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人への馴化

2014/12/27


 ナチュラリストとして、野生の小さな動物たちと接して、大きな謎のひとつが、彼らがしばしば人間に馴れるという現象です。人は小さな虫から巨大なシャチに至るまで、飼養します。これは他の生き物たちにも見られる共存関係と形式的には同じですが、中身がずいぶん異なります。食用や乳の採取のために動物を家畜化して保護するのは、アリがシジミチョウの幼虫を育てたり、アブラムシを保護したりするのと同様ですが、ペット化というのはかなり特殊です。あるいは食用以外に、牛や馬は人や貨物の輸送に用いたり農地の耕作に使役したりしますが、これもかなり共生関係としては異質です。ヤドカリやカニの仲間が身を守るためにイソギンチャクの一種を体にくっつけて歩くのと同じと言えばそうなのでしょうが。
 古来より人と共存してきた犬では、狩猟や犬橇(イヌゾリ)のように使役するほか、警察犬や盲導犬といった高度な利用がありますが、それ以上にペットとしての利用がひじょうに多いです。イヌ属タイリクオオカミの亜種イエイヌは、ペットとして様々な需要を満たすため、セントバーナードのような大型品種からトイプードルといった小型品種に至るまで、多種多様な改良品種が作出されました。犬の家畜化あるいはペット化利用のことを、犬の社会性を応用し、人が群れのボスの代行的なポジションをとることで犬を従順させる、あるいは群れ社会に属しているような安心感を与えて利用するというふうに説明している記述を読んだことがあります。大筋において納得できる説明だと思いました。人間によくなついている犬を見ていますと、ボスに従っているというより仲良しごっこを楽しんでいるように見えることがあります。野生生活におけるボスとはちがい、人間のボスの多くは犬のボスほどには厳格ではなく、とても温かく接してくれるからでしょうか。日本の忠犬ハチ公伝説のように、犬と人間は、場合によっては犬同士をはるかに凌駕するきずなを築くことができるのかもしれません。

 進化的な哺乳動物の子供たちは、とても楽しそうに子供同士がじゃれ合ったり、母親に甘えたりといった仕種をよくしますが、それは成長と共に失われ、大人たちは感情を吐露することはほとんどありません。彼らの生態はおおむね本能に支配され、類人猿でさえも野生においては新たに誕生したボスは、先代のボスの子供たちを食い殺し、それを見て発情したメスたちに自分のタネを植えつけるという無感情な暮らしを送っています。
 これに比べて人間との暮らしは、ひじょうに情愛に満ちており、動物園の類人猿は成長してからでも楽しそうに笑い、好奇心が衰えません。彼らは穏やかな心境と若々しさを長く維持し、野生生活に比べてはるかに長生きします。警察犬や盲導犬のような厳しい訓練と規律の配下にあり、つねに緊張を維持しているような飼われ方では、あまり長生きすることはできないようです。
 大型水族館には、海の哺乳動物が芸を仕込まれていて大勢の人間の前でショーを披露しますが、彼らの場合はどうなのでしょう。犬や動物園の陸棲哺乳類と同じように、人と心が通じているのでしょうか。それとも調教に従う報酬として餌がもらえるというギブ&テイクに応じているだけなのでしょうか。海獣の生態と形態は人間とはかなりかけ離れているので、コミュニケーションも陸生動物と同じようにはゆかないように思えますが、水族館の海獣たちの振る舞いは、陸生動物と変わらないように見えます。

 人間は、ヒトに進化する過程で、成体の形成が遅滞し幼児期が長くなるという変化を重ねてきました。時代と共に子供っぽい大人が増えて行くのを見ていますと、その傾向が今も続いているように思えます。動物にとって子供時代は最大の弱点なので、少しでも早く大人になり、一人前の能力を発揮する必要があり、多くの動物がそのように進化し、成体の特徴である形質の特殊化をどんどん伸ばして行きます。対してヒトは、子供時代がどんどん長くなり、成体としての形質の顕現は遅滞してゆきますから、形質の特殊化は失われてゆきます。近縁の類人猿と比べても、強靱な牙や顎、体毛という形質は未発達な状態で、代わりに子供としての形質が大人になっても残るようになってゆきました。
 進化的な哺乳類のように、形質の特殊化が進んで行く進化を成形進化の傾向が強く、ヒトのように幼児期の形質が増強されて行くのを幼形進化の傾向が強いと評価します。加えてヒトでは、子供の形質のまま(大人の形質が顕現しないまま)性成熟に至るようになり、このことを幼形成熟と言います。ヒトは幼形進化と幼形成熟によってヒトたる生き物に進化しました。これは他のあらゆる進化的な哺乳類とまったく異質で、進化の逆行のようにさえ見えます。
 ヒトは性成熟してからも、すなわち成体になってからもひじょうに感情的で好奇心旺盛で、そのことが知性の発達に大きく寄与したと思われます。そして知性の発達が他の動物には存在しないような高度な感情を産んだのでしょう。ヒトの知性と感情は相乗効果のように高め合い、ヒトとしての能力を育みました。本能支配を抑制して理性的に社会生活を形成する能力、道具や機械といった文明を築く能力、言語能力、そうした他とは一線を画す能力は、ヒトに至る特殊な進化のプロセスで育まれました。
 遺伝子レベルでは極めて近縁で差が少ないとされる類人猿たちは、やがて進化して言葉を話すようになるのかという疑問にイエスと答える人は多いと思いますが、類人猿は進化的な哺乳類の仲間です。他の進化的な哺乳類と同様に、環境に適応するための特殊化を進めて進化してゆきました。ヒトとは根本的にちがう進化を歩んだ彼らが言語能力を持つことはないと思います。人と共に暮らす類人猿たちはひじょうに感情的で、野生生活の時よりも高い知性を発揮するようで、文字や記号を理解したり、手話を会得したりするそうですが、おそらくそれが彼らの限界です。彼らも声を発し、野生生活でもそれで仲間を呼んだり危険を知らせたりしますし、クジラの仲間は数十分にもおよぶ歌を奏でて仲間に様々な情報を伝えます。それが彼らの言語であるにはちがいないのですが、彼らの言語は先天的に持っている能力です。ヒトのように後天的な学習によって会得し、それでものを考えるような言語とは別物です。

