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電脳政治

2014/04/26


 現代社会では、人々の財産の多くがオンラインネットワークによって管理されています。物品や才能といった資産をオンラインで管理することは難しいですが、お金に関しては、そのすべてを現金で管理しているという人は少ないでしょう。筆者のようなサラリーマンでは、給料は銀行に振り込まれ、会社から現金を支給されることはありませんし、光熱費や電話代、家のローン等も毎月現金を納めに行くようなことはしません。そしてそのことに不安を感じることはほとんどありません。貯金のすべてを現金にして金庫にしまっておく方がむしろ不安でしょう。
 また、クレジットカードやデビットカードをはじめ、現金を使わないお金のやりとりが急速に発展しています。筆者なども映画を観に行った場合、オンラインでチケットを購入し、移動に必要な交通費はICカードを利用し、昼食代もカードで支払い、けっきょく現金を使わなかったというケースが少なくありません。給料日前で小遣いがひじょうに貧しくても、カードとスマホがあればとりあえず1日遊べます。通販でもクレジットですし、自家用車の購入では直接現金を販売店の口座に振り込み、いちいち現金を降ろしてきて支払うなんてしません。
 今やお金の大半が現金ではなく、電子マネーになっています。カードや口座振り込みの買い物の手続きを行なった際、裏で実際に現金が動くわけではありません。購入者の口座の残高が減り、販売者の口座の残高が増える、つまりオンラインで管理された数字が動くだけです。
 将来的に世の中から現金がなくなればどうなるでしょう。コンビニに行ってスマホを読取機に当てるだけで買い物ができるといったシステムを利用したことがある人は少なくないと思いますが、すべての買い物がそんな感じになり、現金というものが世の中から消えてしまえば、社会はどうなるでしょう。
 現金がないと不安ですか? クレジットカードやデビットカード、鉄道でよく利用されるICカード等は、いくら使ったか判らなくなってしまうから不安だ、そんなことをおっしゃる人もいますが、そういう人は買い物をする度に、逐一お財布の残高をチェックしているのでしょうか。財布の中の紙幣がいつの間にか予想より減ってしまっていて愕然とするというようなことはないのでしょうか。
 世の中から現金が消えてすべて電子マネーになってしまって本当に困る人は、泥棒や喝あげを企む人たちではないでしょうか。現金には名前が書いてないので、第三者が見た場合、そこにある現金の所有者は誰なのかを判断する場合、とりあえずそのお金を握っている人のものであると思わざるを得ません。現金は紛失したり盗られたりした場合、それを証明するのが容易ではありません。紛失した財布が戻ってきたとして中身がなくなっていてもそのことを確実に証明できないでしょう。ところが電子マネーであれば、利用媒体を所有者が止めてしまえば、第三者に悪意で利用されることはありません。これになれればお金の管理は現金よりも安心です。
 今は、ひじょうに多種多様の電子マネー媒体があって、お店や施設によって使用できる媒体が異なったりし、いくつもカードを持ち歩かねばならないといった面倒があります。1つ1つのカードの有効期限やら残高やら、暗証番号やら、紛失時の連絡先やら、そうした事柄の管理が大変で、これでは便利で安心とは言いがたいですね。それぞれにポイントが貯まってお得だとか、ポイントの利用方法だの有効期限だのがどうだとか、何が何やら判らなくなってしまいます。筆者も様々なカードを作らされて所持していますが、どのカードにどれだけのポイントが貯まっているかなんて気にしたことがありません。ポイントの管理だけでどれだけの労力が要ることやら。その労力の損失の方が、ポイントで得られるお得よりも大きい気がするんですが。
 お金の管理もポイントの管理もすべて1つのカードでできれば便利ですね。ショップや企業ごとにサービスポイントを用意するのは良いのですが、それらもすべて1つのカードに登録できれば楽ですね。こういうと、その1枚のカードを失くしたらどうするねん、という反対意見が聞こえてきそうです。筆者もそう思わないでもないのですが、あらゆるカードを1つの財布に入れている筆者などは、財布ごと紛失したらけっきょくカードを何枚持っていても同じという気がします。
 でも確かに、銀行のキャッシュカードもお買い物もすべて1枚のカードというのはさすがに不安な気もします。では、カードはやめて生体認証にしましょう。人は生まれると住民登録を行ないますが、この時に特殊な装置を体内に埋め込んじまいます。その人が電車の改札を通れば入場情報が管理センターに飛び、降車駅の改札を出れば出場情報が飛んで、その人に運賃が課金されます。コンビニでその人がレジのところのしかるべき装置に触れれば、それでお支払いはOKです。自動車の運転をする場合は、運転席のセンサーを指でなぞります。それで高速利用料は運転者に課金されます。もしあなたが運転免許を持っていなかったり、免停中であったりすると車のエンジンはかかりません。同乗者がリッチな人で、高速利用料をおごってもらう場合は、スマホやタブレットといったネットにアクセス携帯端末でお金のやりとりをしてください。携帯端末は1人1人が持つ必要はありません。個人の資産や情報を管理しているのはネットワークです。その人本人の体さえあれば、どの端末からもその人の資産や情報にアクセスできます。
 体内に埋め込んだID管理装置に不具合があった時のために、指紋、声紋、網膜と様々な生体情報を登録しておきましょう。

