに競い合う姿勢と、協力し合う姿勢の二面性はいったいどのようなものなのでしょう。
 権力や財力を欲して、人と人とが競争することは、人間が本来持っている欲望というものを考えると単純で判りやすいものですが、博愛主義や人道主義という概念がどのように生じたかを考えるのはなかなか困難です。
 人は、欲望を充足させるために他人と競争する意志を持っている反面、人を助けたい、喜びを多くの人と分かちたい、みんなが平等で自由に暮らせる社会を築きたいという博愛の心も持っています。さらには人間以外の命をも慈しむ優しい気持ちを持っています。
 地球を一瞬で滅ぼしてしまう火器を所持する反面、地球全体の生き物を慈しみ環境のことを考えるのもまた人間の特性です。人類は地球上で最も残忍でかつ最も優しい生き物です。この二面性のどちらが人間本来のものかと尋ねたら、ほとんどの人がどちらも人間の本質なのだと答えるでしょう。
 二面性を持つことが人間の本質なのだとしたら、幾多の乱世を経験してきた人類が滅びることなく今日まで生き長らえたこと、それぞれの社会が人々の協調によって絶妙に成り立っていることが不思議だと思えてしまうのです。
 人は本来優しいものなのではないか、その優しさが不正への義憤、裏切りへの恨みといったものに変じて争いが生じるのではないか、そんなふうに思うのです。他人への妬み、他民族や異教徒に対する恐れ、そうしたものも家族愛や同胞愛から生じてくる怒りの感情なのではないかと。
 犯罪は、社会の格差によって生じるとも言われますが、格差は人々の義憤や恨みを煽ります。また、古来より繰り返されてきた戦争にも大義があります。純粋な悪意によって民衆を戦争に導いた統率者はいないでしょう。
 人と人との争いは、他の生き物たちのそれと根本的にちがいます。肉食獣は悪意や恨みのために草食獣を狩るのではありませんし、縄張り争いで同属を滅ぼすこともありません。彼らの闘いは人がそう呼んでいるだけであって、食べるための狩りであり、狩場を守るための縄張りの主張です。
 同じ種類の生き物同士が憎み合い、差別し合い、殺し合うという現象は人間だけに見られる特性です。
 種の保存に反するこの特性は、他の多くの生物を巻き添えにして自らを滅ぼすまでの殺傷能力に到達しました。
 そして、こうした憎み合いの原因が、人の持つ優しさから派生し増長するものなのだとしたら、我々はいったいどうすれば良いのでしょうか。多くの悲観論者が主張するように、人類の自滅は避けようがないものなのでしょうか。

 人間は、優しいがゆえに不正や不平等に対して憤り、家族愛や同胞愛があるゆえに、他民族や異教徒を、あるいは隣人さえも退けようとします。そしてそれは大きな闘いに発展し、悲劇をもたらします。悲劇から人は教訓を得て、平和を望み、人類が協調し共存できる道を探ろうとします。愛憎という言葉があるように、愛することと憎むことは諸刃の剣なのかもしれません。
 科学技術は戦争と共に発展したという人もいます。その反面、技術は人と人とを結びつけ、個人々々に力を与えてきました。戦争の規模は世界を飲み込むほどに拡大しましたが、市民の権利の拡大、発言力の増大ということも時代と共に発展しました。国を動かす大きな権力が人民を戦争に導こうとする反面で、市民も力を蓄え、人間社会は民主化が進んで行ったのです。
 電脳ネットワークが民衆の手に渡り、人と社会がつながり、一般人でも国際的なコミュニケーションが可能になった現在、より高度な民主化が実現する可能性が生まれました。電脳ネットワークは投資家に攻撃的な投資を容易にして市場を操作してしまうような力を与えたのも事実ですが、不正を正す能力も向上させました。文化面ではより多くの芸術家や文化人に表現の場と機会を与えました。
 社会の大多数を占める一般市民といわれる階層の人々は、世の中のシステムが正常に回ることに貢献しています。一般市民が良識ある行動をするおかげで社会は滞ることなく運営されるのです。この多くの人々が私利私欲に傾倒するあまり、バラバラに身勝手なことを始めれば、社会は崩壊するしかありません。みんな正直に行儀よく暮らしているのに、政治家や資産家は好き勝手に権力争いをしているように見えます。それに対し多くの一般市民は義憤を覚えます。義憤を覚えるものの、自分が無力であることを自覚し、悲観的な考え方に陥っています。
 社会を正しく回しているのは一般市民なのに、その一人々々が自分たちの能力や可能性を信じようとしないのは悲しいことです。一般市民は、正直に行儀よく生きるだけで社会を支える力を発揮していますし、趣味や様々な文化的行動によって横のつながりを強固にし、国際社会を平和へ導いています。そのことにより多くの人々が気づけば、電脳ネットワークを介した民主化はさらに洗練され進化を遂げることでしょう。