 他とはまったく異なる知性と感情が他の動物を支配し、動物が人になつくという現象を実現しているのではないかと筆者は思っています。そして人といる間、動物たちの中にも感情が芽生えるように思えます。人は他者に魂を吹き込む存在なのです。
 野生生活においても社会性や育児といった生態を持つ動物が、人に馴化するのは解らないでもありませんが、本来が孤高の生き物である爬虫類が人になつくのはまったく不思議なことです。野生ではたとえ親子であっても再会すれば敵あるいは餌という関係にある彼らが、他の動物の配下に下り、あまつさえなついてしまうというのは、じつに奇妙な現象です。
 かつて中生代の地上を支配した恐竜たちの多くは社会生活を営み、営巣して育児をしていたものもいたそうです。現生の爬虫類たちにもその遺伝子が残っているのでしょうか。現生の爬虫類と恐竜たちは共通の祖先を持つものの、恐竜に進化した種から進化した爬虫類はいません。現生爬虫類よりももしろ鳥類の方が恐竜に近いと言えます。鳥類の祖先は初期の恐竜でした。分類学的に鳥類を恐竜の一群であると見なす学者もいるくらいです。鳥類と恐竜は、共に営巣や育児、社会性という生態を進化させてゆきました。
 筆者が飼育したことがあるトカゲやヘビ、カメのほとんどが、飼育を続けるうちに人を見ると寄ってくるようになり、人の手から餌をもらうようになりました。野生生活では彼らは真逆の行動をとるはずです。彼らよりも高等動物であるはずの鳥たちの方が、慣らすのに苦労しました。ヒナから飼っていた個体とは有効な関係を築けましたが、親鳥から飼うとけっしてなついてはくれませんでした。そこへゆくと爬虫類の方が親からでもなつくケースが多かったです。
 人との暮らしが犬や猿を感情的な生活に誘うように、人に飼われている爬虫類にも感情が芽生えるのでしょうか。化学的な見地から、そんなことはあり得ない、そう信じてきましたが、実際に爬虫類を飼い始めると、爬虫類を家族のように可愛がる人たちを否定できなくなりました。人と一緒にいる間は爬虫類にも感情が芽生えるのではないか、そう疑わざるを得ない振る舞いを彼らはあまりにも多く、筆者に見せつけました。
 筆者の信頼するナチュラリスト仲間には、山で捕獲したクワガタムシを、人に対する反応から、野生育ちか人に飼われていたものが逃げ出したのかが判るそうです。確かに虫たちも飼い初めはバタつきますが、そのうち人を恐れなくなり、扱いが楽になることがよくあります。これは人が身近にいる暮らしに慣れるという反応であってなつくのとはちがうと思われますが、人にしかできない芸当ではあるのでしょう。
 ずいぶんむかしですが、新聞でこんな記事を読みました。飼育中のカマキリを温かい部屋に置くと冬になっても死なず、餌がないので菓子パンを与えて冬の間ずっと飼っていたというのです。そのカマキリは飼育者の手のひらに乗り、飼育者の手から菓子パン(マドレーヌだったかも)をもらって食べていたそうです。
 生き物に感情を与える話しとは少しちがいますが、人形職人は人形に魂を吹き込むのだそうです。また、人の住む家はいつまでも倒れずに建ち続けるけれど、誰も住まず魂の抜けた家は早々に崩れ去るのだそうです。フィギュアや人形が大勢並んでいる筆者の部屋は、嫁さんにとっては怖いところなのだそうです。目のあるものには魂があるからと言うのです。怖っ。でもそれも人間原理的にはイエスです。人間原理は、宗教的な人間中心主義とは別物です。