 電脳ネットワークに資産や情報を管理された生活は、ひじょうに窮屈なものでしょうか? そうとも限りません。通販やキャッシュレスの買い物を頻繁に行なっている人たちは、その人の買い物傾向や嗜好性がすでにオンライン上でデータ化されています。通販サイトにログインすれば、あなたにお勧め商品なんてのが普通に出てきます。ICカードで鉄道を利用する人たちは、移動経路や日時がデータとして管理されています。ETCを使えば車での移動情報の記録が残りますし、ただ街を歩いているだけでも街頭には多数の防犯カメラがあなたを監視しています。携帯端末でのメールのやりとりや住所録もホストコンピューター上に残っています。我々はすでに行動の多くを管理されているのですよ。でも、あなたが社会の秩序をはなはだしく乱したり、犯罪に手を染めたりしない限り、あなたの
プライバシーが公開されたり、知人や隣人に公表されたりすることはありません。電脳社会時代は行動も買い物もすべて管理されていて息が詰まる、なんて愚痴は聞いたことがありません。電脳社会でキャッシュレス生活をしていても、あなたが公言しない限り、あなたの趣味や嗜好性、日常の行動が他人に筒抜けになるようなことはないのです。コンピューターには筒抜けになっていますが、コンピューターはひじょうに口が堅いです。
 世の中から現金がなくなった、資金と個人情報がオンラインで管理される社会では、未成年者等の管理責任能力の充分でない人の資産や情報は、保護者が管理する必要があるでしょう。逆に管理責任能力のある大人の場合、他人には覗かれたくない個人的な趣味や嗜好、へそくり金なんかは自分独りが知り、自分だけで管理できるものである必要があります。キャバクラで使ったお金は嫁さんが関知しないへそくり金で処理したいですし、私物をこっそりネットオークションで売って得たお金も、家計の口座に加算されるのは残念です。

 オンライン上で管理できるものは、お金だけではありません。パソコン上のデータのバックアップをオンライン上に委ねている人もいるでしょう。また、ダウンロードで購入できる商品も、端末がダメになっても個人のページにログインできれば復元可能です。
 自分が公開しても良いと思う個人情報は、プロフィールとしてオンラインにアップデートしておくと便利なこともあります。そのおかげで有益な情報を得たり、仲間に出会うこともできるでしょう。そうした情報や出会いは、あなたの大きな財産になり、あなたの暮らしを豊かなものにしてくれますし、人生の転機を与えてくれるかもしれません。信頼関係や交友が、あなたを苦境から救ってくれるかもしれません。趣味が職業に転じる機会が巡ってくることもあります。
 オンライン上にプロフィールや作品を公開することは、言わば名刺交換のようなものです。しかも名刺よりもはるかに多くの実績が記載されておれば、それが相手への安心と信用につながります。
 管理社会で個人情報を管理されるということは、プライバシーのない息の詰まるような生活とは限りません。その情報ネットワークを活用すれば、人生を実のりあるものに変えることができるのです。