政治の善意のシナリオ

2014/04/22


 人間社会は、古来より統治者によって国家レベルで統治されて来ました。国を統べる統治者は強大な権力と莫大な富を独占し、民衆の上に君臨してきました。多くの人々を統率するには力が要ります。それは武力であったり警察力であったり、それらを動かすための財力であったり。あるいは人民を啓発したり服従させるための報道の操作も必要でしょう。統率者の下に組織力を磐石なものにするには、国力が必要でありますが、それは人々を傷つけたり虐げたりする力と表裏一体のものです。
 国家権力は、外国の脅威からも、国政に謀叛を企む国内の不穏分子からも権力者を守らなければなりませんから、武装は必須条件になります。
 古来より人類は国家レベルで争い、そのための武力を強化するために民衆から搾取し、あるいは民衆を兵士として駆り立てて来ました。
 人類の歴史は、まさに血塗られた戦争の歴史でした……歴史の教科書ではそう言うことになっています。
 しかしながら、私たちは争いはいけないこと、人を傷つけることは許されないことと学んでまいりました。人の肉体や心あるいは財産を傷つけることは人間社会においては認められておらず、それは処罰の対象です。いかなる人間でも人を自由に傷つける権利は持ちません。そりゃそうです。思いのままに人を傷つけることが許されたら、社会なんで成り立ちません。
 では、国家権力にのみ人を傷つけることが認められているのでしょうか。人を傷つけたり蹂躙したり財産を奪ったりできることが国家権力というものなのでしょうか。

 人類の歴史は戦争の歴史ではありますが、その中でも民主化は着実に育って行きました。市民生活は時代と共に豊かになって行き、誰もが学問を会得する権利が保証され、権力者の地位を目指すことも不可能ではなくなりました。実際問題としてすべての人が平等に同じスタートラインに立ち、同じ条件で高みを目指せるわけではありませんが、少なくとも憲法や基本概念は人々の平等と同権を認めています。
 1960年生まれの筆者は、ひじょうに貧しい家庭で育ちました。福井県から無一文で大阪に出てきた両親は紳士服の仕事を見つけ、労働力だけで財を増やし、最初は自分の家もなかったのに、筆者が小学生に上がり、野っ原で虫を追いかけていた頃には、庭付きの家に住み、テレビや電話やオーディオ機器、自家用車などがそろっていました。その頃はまだ夢の超特急ひかり号やジェット旅客機に乗ることなど夢のまた夢で、海外旅行などSFみたいなものでしたが、筆者が結婚して子供ができる頃には、それらも普通の市民生活になっていました。
 家があって自家用車があって海外旅行もできる、自分の家もなかった両親の許に生まれた筆者が今では大富豪の暮らしを送っています。そりゃ、大富豪の持ち物や旅行は我々とは質がちがうのでしょうが、とりあえず日常的に乗り回せる自家用車があり、草木の茂る庭付きの家があり、海外旅行も行けるのですから、形だけなら大富豪に負けているのは、自家用クルーザーや自家用ジェットくらいのものでしょう。
 そして今ではパソコンやスマホが一般家庭に普及していますが、時代の最先端技術が市民の持ち物になっているわけです。筆者のスマホやパソコンと、大富豪の持ち物のちがいは、ボディが純金ダイヤモンド入りでできているか否かのちがいていどで、スペックに大差はないでしょう。大富豪のスマホとて、1000インチディスプレーを空中展開したり、USJのアトラクションのようなバーチャルリアリティが体験できるわけでありません。電脳生活においては、人々の格差は僅少です。