 生物や生態系、人と自然との関わり合いといった問題を、フィジカルな化学的アプローチで考えるのには限界があるような気がします。そもそも自分の感情だの思考だの、こうしてものを書いたり、想像したりすることが、不思議で仕方ありません。頭の中に転がっている脳を巡る電気信号だけで、ものを考えてパソコンのキーをたたいて文字表現を行なったりできるものなのでしょうか。どえらい設備を持つスーパーコンピューターでさえかなわぬことを、人間はどうして易々と行なえるのでしょう? それほどの演算処理能力が、いったいどう進化したら生物に備わるというのでしょう。やがてコンピューターが進化して疑似人格が形成されるていどになれば、機械が感情を持つかもしれないといいます。感情って何なのでしょう。魂の叫びですか? 疑似人格を作っちまう人間の科学力っていったい何ですか? 蒸気の圧力が機械を動かし始めてだかだか200年あまりで科学技術はコンピューターにまで進化するものなのでしょうか。そんなことが可能なら、神様がいてヒトに進化する種を地球にばら蒔いたとしてもおかしくないんじゃねぇの、なんて想像が頭を過ります。
 素人考えとは気楽なものです。でも、専門家は専門分野でのアプローチという制限の下で物事を判断し理解しようとしなければならないので大変です。もっといろんな考え方を動員して考えればよろしかろうとも思うのですが、それでは統制というものがなくなり学術的な理解には至らず、いつまで経っても夢物語なのでしょうね。でも、夢物語も時代が経てば新たな統制が生まれて、魔術が技術になるように学術的な統一を見るのでしょうけどね。

 とにかく筆者ができることは、科学も想像もフィジカルもメンタルも総動員して、生物のネットワークについて考えることです。生物はコロニーや群れを作るものも、孤立して生きている(ように見える)ものも、すべてネットワークでつながっている、そう考えています。そのネットワークには生態系も気象も地質の循環も含まれ、個々の生き物の振る舞いはその一面であるのでしょう。そして人間が他の動物たちと心を通わせたり、自分たちの都合のよいように造り替えたりできるのも、みんな根っこでつながっていて、それぞれ異質に見える側面を見ているに過ぎないからなのでしょう。これはひじょうに乱暴で稚拙な考え方ですが、個々の生物の振る舞いを適応という見方をするのではなく、世界という大きな"系"を維持するために必要な振る舞いであるという別の方向から観るという点で意義があるのではないかと考えます。
 人の歴史も生物の進化の歴史も、振り返れば今の世界を構成するのに必要なプロセスに帰結し、未来へと続いてゆきます。
 素粒子の世界やエネルギーの本質について知るために、統一場理論や大統一論が模索されるように、生命とその世界を知るための統一論的な考え方が必要ではないか、そんな気がします。

アレルギーと脳の働き

2015/02/02


 生物は食物の摂取や呼吸、あるいは怪我などから異物を体内に取り込んでしまいます。異物とは体内の組成や成分にない物質のことですが、生体にとって無害なものや滋養になるものは取り込んで問題ないのですが、毒性のあるもの、病気を発症するものは排除する必要があります。その働きをするのが免疫系であり、免疫系の機能には有害な異物の排除のほかにも癌(がん)細胞のような細胞の異常を排除する働きもあります。免疫系というのは多数の機能が集積された巨大なシステムで、この機能が正常に能力を発揮することは、生体を正しく健康に維持するために最も重要です。免疫力という言葉がよく用いられますが、充分な免疫力を維持するには、栄養バランス、充分な基礎体温、ストレスの解消といった生活態度の調整がたいへん重要であると言われています。
 免疫系は、微細なウィルスから肉眼で見えるほどの寄生虫までを監視しています。ただし、体外から侵入するあらゆるものを除去するのではなく、病原体や毒性のあるものを排除対象にしています。
 脊椎動物の場合は、体内に侵入した異物を、免疫系が生体にとって有害であると判断した場合、白血球中のリンパ球内で生成されるタンパク分子が異物と結合して抗体を形成します。抗体は特定の異物を認識する鋳型として血液中にプールされ、再び同じ異物が侵入した場合にそれを抗原として認識し結合します。1種の抗体が認識する抗原は1種で、人の体内には数千万あるいは数億の抗体が生成されているそうです。
 抗体が結合した抗原は、白血球やその一種でアメーバー運動するマクロファージといった食細胞によってモシャモシャと食べられることになります。抗体が特定の抗原を見つけて結合する抗原抗体反応は、食細胞に食べ物を教えているようなものですね。そして食欲を満たした食細胞は、異物と心中して死滅し、体外に排出されます。怪我などの場合は白い膿みとなって観察できます。