 オンライン上では、個人情報や個人の資産が管理されるばかりではありません。公共設備や環境や地域情勢といったさまざまなデータがリアルタイムで管理され、刻々と変化する情勢を多くの人々がリアルタイムで知ることができます。
 災害や飢饉、伝染病、事故、食料資源やエネルギー資源の生産と消費のリアルタイムな情勢、そうした情報を多くの人々が迅速かつ正確に知ることができれば、対処も迅速に行なわれます。
 ただ、中央集権という社会システムがある限り、物事は単純明快には運びません。災害などの場合、仔細な情報は国家権力の許にだけ届けられ、それから議論が始まり、誰が責任をとるのか、誰の手柄になるのか、どの部署が動くのか、指揮系統はどうなっているのか、マニュアルから逸脱していないのか、何が優先事項なのか、ボランティアや海外の支援を受け入れるのか、そのことが国家の威信や機密を脅かす恐れはないのか、物資はどこから調達するのか、協力できる民間企業はどこなのか、それによって利害はどうなるのか、といったふうに問題がふくらんで行きます。議論がまとまり、救援部隊が動き出すまでにたくさんの犠牲が出ます。
 国家も数々の経験から学んでおり、災害マニュアルは、機動部隊の迅速な出動を可能にしているはずですが、厳重な縦割りの指揮系統や利害関係が、どうしても動きを鈍らせます。それに想定外のことが発生するのが災害というものです。国家の救援体制から縦割りの負担を軽減してゆかねば、機動力は実力を上手く発揮できませんし、助かる命も助からなくなります。
 大災害等のリアルな情報をみだりに公開するとパニックを招く、そんな懸念もあるかもしれませんが、今は携帯ひとつで個人が現地情報をネットにアップできる時代です。国家が極秘裏に、利害を鑑みて行なえる事柄は少なくなっています。国家の威信や利害よりも、正確な情報を確実に公開することによって、民間ボランティア等が確実に動けるようにした方が、効果的な救難が実現できるでしょう。
 むかしは、三公社五現業がすべて国に管理されていましたが、今はどれも民営化され、国が管理しているのは、警察と自衛隊と厚生年金と国有林くらいのものです。あと大学やら病院なんかがちょろっとあるかな、それとNHK。国鉄も郵政も電電公社も専売公社も今はありません。増税ばかりして何もしてくれへん、って感じです。
 何もかも民営化してしまうなら、国家機関と政治は何のためにあるんだろうと首をひねりたくなるところですが、事業をすべて民営化しても、法やルールを制定し、それがきちんと守られ、それによって事業が円滑に回っているか、物流が滞ることはないかを監督する仕事が残っています。それに加え外交の仕事も必要です。国内だけの思惑では経済は回りません。世界の経済バランスということを無視して国内の経済は回りません。そしてそれは国と国との協調であったり駆け引きであったりします。
 現在は、こうした国の仕事が、国家権力によって行なわれているのですが、高度な情報社会では、世界情勢や金品の流れが、行儀よくしかるべき窓口を通っるとは限りません。オンラインによる取り引きや情報の流出入はしばしば国家権力をも出し抜いてしまいます。
 筆者は、もうずいぶんむかしから、国の監督業務や外交業務の多くを一般に広く公開し、より多くの知識と人手にそれらを委ねるべきだと考えてきました。官僚と公務員だけで何もかもまかなうのは難しいし、その事情はますます悪化して行く、世界はどんどん動いて行きますし、その動きは加速されています。これでは市民の声を政治に反映するとか、政治的な思惑を市民に理解してもらうといった政治本来の在り方が無視されるばかりです。市民生活と政治はどんどん縁遠いものになって行きます。
 行政や監督の仕事が、一般市民にも解りやすくなり、より多くの市民がこれに参加できるようなシステムが今後必要だと思ってまいりましたが、最近では、筆者が焦らなくても自然にそうなってゆくのではないか、ならざるを得ないのではないかという考えに変わってきました。
 本項のタイトルである電脳政治とは、SFに登場するようなスーパーコンピューターが人の代わりに政治を運営するというような代物ではありません。電脳ネットワークを通じて、地域格差や立場のちがいを減らして、多くの人の声が中央や他の地域に迅速正確に届き、それが政治に的確に反映される、言わば全員参加型に近い政治システムということです。
 筆者の文学の大先輩に、人間社会に関してひじょうにユニークな考えをお持ちの方がいまして、彼がおっしゃるには、政治は鉄道のレールのように敷かれたものでなければならない、それを利用する方法や利用目的は単純明瞭で、必要な人が自由に利用できるようなシステムであるべきだということでした。国家権力が国民にルールを強い、監督するといった方法ではなく、必要とした人がいつでも手軽に利用できるようなものであるべきだというわけです。こらはひじょうに優れた考え方で、まさに理想的な政治システムだと思います。
 ルールやノウハウは、オンライン上にあって、人々が自由にそれを利用できる、そのシステムの是非についても大勢の人々が意見を出し合って修正を加えて行く、場合によっては流動的に変わり続けるようなルールやノウハウもあるでしょう。このような電脳政治が実現できれば、現行の国家の仕事の多くをそれに委ねることができるでしょうし、様々な困難にも多くの知恵と人手を動員して立ち向かうことができます。
 具体的にどのようなものかは、この説明では判りづらいでしょうが、現存するネットオークションなどはその好例のひとつと言えるでしょう。オークションのシステムがオンライン上に存在し、それを必要とする人がいつでも自由に利用できる、それをネットオークションは具体的に実現しています。そこにはルールがあってノウハウがあり、利用者は自分でそれを理解して利用しています。オークションのみならず、ネットを利用した様々な商取引が今は盛んに行なわれ、企業のみならず個人でもオンライン上で収益をあげています。
 情報や金品のやりとりは今やオンラインなくしてはありえない状況で、すでに電脳政治は始まっていると言えるのではないでしょうか。商取引以外にも人間生活に必要な様々な事柄をオンラインでこなすことにより、地域格差を埋め、誰もが関心を持って利用できる社会システムが実現できるはずです。
 個人や社会の情報が正確に管理され、それが的確に運用されるシステムがあれば、人間社会は、巨大な権力に統治されなくても運営できるはずです。人々は、格差や競争、欺瞞や不審といったストレスから開放され、もっと自由に文化的生活を目指すべきです。権力やエリート、勝ち組といった目指す高みがなくなれば、みんな怠惰に陥ってしまいますか? そんなことはないでしょう。人間とそれを取り巻く環境には、究明すべき事柄、開発すべき技術、あるいは習得すべき技能、創作、創造、趣味や娯楽と、やりたいことやるべきこと、かなえたいことが果てしなくなるのですから。