 筆者は高度経済成長の時代を生きてまいりましたが、最近の日本では経済成長が停滞し、若い人たちは将来不安を抱えています。政治家や資産家による富の独占が疑われ、政治家や大企業の経営者は私利私欲のために国を売ろうとしているといった懸念さえもっともらしく聞こえます。
 確かに最近の政治経済は悪意に満ちているように見えます。政治は不平等税制の増強に福祉の切り捨てを推し進め、企業は右肩上がりの経済を維持するために雇用を縮小し賃金を抑える。財力は資産家にばかり流れ込み、人々はどんどん仕事が重くなるのにますます賃金がカットされます。
 筆者の勤める鉄道会社でも、筆者の年代の一般労働者はまともな給料をもらっていますが、それはエリート総合職の賃金を確保するため、会社が仕方なく支払っているもので、若い職員は年金生活者ほども収入がありません。週に72時間働き週休2日も確保されず、今の年金生活者の7割ていどの賃金をもらうだけです。時給にすれば安いパート労働者以下です。かつては6000人いた社員も今では3分の1になり、通常の窓口業務に加えて、かつては監督職の仕事だった金銭管理も現場の仕事になり、駅の掃除や広告、コインロッカーやATMの管理までさせられています。普通列車しか止まらない小さな駅では、独りですべてをこなします。小さな駅といえども数千人の来客があり、200メートルばかりのプラットホーム上下線と様々な設備があります。駅周辺の種々のお店と比べてもかなり大規模な店舗です。個人経営の飲食店でさえ複数名の従業員がいます。これだけの規模の設備です、せめて常駐する清掃員くらい雇えよと思います。駅員は一見上品な制服を着用していますが、汗とほこりにまみれ、日々の汚物処理で細菌の温床です。ゲロ掃除したその手で接客業務をします。
 個人的なことをリアルに語りすぎました、なんだか愚痴になってしまいましたが、言いたいのは、これが最近の日本の優良企業の実態だということです。会社の看板を背負ってフロントマンとして活躍し、種々のメンテや掃除までこなす現場職員の大半が、低賃金住労働者なのです。
 今の若い人たちは、親世代がまともな給料をもらっているので、親と同居していればとりあえず普通の文化人らしい暮らしができるでしょう。しかしながら、親世代の人間はやがて退職して現役から退きます。退職した親たちも年金を減らされ増税を課せられます。自分の子供たちの面倒まで見れなくなります。あと数年から十年もすれば、日本はエリート総合職を除いた一般サラリーマンは数十年前の賃金水準の労働者ばかりになります。物価は今のままで賃金は数十年前の水準、しかも労働内容は数十年前の3倍以上という恐ろしい事態です。企業は、筆者の世代の3分の1の人数の労働者を3分の1の給料で3倍働かせる、そんな暴挙がすでに現実化しています。それでもまだ足りぬと、新しい会計システムが導入され、遠隔案内業務が導入され、会計業務用員の削減、休憩交代用員の削減の準備を進めています。
 企業が人を雇わないので、まともに就業できる若者もわずかしかいません。最近の電脳ネットワークに精通している若者たちの中には、職に就かずにネットを利用した商品の売買でサラリーマンより多くの収入を得ている人もいます。サラリーマンの半分以下の労働で倍以上の収入を得ています。ネットを通じて音楽や小説などの才能が評価され、それで高収入を得る人も少しずつ増えてきました。労働に対する対価という経済評価がデタラメになっています。
 今や、日本という国は、賃金水準の低い貧乏国です。一般市民は労働賃金で家も車も買えません。大病を患っても国は面倒を見ないので死ぬしかありません。一握りのエリートとか勝ち組とか言われる身勝手な人たちが、貧しい国民を食い物にしてのさばっている、それが日本です。
 生産会社は貧民相手では商売になりませんから、グローバリズムとか称して海外に行って儲けることに専念しています。技術も才能も外国に売り飛ばし、日本なんか滅びればいいと思っています。