 さて、アレルギーのお話しですが、免疫反応が特定の抗体に対して過剰に起こる状態をアレルギーと言います。専門家ならぬ筆者には、その言葉の意味が完全には理解できません。またアレルギーのことを過敏症といった表現をするのもよく耳にします。正常な状態では免疫反応が生じない異物に対して過敏に反応してしまうということなのでしょう。免疫反応が過剰に起こるとはどういった状態なのでしょう。抗原を撃退しようとする作用が必要以上に働くということなのでしょうか。
 アレルギーとして有名な症状に、気管支喘息、アトピー性皮膚炎、花粉症などがあります。
 花粉症は比較的解りやすいアレルギーです。普通なら有害な異物と見なさないような花粉に対して、抗体が形成され、花粉の多い季節になると免疫反応が強くなり、風邪ににた症状が出ます。筆者も結婚した年に急に花粉症を発症し、ずいぶん苦しみました。鼻の中の副鼻孔が炎症を起こして腫れ、鼻が完全に詰まった状態になったままになり、その状態で鼻水が止まらないのです。鼻が完全に詰まっているので鼻水をすすり上げることもできず、水のような鼻水を垂れ流し放題です。鼻で呼吸できないので口で息をするために、睡眠中に口内がカラカラに乾燥し、口内を指で触るとまるで手の表面に触れているような感じです。喉が痛く、熱も出ます。目もかゆくなります。目や鼻孔に細かい針を何十本も入れられたようなジクジクした痛みが続きます。風邪の鼻水鼻づまりの症状が悪化したような感じです。風邪の症状も、免疫系が病原菌と闘っている際に起きますから、体に起きる現象としては似ているわけです。
 気管支喘息は、吸い込んだ空気中の異物に反応して過度な免疫反応が生じ、気道に炎症が起こって空気の通り道が狭くなり、呼吸困難に陥ります。筆者の息子も幼い頃に発症し、何度も病院に通ったり入院したりしました。ところが成長と共に症状が軽くなり、成人するころには治まりました。これはどういうことなのでしょう。成長と共に抗体がなくなって行ったということなのでしょうか。喘息に対しては効果的な投薬治療があり、症状を抑えることは難しくないのですが、この薬は心臓に負担をかけます。水泳等で体質改善の効果が期待できると言われ、息子は幼い頃にスイミングスクールに通いました。体質改善とはどういうことなのでしょう。体を鍛えて体質が良くなると、喘息を引き起こす原因の抗体がなくなるのでしょうか。
 アトピー性皮膚炎は、強いかゆみを伴う湿疹に悩まされるアレルギーで、特定の食べ物に対する免疫反応により発症するようです。筆者の姪が子供時代にアトピーに悩まされました。体中に湿疹ができてかゆくて我慢できず、つい掻いてしまうので皮膚が傷つきただれたり出血したりします。また免疫反応の原因が特定の食品なので、食べたいものを思うように食べられません。たいへん苦しいアレルギーです。これも多くの場合、成人する頃には治まるようです。

 アレルギーの発症には、遺伝的素因が多いと言われています。筆者の息子は筆者の遺伝子を受け継いだせいで、喘息に悩まされたのでしょうか。成人してそれが治まると、今度は花粉症に見舞われました。アトピーに苦しんだ筆者の姪は、両親も祖父母もとくにアレルギーは発症していません。花粉症に苦しんだ筆者の両親や祖父母もアレルギー体質であったとは聞きません。
 人間の体の形質や機能は遺伝子に依存しているので、アレルギーを発症しやすい遺伝子というのはあるのかも知れません。では、アレルギーの抑制には遺伝子治療が有効なのでしょうか。
 アトピー性皮膚炎や花粉症は、20世紀末辺りから先進国において急増するようになりました。筆者が子供の頃には、そういった病名を耳にしたことがありませんでした。アレルギーの急増には、生活環境の変化も指摘されていますが、原因を遺伝子に求めるよりも納得がゆきます。環境衛生の改善と欧米食の導入による食事事情の変化は、現代日本人に対して斉一的に生じました。その変化がアレルギーの症例を急増させたことは間違いなさそうです。
 筆者の若い頃は、農家では人糞が肥料として使用されるのが一般的で、それが原因である大腸菌や寄生虫が問題視されていました。住宅は木造で隙間が多く、たくさんの害虫やほこりが家の中に浸入してきました。天井裏にはネズミが棲んでおり、道端や空き地、水路でたくさんのネズミの死骸を見つけました。食事はパンやカレーライスといった洋食が普及しつつありましたが、まだまだ日本食が主体でした。工業がどんどん盛んになる時代で、煤煙と自動車の排気ガスで空気が汚染され、工業排水等で河川の水も今よりずっと汚染が進んでいました。現代人をタイムマシーンに乗せて、あの当時の不衛生な環境に連れて行ったら、アレルギー体質の人は症状が悪化し、そうでない人もアレルギーを発症するのではないでしょうか。
 その後、環境衛生が見なおされ、大気汚染や河川の汚染も大幅に改善されました。人糞を農作物の肥料として使用することは廃止され、衛生的な化学肥料が使われるようになりました。人家にはアルミサッシが普及し、砂ぼこりや害虫の浸入が大幅にカットされました。さらに、除菌効果のある石鹸や洗剤が普及し、人々の暮らしは衛生的にひじょうに安全になって行ったのです。
 アレルギーの原因となる抗原や、抗原として代表的な物質のことをアレルゲンと言いますが、現代人の暮らしは、むかしに比べてアレルゲンがずいぶん減少したように思われます。人々は、大むかしから現代で言うところのアレルゲンにまみれて暮らしてきたわけですが、現代社会がそれを急激に人々から遠ざけました。そしてアレルギー発症者の急増という意外な展開が生じたわけです。