情報の流れ(1)
先人の教え

2014/10/12


 ヒトはひじょうに社会性の強い動物です。裸のサルとも言われる個人ではあまりにも無防備で脆弱な人間が、現在の地球上で支配的な地位に君臨しているのは高度な社会性のおかげです。社会生活を営む動物は人間以外にもたくさん存在しますが、彼らはいずれも個体がもともと持っているスキルの重ね合わせでチームワークを発揮し、社会性を維持しています。個体が生まれながらに有している本能という能力により、序列が生じたりボスが出現したり、性別の役割が生じたりして群れが維持されます。しかしながらヒトの生活では本能はあまり役に立ちません。ヒトは社会生活を営むには後天的に得た学習が必須になります。親の庇護の下で情愛を学び、言語を学び、本能を抑制することを学びます。食欲や性欲、独占欲といった先天的に持っている本能とされている衝動を社会の中で思うがままに発揮すると、それは秩序を乱す行ないとして指弾されます。社会生活とは、我慢の連続でもあります。
 幼い子供が言葉を学ぶことから、学生や専門家が高度な知識を学ぶことに至るまで、人は目や耳で得た情報を頭の中で理解し知識として蓄積します。知識は言葉や文字や絵といった情報になって発信され、他人の目や耳に触れ、そこでまた知識となります。人間社会は衣食住を分け合い、分業によって大きな事業を達成する協調組織ですが、その機能を支えているのも情報です。人間社会は物流や貨幣の流通以上に情報が血脈のように行き交って成り立っている構造体なのです。
 そしてその情報の流れには、おおまかに分けて縦の流れと横の流れがあります。縦の流れは、親から子へ、先輩から後輩へ受け継がれる知識やものの見方、考え方、あるいは学校教育や企業による社員教育といったもので、横の流れは、友人知人同士の会話、ゴシップ、趣味の集まりでの情報交換、テレビやラジオのニュースといったものが挙げられます。情報はまた言葉や絵で直接伝えられるもの以外にも、記録として蓄積され、それを解読あるいは再生することによって伝達されるものもありますね。書籍、写真や映画、パソコンの記録メディアといったもので、それらには情報の縦の流れも横の流れも、どちらとも判然としないものも含まれます。
 同じ記録内容でも、情報の取得者が教えられたと受け止めれば縦の流れのように機能しますし、考え方のひとつとして聞いておくと受け止めれば横の流れにもなります。
 こう考えると、情報を縦の流れだとか横の流れだとかに区分することがナンセンスに思えてくるわけですが、そのじつ情報の縦横を規定しているのは筆者ではなく社会の方ですよ。

 我々は、幼いころから成人に至るまで、教育という訓練過程の中で過ごします。親や先生や先輩といった、物知り顔で自分を見降ろしている存在を畏怖しながら成長し、年長者は敬い、その言動は尊重すべしという常識を叩き込まれます。
 しかしいつまでもそれに甘んじていては、人間は成長しません。自分の中に知識量が蓄積されるにつれて、新たに入ってくる情報を吟味することを覚えなければ、人は社会や先人の思想に依存しているだけの寄生生活者になってしまいます。親ガメがこけたら一緒にこけるしかありません。
 人間は社会に含まれる以上、家族や学校、会社といった組織に所属します。そして組織の中の先人の言動はかなり絶対的なものになります。先輩は後輩のことを思って"教え"を垂れるのであって、大筋においてそれは信頼に足る情報といえます。「先輩のおっしゃることをよく聞いておけ」という助言はまちがってはいません。ところが、人間は個々に知識を蓄積していて、得た情報を吟味する能力がありますから、時として先輩の教えに賛成できなかったり矛盾を感じたりすることもあります。そればかりか複数の先輩が反対のことを言う場合もあります。
 ある先輩がたとえば「最近の若い奴は、なんでもパソコンで処理するが、報告書は手書きが良いに決まってる」とおっしゃったとしましょう。多くの仕事現場でパソコンによる報告書が主流であるとすれば、その先輩の教えに疑問を感じてしまいますよね。そして、疑問を抱きながらも手書きの報告書を作成し、別の先輩から手書きは読みにくい場合もあるからパソコンを使うように指導されたとすれば、どっちやねん、というジレンマに陥ってしまいます。他の先輩の指示に従ったと主張しても、「そんなはずはない君の誤解だろう」などという返答が返ってきたとしたら、これはかなり腹立たしいことですし、先輩不審、組織不審に陥る場合もあるでしょう。
 しかしながら、先人の教えなるものは、概してそういうものなのです。手書き派のA先輩と争いたくないパソコン派のB先輩は、対処が楽な後輩を悪者にして、卑怯にも「君の誤解だろう」発言に出るわけです。またB先輩が正義漢で、A先輩を質してくれたとしても、「手書きが良いとは気持ちの問題であって真に受けて実行するとは思わなかった」なんて答えが返って来て、けっきょく割を食うのは後輩ということになる、なんてことはありがちですよね。