 筆者は、半世紀以上を生きてきて、今ほどすさまじい格差社会を見たことがありません。政治家や資産家の大老たちは、自分の余生を薔薇色にするために若者たちの未来を踏みにじってもいいと本気で考えているのでしょうか。今は多くの国民が政治不信に陥り、資産家を悪人だと思っています。平民から憎悪されることこそが、選ばれた者の喜びなのでしょうか。
 こんなことばかり考えていると、どんどん気が滅入ります。
 現代は、資産家が攻撃的な投資等を通じて世の中をいいように振り回すことができる時代です。世界の経済事情をマネーゲームなんて表現するのを聞いたことがあると思いますが、まるで神の手のようにゲームを司る人たちは、じつは人類の将来を慮って意図的に悪者を演じているんじゃないだろうか、あるとき筆者はふとそんなふうに思ったことがあります。
 人間という環境を変えるほどの力を持った存在が身勝手なことをするとどうなるか、身をもって教えようとしているんじゃないか、それが世の中を陰で操っている人たちの真意なんじゃないか。
 学校で習う歴史の教科書では、権力争いの話しばかりがクローズアップされていますが、そればかりではありません。伝染病や自然災害と戦った人たちの話し、人種差別と戦った人々の話し、様々な発明や発見、それらの史実もまた教科書に記載されています。人類の歴史は戦乱の繰り返しだという単純にして悲しい結論を裏づけると共に、人類にとって何が必要で何が不用なのかも、歴史の教科書は教えているのです。
 高邁な理想はしばしば独裁者を産み、国民の支持を得るに至り、世の中を戦乱へと導きます。しかしながら戦争は必ず終わり、再建の時代が始まります。その繰り返しによって世界は着実に民主化の方向へ進んできました。軍事における現代戦の背景には、地球を滅ぼして余りある壮絶な火器が存在します。次なる世界大戦が勃発すれば、核を搭載した巡航ミサイルの発射ボタンがいつどこで押されてもおかしくありません。それを食い止めるには、世界大戦の回避と、そのための国々の高度な相互理解しかありません。
 人類は、第二次世界大戦以前のように列強国同士が戦火を交えるわけにはゆかないのです。現代の経済戦争は、その代理戦争であるとも言えるかもしれません。グローバリズムや国際れべるの経済情勢によって、一国の中に大きな格差が生じ、経済バランスが破綻し、将来不安が増長する現状を、この経済戦争を終結させてみよと、世の中を陰で操っている人たちは望んでいるのではないでしょうか。
 自らマネーゲームに興じる人たちにそんな善意はないとおっしゃるかもしれませんが、それならなぜ、インターネットなる最新技術を一般大衆の情報交換ツールとして公開したのでしょう。人々を自在に操り、マネーゲームを思い通りにしたいというなら、インターネットにアクセスするためのプロトコルを一般大衆に公開する必要はなかった。市民は高度なツールを持たず、特権階級の人々だけがそれを独占すればよかったわけです。
 個人と世界をつなぐ電脳ネットワークの技術は、人類の最強のツールです。迅速でひじょうに信頼性の高いこのネットワークで、今の経済は回っています。電子マネーや銀行のオンライン、携帯電話のメールがいい加減で当てにならないもの、使えないものなんて思ったことはないでしょ?
 人々の私利私欲が増長し、人類が本来持っている協調性を失ったらどうなるかを、今の政治経済を司る人たちは、身を持って教えているのではないでしょうか。お前ら、これだけ痛めつけられて、いい加減に気づけよ、そんな声が天から聞こえてくるような気がするのです。
 世の中の腐敗は、人々のあきらめや無関心が招いたことなんだよと、天の声は教えてくれているような気がします。自分たちは無力で何もできない、そう思い込んで悲観に陥っている大勢の市民に対して、天は罰を与える形で教えてくれている、そんな気がします。大勢の人々が気づかないと、人類は前に進めない、一部の権力者が一時的な解決をもたらしたとしても、それはまた次なる悪意にかき消されてしまう、市民レベルでの進化が必要なのです。
 人類最強の情報ツールをパソコンやスマホという形で所持している人々が、どれだけ強大な情報収集能力と情報発信能力を身に着けているか、それをもっと知るべしです。そのことの重要性と可能性を知るべしです。オンラインゲームやチャットや掲示板に精通している人は、電脳空間で人々がどれだけ自由と平等を獲得できるかを痛感しているはずです。性差やルックスや経済力といった足かせから解き放たれ、自由なコミュニケーションが可能になるのが電脳空間です。経済的価値観から開放された架空のお話しが、しばしばよりリアルに人間性を表現できるように、電脳空間ではより素直に、より自分らしくなることができます。
 ネットワークの匿名性を利用した、卑怯な嫌がらせや無責任なデマが横行するのも事実ですが、それ以上に人々は多くのメリットを得ています。でなければパソコンやスマホがこれほど普及することはないでしょう。
 電脳空間を自在に駆け巡ることができる情報端末を手にした現代人には、ひじょうに大きな可能性、大きな力があります。そのポテンシャルパワーが目を覚ませば、社会を良い方向に動かすことができます。そしてその予感は、筆者の中で日増しに大きくなっています。
 筆者は楽観論者です。楽観的というとどうもお気楽な感じに聞こえるかもしれませんが、前に進もうとすれば、明るい方向へ歩もうとすれば、それなりの努力と責任が伴います。お気楽極楽の中にも苦労はあるのですよ。
 調子のいいこと言って、世の中そんなに甘くない、だったら変えて見せろよ、なんて言うのは簡単ですし、リアルで大人っぽく聞こえます。でも悲観からは何も生まれません。楽観からは、生まれる保証はありませんが、生まれる可能性はあります。人類は、できたらいいな、あったらいいな、という希望を、できる気がする、必ず方法があるという楽観に転じ、空を飛んだり写真を動かしたりという現実のものにしてきたのですよ。