 現代の子供たちは、とくに乳幼児は不衛生な環境から遠ざけられ、言わばアレルゲンの少ない環境で育てられ、発育過程において免疫系はむかしほどは忙しくない状態です。そして食事が大人と同じようなものに転換してゆき、外気に触れる機会も増えて行くことで、アトピー性皮膚炎や気管支喘息を発症するようです。衛生的に安全な環境が、皮肉にも異物に対して過剰に敏感な体質を作ってしまうようです。
 世界の多くの先進国におけるこのような生活状況が、アレルギーを急増させた原因であることは間違いなさそうです。現代の子供たちのすべてがアレルギーを発症するわけではないので、根源的な原因は遺伝子に由来するのかも知れませんが、遺伝的にアレルギー体質であるにせよ、むかしなら、大むかしからあまり変わらない衛生レベルの環境でなら、発症しない、そういうことなのかも知れません。
 では、我々の生活環境が不衛生さを取り戻せば、アレルギーに悩む人は減るのでしょうか。不衛生な環境に新しく生まれてくる子供たちは、アレルギーの発症を回避できる可能性が高まるでしょうが、すでに衛生的な環境に慣れている現代人は、症状を悪化させたり新たな発症者を増やしたりすることになるでしょう。それに不衛生な環境はアレルギー以外の種々の病気を誘発します。
 アレルギーを環境改善によって低減するのは容易ではなさそうです。
 環境の変化が人体に影響を及ぼすものとして、環境ホルモンの通称で知られる内分泌攪乱物質というものが最近言われるようになりました。我々の生活の中で使用される化学物質が、体内のホルモンの働きやバランスに悪影響を及ぼすというものですが、これもアレルギー増加の原因なのでしょうか。一頃よく問題になったハウスシック症候群では、建物の塗装や接着剤に含まれる化学物質により、住人が体調不良に陥るというケースですが、あれも環境ホルモンのひとつなのでしょう。
 我々の暮らしは、表面的には衛生的に安全になったように見えて、じつは不衛生な化学物質に囲まれているのかも知れません。怖いですね。