 先人たちもそれぞれ個性を持っていて、ものの見方、考え方は様々です。先人の教えというものはひとつの例であると受け止めることは思いのほか重要です。先輩の言動を丸々信じて実践したり、教わったことをそのまま受け売りで話したりすることは、責任転嫁です。
 会社等で仕事をする場合でも、上司の指示をそのまま考えもなく実践し、それが職務をまっとうするということだと信じている人も少なくないでしょう。それこそが責任転嫁です。自己の作業方法について問われたら、上司にこうしろと言われたと臆面もなく答え、作業の責任を上司に転嫁していることにさえ気づいていないケースがあまりにも多いですが、それでは自分にも組織にも利益になりません。上司の指示に疑問を抱いたら、そこで質問するとか意見をするとか、あるいは作業方法に自分なりの工夫を加えるとか、そういう態度こそが自分を成長させ、組織を発展させます。
 自分が付加した工夫について他人から問われれば、その人はその工夫の理由について説明するでしょう。それが自己の作業に責任を持つということです。

 藍より青し、という古い言葉があります。その意味は、青は藍より出でて藍より青しということです。染料の青色は藍という植物から採るけれど、藍よりも鮮やかな青色が得られるのだよ、ということです。人はかくあらねばならないという教えでもあります。すなわち、先人から教えられたままの人間ではなく、先輩の教えを足場にして自分でものを考え、さらに優れた人になりなさい、それが人間ぞ、ということです。
 筆者は、会社勤めをする労働者です。労働の現場では失敗や怪我がつきものですが、それを少しでも回避するために作業の安全という考え方が、現場にはつきものです。そして安全は文化であると言われます。文化とは生活様式のことですが、すなわち暮らしぶりそのもののことですね。過去から連綿と続いてきた労働者の現場での経験が文化であり、それこそが安全に対するマニュアルだというわけです。会社が用意した保安装置と作業マニュアルはあくまでも基本であり、安全を持続する力は文化にこそあるのだよ、と筆者は先輩たちから教えられました。労働者が経験してきた失敗や成功の記録こそが安全を支えているのです。
 仕事をするということは、作業方法の責任を上司や会社に転嫁して盲従するというだけでは万全ではありません。後輩は先輩の教えを元に自分なりに考え出した創意工夫を作業に付加してゆく、それが仕事をするということです。そうして人間社会は進歩し続けます。

 先人の教えは、ひとつの例に過ぎません。それを額面どおりに受け取って盲従しても、何もおもしろくありません。仕事ならただ苦痛なだけです。いろんな先輩のいろんな教えを聞き、それを受け入れる判断は自分でしましょう。
 先輩の教えを額面どおりに受け取って、それで悪い結果になった場合に、その先輩の評価を下げるのはお門違いというものです。自分が教えを曲解してしまっていたかもしれませんし、先輩も言葉を間違っただけかもしれません。先輩がしばらく現場を離れた人ならば、その考え方が今の現場では使えないものになっているかもしれません。他人から得たひとつの情報で、その人を悪く評価するのは早計というものです。情報はしっかりと吟味しましょう。

 自分の仕事や作品に対して、先輩の評価というものは様々でしょう。ひとりの先輩から酷評されたからと言って、自分の仕事や作品がダメだ、あるいは自分の技量が足りないと判断するのも早計です。人からの評価というものも、ひとつの例に過ぎないのです。

 情報というものは、人から人へ伝わって様々な影響を及ぼし、情報自体も様々な内容に変化します。それを丸々信じてしまうのは危険ですが、何も信じられないとおそれるのも危険です。良くも悪くも、正しくも間違っていても、情報に触れることを臆していては得るものがありません。自分の価値基準をきちんと持っていて、受け入れるもの受け流すものを見極める、自分なりの消化の仕方を考える、そうすることで情報を有益なものとし、他人を見損なったり自信を喪失したりしないようにしましょう。
 そして、自分の価値基準さえもが不動ではない、不動であるべきではないということも知っていなければなりません。難しいですよ、価値基準という物差しさえもが不動でないとすれば、どうやって物事を計ります? でも人間の暮らしとはそういうものなんですよ、難儀なことに。学んだことは時としてすぐに古く役に立たない知識になってしまいます。自分が不動でも世間の価値基準が虚ろい続けます。悩んで成長してください。
 ジジィになってから思うことですが、老練の人間が物事に動じず泰然としていられるのは、豊かな経験に裏打ちされているからだと思われがちですが、それよりも「なるようになる」ということを体で覚えるから、そんな気がします。
 ジジィになると目上の先輩の数が減ってまいります。最近では、若い人たちにものを教わることが多いです。年をとっても勉強しなければ、です。