未来社会の予想

2014/04/24


 筆者は若い頃から未来社会についてあれこれ妄想するのが好きでした。ですから近未来を描いたSFなんて大好物でした。しかしながら、筆者が想像するリアルな未来像というものを描いた作品にはなかなかお目にかかれず、今でも、これこそ納得できるいかにもありそうな未来だ、と思える作品を挙げることができません。
 23世紀の宇宙社会を描いた名作「スタートレック」も筆者の大好きな作品の1つで、まだ小学生だった筆者は、「宇宙大作戦」の日本向けタイトルでテレビ放送を見ていました。USSエンタープライズ号の驚異の冒険は、子供の筆者をワクワクさせました。
 中学高校に上がってから、より多くのスタートレックファンに出会いましたが、ファンたちはあの名作を絶賛しながらも、様々な突っ込みどころを見つけて笑い合ったりもしました。宇宙生物と普通に会話したり、様々な惑星で空気や重力の問題が解決されていることなど、名作も時代と共に突っ込みどころが増える一方でした。
 しかし筆者にとって最大の突っ込みどころというか謎は、まったくちがうところにありました。すなわち、23世紀まで滅びずに生き長らえた人類が、いまだに戦争に明け暮れているのが疑問だったのです。エンタープライズ号の宇宙就航の目的は探査でしたが、基本的に軍所属の火器を搭載した宇宙船で、宿敵も存在します。彼らの活躍する舞台は戦争が宇宙規模に発展した未来なのでした。
 スターウォーズは、遠いむかしのお話しだそうですが、優れた宇宙航行技術や華々しい建造物は、我々にとっては未来図的なシチュエーションでした。この作品ではさらに過激な戦争が描かれ、帝国軍と反乱軍、心身の鍛練によって特殊能力を得たジェダイと、その能力を暗黒面に利用して宇宙征服を企むシスといったキャラクターが登場します。ビーム砲で惑星1つを消し去るという破格の火器を開発するような技術文明が、帝国軍と解放同盟とに分かれて機動兵器による戦いや白兵戦を繰り広げるのです。
 ほかにも様々なSF作品の未来社会において、戦争や貧富の差が登場します。壮麗な未来社会の場末に悲惨な生活を強いられている貧民窟があって、そこに盗賊や賞金稼ぎ、闇商売の王だとかが暗躍しています。富裕層に虐げられた貧民たちが反乱を起こすといった未来もよくありますね。高度に発達した人工知能が、人間という矛盾した生き物を社会の秩序を乱すものと判断して駆逐しようとする、そんな未来もありました。
 これらの戦争や格差を伴う未来社会が示唆しているものは、どんなに技術が進歩しても人類は争い続ける運命にあるということなのでしょうか。そうではありません。要するにこれらの未来SFは、未来予想ではなく、舞台を未来に置き換えた現代風刺なのです。この逆パターンで、現代風刺を盛り込んだ時代劇もありますね。かつて一世を風靡した「必殺仕事人」とそのシリーズには、サラリーマン武士の家族との確執や、不況、受験戦争といった題材が登場し、我々観客は登場キャラに共感し、感情移入することができました。
 未来SFが未来社会予想ではなく、童話などと同様の現代風刺の場であるということも悟れない愚かな筆者は、こんな未来図は間違ってるなんて反感を持つこともしばしばでした。資本主義による競争がさらに膨れ上がり戦争の規模も大きくなるなら、未来社会なんて実現する前に滅んでしまうだろう、競争よりも協調がまさってこそ人間社会は存続の道が開け、壮麗な未来都市の建造が実現するのだ、筆者はそう考えていました。