 そしてアレルギー発症の要因として気になるのが、現代人の精神面です。ストレス社会などと申しますが、我々は物質的に豊かな暮らしと引き換えに、心のゆとりをなくしました。これは間違いありません。デジタル技術が向上し、暮らしの効率化と高速化が大幅に進み、そのおかげで現代はほんとうに忙しいです。むかしはご近所はみんな貧乏で、筆者の両親もあくせく働いていましたが、心のゆとりが今よりあった気がします。日曜日は家族と遊び、年末は家族総出で大掃除をして、お正月用の料理を作って、お店も会社も例外なく休みの正月三が日は、初詣と夜更かしが楽しみでした。年賀状もせっせと何十枚も手書きしました。ところが今は、年賀状なんてパソコンを使ってあっという間にできてしまうのに、それすらも面倒で億劫で、年末大掃除なんてあり得ません。お節料理を作らなくても元旦からお店が開いているのが普通です。
 環境の変化に伴う物質の変化もさりながら、精神面でも我々はアレルギーの原因を作っているのではないでしょうか。パソコンもスマホもない筆者らの子供時代は、遊びで得られる情報なんてたかが知れていました。現代の子供たちの方がはるかにドラマチックで冒険に満ちた暮らしをしていると思います。でも、筆者が子供の頃は、ものが豊富でないぶん、想像増力でそれを補い、廃材を積み上げたものを秘密基地にし、自転車を未来の乗物に見立てて遊びました。ご近所や公園で、いろんな大人たちに出会い、両親とはまた異なる考え方を教わりました。
 現代の子供たちは、あまり他人の大人や祖父母と接することなく、いつも同じ親から同じ考え方を見聞きするだけです。しかも親に心のゆとりがないために、親子のコミュニケーションさえ途絶えがちだったりします。電車の中の母子をみましても、子供がしきりに質問しているのに、母親はそれを無視してスマホに夢中です。子供が可愛くないわけではありません、スマホ依存症になるくらいに心にゆとりをなくしているのです。逆のパターンも多いですね。子供が携帯ゲームに夢中になって親の話しに耳を貸しません。
 筆者はゲームはしません。していた時機もありました。同人誌活動を終えて、生き物の研究に精を出すようになるまでの間、かなりビデオゲームにハマりました。でもここ10年以上はゲームをしている時間を持てません。仕事のせいではなく、趣味に忙しいからです。こうしてブログを書いたり、時おり小説や随筆を書いたりするのに忙しく、ゲームをする時間がありません。でも筆者はゲームが嫌いではありませんし、子供たちがゲームに没頭することに反対でもありません。ゲーム世界は、筆者の子供の頃の何十倍も広大な冒険フィールドです。ゲーム世界のバーチャル空間を旅することで養われる想像力も小さくないでしょう。でも心配なのは、ゲーム世界があらかじめ用意された冒険フィールドであるということです。筆者が子供の頃は、石や枝や何かの部品を冒険の道具に見立てたり、空き地や水たまりを果てしない冒険のフィールドに見立てたりという、個人々々の想像を持ち寄って遊びました。小学校での休み時間には、何も道具さえなくても想像力だけで、数人の友人たちと無人島ごっこをし、発明品や遭遇した出来事をノートに書き留めたりしました。あらかじめ用意されたゲーム世界とは根本的なちがいがありました。
 根本的なちがいというのは、むかしの遊びは個人々々の想像力に依っていた部分が、今は映像や音としてあらかじめ用意されており、全員同じものを思い描いているという点です。そのため、べつのイメージを持つ様々な考え方に出会う機会が阻まれます。
 このように述べると、筆者たちの方が現代の子供たちよりも想像力を養うことに長けているように思われるかも知れませんが、それはちがいます。ビデオゲームやアニメで育った子供たちの想像力はひじょうにレベルが高いです。スポーツが今なお記録を伸ばし続けるように、人間の想像力も伸びて行っていると思います。筆者は息子やそれ以上年の離れた若手作家の小説に感動し、その想像力に感銘を受けています。アニメネタでは年齢差を越えて話が合います。
 筆者が心配しているのは、ゲーム世界を冒険することに、心のゆとりはあるのか、それがストレスになったりすることはないのか、ということです。アイテムを集め、ステージをクリアしてゆくことが大きな課題となって、良くないストレスを溜め込んでしまったりしないのか、そういうことが心配なのです。目標に向かって困難に立ち向かうストレスは、人間の精神活動にたいへん良い影響を及ぼします。規則的な枠の中で条件のクリアを強いられ続けるゲームに良くないストレスを蓄積するような要素はないのか、それが心配なのです。これも物質的に豊かさと引き換えに心のゆとりを失くした例だと言えるかもしれません。そして同じストレスでもそれを溜め込まない人、よいストレスに変えてしまう人もいるでしょうし、そうした心の広い、精神にゆとりのある人は良いのですが、若者みんながそうとは限りません。

 アレルギーに精神が関係していることは、筆者自身がしばしば経験しています。仕事上人前に出る機会が多いので、鼻水鼻づまりはひじょうに厄介です。ところが、仕事中の緊張感が症状を緩和するのです。もちろん絵に描いたように上手くはゆきませんで、仕事中に花粉症の症状で難儀することも頻繁でしたが、気合でなんとかなるというのは、実際に何度も実感しています。
 どなたか忘れてしまいましたが、テレビのタレントかアナウンサーのお話しで、ひどい花粉症なのに本番中は症状が出ないとおっしゃっているのを聞いたことがあります。それを筆者は心の中で肯定していました。
 筆者の花粉症との付き合いもやがて30年です。ところが年々それに慣れて来たというか、徐々に苦痛が軽減されるようになって行きました。そしてここ数年は症状が軽微で、花粉の飛散が少ない年には期間中数日間軽い症状が出るだけといった有り様です。最近はシーズン到来を憂鬱に感じることもなくなりました。念のために薬局で点鼻薬を買うものの、使い切らずに余らせてしまうことが多いです。
 過敏症と言われるくらいですから、年をとると鈍感になって症状が軽減されるのでしょうか。それとも花粉症に対して精神的ゆとりができて、それが症状を抑えるのに良い作用になっているのでしょうか。