情報の流れ(2)
ノウハウとマニュアル

2014/10/15


 ノウハウとは方法論のことであり、マニュアルとはそれを実用的にまとめたもの、ということになりましょうか。しかしながら本項で語りたいことはそういうことではありません。ノウハウやマニュアルといった情報の扱い方あるいは受け止め方について、感じるところを述べたいと思うわけです。
 私たちが、技術を習得したり知識を深めようとする際には、教科書や解説書等のマニュアルに頼り、指導者や教育者によって習得の仕方を教わり、習得の度合いを評価されながら徐々に高度な技能へと進んでゆきます。指導あるいは教育に当たる専門家は、マニュアルに沿って技術や知識を学び手に授けます。多くの場合、指導や教育はマニュアルの解説であったりします。マニュアルに書かれてあることはどういうことなのか、どのように理解すべきなのか、実用に向けてどのように応用すればよいのか、それを説明しながら、学び手が正しい理解と技術の習得に至るように導きます。
 同じマニュアルで教わっても、学び手の技能に差ができます。その原因は指導や教育をほどこす側に個性があることが想像できます。同じ指導者あるいは教育者に学んでもやはり習得できる技能にはちがいが生じます。その原因は学び手の能力や思考パターンの差異であることが想像できます。同じ指導者が同じことを言っても、人によって受け止め方が異なり、理解度が変わります。ある指導者の教え方ではよく理解できなかったことが、別の人の助言によって理解が深まるようなこともあります。指導者の力量のちがい、あるいは指導者の表現方法がある人にとっては解りやすく、別の人にとっては解りづらい、そういうこともあるでしょう。文字や言葉による情報の伝達は、指導や教育においても完全ということはないわけです。
 そもそもマニュアルというものの完成度がどれほどのものであるかは難しい問題です。マニュアルに記述されている表現もやはり完全なものにはなり得ません。だから同じことを解説したマニュアルにもいろんなものが存在したりします。私たちが学校教育で用いた教科書も、全国共通のものではありませんでした。筆者も別の学校で別の教科書で別の教員に学べば、学力がちがっていたかもしれません。苦手科目と得意科目が変わるようなこともあったかもです。

 私たちがものを学ぶのは、学校教育や社員教育ばかりではありません。部活動における先輩の指導、趣味の集まりによる情報交換、さまざまなシーンで私たちは人からものを教わります。そしてそのことはとりもなおさず“情報を得る”ということにほかなりません。
 教育や指導のみならず、私たちは種々の記述や映像をマニュアルに独学でもものを学びます。独学は技能の習熟度が自己の評価によるしかなく、理解の仕方の是非を他人から聞くこともできないので非効率的でリスクが大きいです。自分のペースで自由に学べるというメリットはありますが。

 私たちが物事を理解している、知識を習得している、ということはえてしてマニュアルの受け売りに陥ってしまっている恐れがあります。マニュアルどおりのことを覚えていて言葉にできたとしても、理解もせずただ暗記しているだけかもしれません。本質を学んでおらず表層的な理解に過ぎないこともあるでしょう。
 たとえば、セミは短命の虫であるということは多くの人々が理解していることであり、そう答えてまちがいを指摘されることは少ないでしょう。短命ではかないものの代名詞とさえ使われているくらいですし。ところが孵化してから成虫に至るまで数年あるいは10年を越えて生きるセミは、他に例がないほど長命な虫です。セミは羽化してから1〜2週間の命の大きな声で啼く虫、ではありますが、それはセミの死ぬ直前のわずかばかりの時間の様子を解説したに過ぎず、じつは彼らは長い歳月を地中で暮らしているわけです。セミに限らず成虫でいる時間がひじょうに短い昆虫はたくさんいます。羽化して繁殖に参加したら早々に寿命が尽きる虫は少なくありません。
 もしも、セミの幼虫が人にとって重要な食料源だったり、人の暮らしに必要なものであったりした場合は、セミに対する一般的な認識も変わっていたでしょうね。

 そしてマニュアルやノウハウは、不動不変なものではありません。新しい発見によって情報が改正されたり、社会情勢に応じて表現が改められたりします。筆者が子供の頃は、運動中に水を飲むとバテるから飲まないようにと教わりましたが、現在では水分補給をしない運動は危険だと言われています。筆者が子供の頃はウィルスのことをビールスと言い、アニメのことをテレビ漫画と言いました。JRのことは国鉄と言い、キムチのことは朝鮮漬けと言いました。
 ものごとを習熟したり技能を身に着けるには、一定の答えが必要です。しかしながら答えという情報は一定のものではありません。変わって行くものなのです。今はこれが正しいとされるけれど、むかしはこうだった、それが答えという情報です。

 情報とは流動的な答えである、と言い換えることができるでしょう。考えてみればそれは当たり前のことであり、誰しも常に経験していることなのですが、案外忘れがちだったりします。そしてせっかく導き出した答えが、やっとたどり着いた正解が、じつはその時の常識や社会情勢を反映した値に過ぎず、いずれ変わって行くものだと思うと憂鬱になります。でも、情報とはそういうものであるということを根本で理解しておかないと、マニュアルの受け売りでつまづくことになります。
 情報を変化させるものは、時間だけではありません。地域的な差異、取り扱う人間による差異、立場上の違いといった空間における変化というものも存在するので大変です。取り扱う人間による差異は、見解や認識のちがいというふうに言われたりもしますね。