 争いの回避による人類の存続という単純な理屈の組み立てについては、今も考え方は変わりません。人類が滅びることなく存続し、優れた技術力に裏打ちされた快適な未来社会が実現するには、より民主化が進んだ社会と、先端技術の一般への公開、有形無形の資産や資源の分配の公平化がさらに進まねばなりません。端的に言うと、誰もが高度な技術を手にすることができ、誰もが豊かな文化的生活や潤いのある食生活が可能にならねばならないということです。儲けた者勝ちのエリート主義の格差社会を増長させるのであれば、先端技術を大衆に与える必要はありませんし、大勢の貧窮と犠牲との引き換えとしてエリートだけが富をむさぼり、豊富な食材を独占し、高度な医療に健康を委ねればよいのです。
 人類の科学技術の進歩は、戦争のようなインパクトによって加速されるという人もいます。勝ち残りを賭けた競争こそが、新しいアイディアやノウハウを産むのだと。常に満腹で安逸をむさぼっている人たちは何も考えず、何も産まない。だから、格差や競争、戦争も人類全体から見れば必要なのだと。
 そうなのでしょうか。平和社会にだって問題は山ほどあります。人同士が争わなくても、人間は常に様々な問題と戦っています。高品質で安全な食材の量産、病苦や障害の克服、自然災害から被害を防ぐ方法、エネルギー資源の問題、宇宙開発の問題。戦争しなくても研究開発は進みます。
 これまで、発明や発見の多くはその道のエキスパートの手に委ねられてきましたが、ネット社会においてはかつて専門家やプロしか持たなかったツールやノウハウが万人に公開されるようになり、より多くの人々の頭脳で問題が検証されるようになりました。営利目的の企業が、専門家の中から頭脳を抜粋して少人数制で研究を進めるよりも効率的に追試やデータ収集ができるようになったのです。電脳ネットワークに大勢の人間が端末によってつながった状態は、言わば地球規模の巨大コンピューターみたいなものです。
 個人と世界をつなぐ電脳ネットワークが現実のものとなった現在、これから先の未来は、多くのSF作品にあるような一部の富裕層が富を独占し、高度な科学技術で武装した壮麗な都市に住み、多くの貧困層がそれを支えるために奴隷のような生活を強いられているといった未来は考えにくいと思います。先進技術は、今では一部の限られた列強国の富裕層だけの持ち物ではなくなりました。
 今の世界経済を支える資本主義と自由競争の考え方は急には変わらないでしょうが、大きな企業だけが技術力で優位に立てるとは限らなくなって行きますし、芸術や文化面でもますます素人の活躍が目覚ましくなるでしょう。イデオロギーの変更がなくとも、世界の流れは変容して行きます。
 壮麗な未来都市や宇宙都市は、より民主化が進み、自由と平等が今より進んだ文明によって実現されるでしょう。全人類が等しく平等な社会は実現が難しいでしょうし、完全な平等は逆に人々から自由を奪ってしまうかもしれません。しかし今よりはもっと公正な未来はきっと実現されるはずです。

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索引


目次

スネさん リーザさん けもの 庭虫
雑虫 クモ 直翅系 半翅系 膜翅系 鱗翅系 鞘翅目 毒虫 魚たち 無脊椎
両生類 カメたち 絶滅動物 くさばな 庭草 雑草 高山植物 飼育と観察 ヒト □飼育動物データ




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11121314151617
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