 アレルギーと精神活動の関係については、いろいろ言われています。気合で症状を一時的に抑えられるというのもウソではないでしょう。でもこれは症状改善の決め手にはなりません。どのように精神をコントロールすれば良いのか、そもそも精神をコントロールするというのがどういうことなのか、よく解りません。
 そして、昨夜のことですが、筆者の嫁さんが、アレルギーと脳の働きとの関係という話しをし、筆者を驚かせました。精神活動がアレルギーの症状に影響を与えるのだとしたら、脳の働きが抗原抗体反応に影響を与えているということはないのか、というアプローチでアレルギーの原因について考えてみてはどうか、というわけです。
 ストレスによる免疫力の低下について、多くの専門家が指摘しているように、精神と免疫系、精神とアレルギーには関係性が存在することは間違いありません。であれば、脳の働きが免疫系をコントロールしていて、ストレスがその制御を狂わせているという発想は見当違いではないかもしれない、そう思うのです。
 このことを思いついた嫁さんは、花粉症やアトピー、喘息といったアレルギーとは無縁でしたが、年齢と共に食品アレルギーを自覚するようになりました。キウイフルーツ、カキ、メロン、バナナといった果物や、ピーマン、貝類などを食べるとお腹が痛くなるというのです。息子も最近になってエビを食べると腹痛に襲われるようになりました。
 食品を拒絶するようになった嫁さんや息子の事例が、免疫系の過敏症によるものなのか、トラウマみたいな心因性のようなものなのかは判りません。しかし嫁さんも息子も、それらの食品に取り当てて悪い思い出などなく、腹痛さえ伴わなければ好んで食べたい食品なのです。
 嫁さんの場合は、更年期による体の変調で脳の働きにも変化があったとか、もともと胃が弱い息子の場合は、何らかのストレスによって脳からエビを拒絶する信号が出て、エビに対する抗体が生成されてしまったとか。素人考えなのでかなり乱暴なことを申しているわけですが、トラウマでもないのに体が拒絶するようになるというのは、何らかの脳の働きの変化なのではないか、そのようにも思えます。
 筆者は幼少の頃にでっかいウシガエルに手を飲まれて以来、それまで大好きだったカエルが触れなくなりました。大きめのカエルがそばにいて、それに触れることを考えると手の力が抜けてしまいます。これはアレルギーではなくトラウマの方でしょう。もっともトラウマという考え方も単なる仮説だという見方もありますが。

 免疫機能が異物を有害と判断して(抗原と見なして)抗体を生成するメカニズムに、脳の働きは関係していないのでしょうか。そのような話しは聞いたことがありません。アレルギーの原因となる物質の体内蓄積量(通過量か?)が一定量を越えるとアレルギーを発症するという、解ったような解らないような話しはよく聞きますが、その一定量を検知するセンサーは脳の監視下にあるということはないのでしょうか。
 人は誰しも苦手なものを持っています。理由も解らず苦手な対象に対して、体が受け付けないなどとよく言います。考えとしてはそれが安全だと解っているのに、脳の理解とは別に体が受け付けないのだと。先進国で多い虫嫌いなどもその1つだと思われますが、もしもその人が昆虫食の習慣がある文化圏で暮らそうとしたら、かなりつらい思いをすることでしょう。そしてその人も生まれ落ちるから昆虫食文化の中で育ったら虫嫌いにはならなかったでしょう。体が受け付けないとはいうものの、それを確認する行為は脳で行なわれるわけで、視認したり触れたり臭いを感じたりした結果、拒絶反応が起こるわけです。
 アレルギーの場合も、脳の働きが関与しているという可能性はないのでしょうか。我々が思考として意識しないところで、脳がそれを意識し抗原として認めるように免疫系に指令する、もしもそうしたメカニズムが存在するなら、脳の働きを改善するという考え方でアレルギーを治せないものでしょうか。花粉の多い時期のホコリっぽさをストレスと感じないようにする訓練、アレルゲンとなる食材を体に有益なものと認める訓練、言い方は変ですが、そうした脳の働きを良い方向に制御するような方法を模索するのはナンセンスな考え方でしょうか。
 現行の投薬治療は、アレルギーを治すものではなく、アレルギー症状を抑えるものです。アレルギーそのものを抑えることができるようになれば素晴らしいですね。