 情報とは、時間軸に対しても空間の広がりに対しても常に流動的なものです。絶対的な答えというものはナンセンスであり、マニュアルの受け売りであり、真の理解から遠いものであります。
 科学者はよく「これが現代の科学の限界である」とか「今のところ解っているのはこれだけである」といった表現をしますが、それは答えが今後変わって行くことを示唆し、引き続き探求し究明して行くことに意欲的であることを表現しています。今はこれが答えであるが、いつか塗り替えられる、塗り替えられるべきだ、という理解をしているわけです。
 他人の意見についても、今は彼はこう考えているが、今後変わることもあるだろうという理解が必要です。専門書もすべて正しいことを記述しているとは限りません。ネット上の情報もしかりです。

 生き物の飼育方法もどんどん変わってゆきます。生き物にとって最善とされてきたことが、じつは大きな負担だったといったこともありがちなことです。専門書に書かれていた通りに実践すると飼育下で長生きさせられなかったものが、別のやり方で長期的に健康を維持できたという事例も少なくありません。
 当ブログにも飼育マニュアル的な内容がしばしば登場しますが、それは筆者の経験ではそうであった、筆者はこのように飼ってたまたま上手くいったという事例を挙げているに過ぎません。前項で先人の意見ということで述べたように、このブログの内容もひとつの意見として読み、どこまで受け入れるかは読者自身の判断で決めなければなりません。様々な意見や解説を見聞きせず、ひとりの発言だけに耳を傾けても、情報の受け売りが上手くなるだけで真理には近づけません。自分でノウハウを見つけることもできません。
 情報を流動的な答えであると受け止める、この一見当たり前のようで案外ないがしろにされていることがらを見つめなおし、自己の学究態度を見なおしてみれば、ひとつ高みを目指すための足がかりになることでしょう。

情報の流れ(3)
流動的な答え


 インタネットの充実により、情報の発信と取得が自由自在になった現代社会において、情報の伝わり方によって、物事の真実がゆがめられたり、思わぬ方向に傾倒したりといったことは、きわめてありがちなことです。しかしながら、これは何も情報化社会とも言われるネットが整備された時代の話しではなく、むかしから情報というものは真実をゆがめ、傾向と流行を産み、人々を右往左往させて来たのです。ただ、現代は短い時間に大量の情報が広範囲に広がり、そのことが人々をいっそう惑わせているように思われています。
 情報は有益にして有害なものです。膨大な情報の海の中には、人を損害や危険に陥れるような罠で満ちあふれています。しかしながら何を信じてよいか判らないと臆していては、パソコンもスマホも開けられません。現代は、情報端末がたいへんに身近なものであり、簡単な操作で大量の情報があふれ出してくる時代なのです。
 公然と流通する情報は、ものの名前すら変えてしまいます。ジーンズがデニムになり、看護婦が看護師になり、アベックがカップルになり、スチュワーデスがフライトアテンダントになり、農協がJAになり、浮気が不倫になり、洋食焼きがお好み焼きになり、ラップトップパソコンがノートパソコンになり、ミリバールがヘクトパスカルになりました。書いててむかし話しをしている感がありますが、実際には情報がものの名前を変えたのではなく、ものの名前が変わったことが情報として拡がって定着したわけです。ただ、情報を拡げる手立てがなければ、ものの名前も変えようがなく、原因と結果は表裏一体のものではあります。もっと申せば、言葉や文字で情報を伝えるという手段がなければものに名前すらありません。ものに名前があるということは、情報が流通する手段が存在するというわけで、人というものが手足と同じように言葉というツールを有している存在であるということです。
 言葉を持たない生き物にとって、物事とはどんな感じになっているでしょう。彼らにとっては石も水もちがいがある状態でしかありません。遭遇した他の動物が餌なのか敵なのか、まったく関わる価値のないものなのか、それは臭いや見た目の大きさ、動きといった情報から判断し得るもので、自分に危害を及ぼすものであれば、生きた動物であろうが、飛来する岩石であろうが、その本質はどうでも良いのです。なのである条件さえ満たしてやれば、魚はルアーを飲み込んでくれますし、イヌと共生関係を結ぶことができます。生き物の飼育者はこれを利用して人工的な環境で生き物を飼育します。
 むかし古典的な魔術における言霊という概念では、名前を呼ぶことによって魔物を呪縛したと言います。その原点は、ものに名前をつけることにあります。石ころに"いし"という名前をつけることによって、自然の中のその状態は、人にとって石以外の何者でもなくなります。人々はそれを石と信じて疑わなくなり、それが呪縛の基礎になっています。
 つまり、言いたいのは、人間は情報と共に在るわけで、それを避けて通ることはできないということなのです。善きにつけ悪しきにつけ、情報に接することができるということは、人にとって有益です。
 現代人たるもの、せっかく壮大な情報の海を目の前にしているのですから、臆することなくそこに飛び込んで行きましょう。そうでないと、いつまで経っても騙されることへの恐怖から前に進めず、けっきょくのところは美味しいものを見過ごし続けるだけになってしまいます。不利益な情報を信じて損をしても、授業料を支払ったと思うくらいの余裕を持ちましょう。
 そして、情報は変わって行きます。変わり続けるのが情報というものです。ジーンズがデニムに変わり、スッチーがFAに、女子高校生がJKに変わるのです。
 とまぁ、考えてみれば当たり前のことなのですが、日常では案外そのことに気づかず、情報に対する不安に戸惑ったりあせったり、悪くすると人間不審に陥ったりしてしまうのも、ありがちなことです。
 情報は、悪意のものであれ善意のものであれ、その多くは刃物みたいなものです。使い手によって料理の道具にもなれば、武器にもなります。要は情報をどう受け止めるか、変わって行く状況をどう処理するかが肝心です。そして情報の変化の原因は、じつは受け止める側にあることも少なくありません。変わらぬ内容をその人の感情や価値観の変化で変えてしまうのです。