動物の恒温性

2015/09/05


 動物の恒温性と変温性については、当ブログでも折に触れ述べてまいりましたが、生物の生態を知るうえで重要なことだと思われるので、ここで改めてまとめておこうと思います。
 動物の体温について、僕たち私たちは小中学生の頃に、恒温動物と変温動物あるいは温血動物と冷血動物といったことを学んだと思いますが、その概要は、恒温動物あるいは温血動物と言われるものは、自ら熱を発生して体温を維持し、変温動物または冷血動物は、体温が周りの温度に応じて変化する、つまり自力で維持する体温というものを持たず、体温は周りの温度と同じで、気温が変われば体温も変わる、そういうことだったと思います。
 我々が義務教育で習った恒温動物とは、哺乳類と鳥類のことで、それ以外のすべての動物は変温動物ということでした。哺乳類と鳥類以外の動物たちの体温は周りの温度と同じで、陸棲動物なら気温と共に体温が変化し、水棲動物では水温と体温が同じであると。
 しかしながら、魚類にも爬虫類にも自ら発熱して周りの温度よりも少し高い体温を維持するものがいます。マグロは周りの水温より高い体温を維持しますし、ニシキヘビの中には発熱して卵を温めるものがいます、鳥類ほど高温ではありませんが。マグロもニシキヘビも変温動物にはちがいありませんが、変温動物の体温が周りの温度と同じであるという認識にはいささか語弊があります。
 クマは哺乳類なので恒温動物ですが、寒冷地に棲み冬眠の習慣を持つ種では、冬眠の間はかなり体温を下げ代謝を低くします。代謝率が高いと体内のエネルギーは見る見る消費され、栄養補給のできない冬眠中を乗り切ることができません。
 動物は体温が高いほど代謝効率が上がり、体内の栄養素をエネルギーに換え、活発に活動することができますし、体温の低下に伴って代謝効率も下がり、活動に必要なエネルギーを捻出しにくくなります。この点はあらゆる生物で共通です。
 人間の体温は35℃以上にもなり、季節に関係なく普通に活動できますが、魚類では10℃以上低い体温で快適に暮らしています。観賞魚の飼育では水温が30℃を越える夏場は魚の健康を維持するのが大変になります。渓流に棲む魚はさらに低い温度で活動し、25℃を越える水温では命の危険にさらされます。
 昼行性のトカゲの多くは、日光浴によって必要以上に体温を上げ、それを温存して活発に動き回ります。温められた物体は寒気にさらされても瞬時に温度が下がるわけではありません。運動しているて物体が慣性によって運動し続け、重力や空気抵抗によって徐々に速度が落ちて行くのと同じで、熱にも慣性が働きます。トカゲは熱慣性によって長時間体温を温存することができ、その間は恒温動物のようにふるまうことができます。そして夜間は体温を気温並みに下げて休眠します。休眠時はエネルギーロスがひじょうに少なくなります。トカゲたちは体温の維持を太陽光にゆだねることで、発熱のためのエネルギーが必要なく、夜間もエネルギーロスがないので、恒温動物の10分の1以下の食物摂取量できげんよく暮らしています。彼らの暮らし向きでは、わざわざ恒温動物に進化する必要性がありません。
 かつて恐竜が栄えていた中生代は、現在よりも気温がずいぶん高く、爬虫類たちは自ら熱を発することなく恒温性を維持していました。とくに大型動物では体温の低下も小さく、恒温動物と変わりはなかったでしょう。むかしは、恐竜は爬虫類の仲間だから冷血で頭の血の巡りも悪く、知性に乏しい愚鈍な生き物だったと想像されていました。しかし、彼らが営巣して育児したり、集団生活していたりした証拠が見つかるようになり、彼らが高度な知性を有していたことが判って来ました。

 哺乳類や鳥類のみならず、爬虫類の仲間にも恒温性を維持し活動時と休眠時で体温の高低をうまく使い分けているとしたら、我々は動物の恒温性というものに対して認識を改めなければなりません。そうでなければ動物の生態を正しく理解することはできませんし、恐竜を冷血動物だったと誤解するような間違いを招くことになります。それに温血動物とされる哺乳類であってもクマの例のように休眠時には体温を変化させ、変温動物の特性をりようするわけです。
 高温性や変温性という表現に変えて、専門家は内温性、外温性という言葉を用います。内温性とは代謝熱によって自ら体温を作り出すことで、外温性とは体温の維持を日光や外気、水温といった外的温度に委ねることです。これは恒温性や変温性、温血動物や冷血動物に比べるといくらか適切な表現のように思えます。
 日光浴をするトカゲなどは、外温動物であるけれども日中は高い恒温性を維持している、そんな表現をすると、生き物の生態の本質に少しは迫ったような感じがしますよね。外温動物であってもその多くが恒温性を発揮するわけですから、学校教育でもそのように教えて欲しいものです。トカゲは日光を利用して恒温性を維持する外温動物で、哺乳類や鳥類は自ら発熱して恒温性を発揮する内温動物である、そんなふうに教科書を書き換えてください。

 近年、恐竜が恒温動物だったということが、専門家でさえ口にするようですが、彼らが内温性を備えていた可能性はあると思います。でも中生代の温暖な気候環境であれば、大量のエネルギーを費やして代謝熱を発生しなくても、熱慣性で充分恒温性を維持できたのではないでしょうか。筆者が若い頃に読んだ恐竜についての文献には熱的慣性恒温動物という表現が用いられていました。外温動物なら食事量もひじょうに少なくて済みますから、全長20mを越えるような巨大生物でも森を食べつくさなくて済みます。
 恐竜たちが外温性の恒温動物であったとしたら、体温の維持には充分な外気温を期待しなくてはなりません。ジュラシック・ワールドが設営されたコスタリカ地方がむせ返るような猛暑の熱帯雨林であることを切望します。

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索引

目次
無脊椎 等脚類 クモ サソリ
多足類 無翅類 直翅類 半翅類
膜翅類 鱗翅類 鞘翅類 コガネ
クワガタ 魚類 両生類 カメ
トカゲ ヘビ 鳥類 哺乳類 絶滅
庭草 雑草 高山 飼育 ヒト
□ 飼育動物データ


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