 情報は有益なものです。情報のない状態で人は生きて行けません。向上も進歩もありません。それでもいいんだ、とおっしゃられても、それでは周りが大変だったりします。高齢者が頑固になり、新しいものを受け入れないのは、情報を拒んでいるからです。自らは一貫して変わらぬ生きざまを持っているつもりでも、じつは好奇心を失い、希望を見失うというふうに変わり果てたからです。猛省してください。人間の大脳は、たかだか100年以内でそこまで老化しないものです。あなたの若いころも世の中に変化はつきものだったでしょ? あなたも年配者が苦笑するような変化加害者だったではありませんか。世の中は、変わらず変わり続けるものです。変わってしまったのはあなたの方です。
 と言うことで、当ブログの内容も情報のひとつである以上、それをどう消化するのかは読者の受け止め方次第であるわけです。少し時間が経てば筆者自身が、これを読み返してこんなこと書いたっけ、なんてぬけぬけと言うかもしれないわけです。

情報の流れ(4)
暮らしの豊かさと情報


 情報を取得し、その価値や真偽について判断するという行為は、そのまま物事を考えるということにほかなりません。ネットやテレビから取得するものから、人から見聞きするもの、あるいは観測や観察から得られるものまですべて情報です。ニュースやゴシップもうわさ話も、海や空の色も、鳥や虫の声も、味や匂いも、すべて情報です。言葉を持たない人間以外の動物たちは、得られた情報を本能によって直感的に判断します。色や形、匂い、温度、大きさといった条件に適合していればそれを餌であると判断して食べます。人間のように"餌"という言葉を持ちませんから、適合した条件そのものが食べるという反応につながります。高等な動物では、捕食対象が武器を持っていて攻撃して来たり、毒を持っていたりした場合、攻撃をかわす方法や獲物にダメージを与えて無力化する方法を学習します。有毒であれば、毒を持つ部位だけ食べなかったり、対象そのものを餌から除外したりすることを学びます。
 さらに高等な動物では、社会生活を営み、情報を共有します。餌のありかであるとか、天敵の襲来を鳴き声や動作を使って仲間に伝えます。社会生活を営む動物は、情報を信号に変えて仲間に伝えるすべを先天的に持っています。
 人の場合は、情報の信号化を言語によって行ない、頭の中で情報を処理する時も、他の誰かにそれを伝える時も言語を用います。話し言葉に依れない場合には、文字を使ったり、ジェスチャや絵やマークを用いたり、道具を用いて音や光で伝えたりします。写真や映像といった高度な情報伝達技術も存在します。そして人が情報処理に用いる言語やその他の手段は、すべて後天的な学習によって習得する必要があり、他の動物のように本能で処理できる情報は多くありません。痛いとかかゆいとか、空腹や睡魔、恐怖といった直接的な刺激に関することくらいですか。もっとも学習するという能力自体は本能というべきものであるわけですが。
 情報を言語に置き換えて処理するという技能は、情報を吟味したり蓄積したり、仲間と共有したりといったことに長けており、そのことが人の暮らしに進歩をもたらしました。そして進歩し続ける暮らし(文化や文明の発展)は、情報の価値や真偽を時間の推移と共に変えて行くという事態をもたらしました。
 情報の価値や真偽が変わり続けるゆえ、先人の教えはいつまでも正しいということはなく、人によっても異なり、ノウハウも変わり続け、マニュアルも適時改訂され、真実も答えも流動的にしてとどまるところを持たないのです。
 高度な情報化時代には、膨大な量の情報が錯綜し何を信じてよいか判らない、どの情報が正しいかを見極めることが重要だ、そんなことがよく言われますが、この表現はあたかも、詐欺やペテンの類の情報が氾濫していることへの警鐘のように聞こえ、人々の情報に対する猜疑心をあおっているように見えます。
 しかしながら、情報が多いということは、人々にとって有益でありたいへん喜ばしいことです。そのことを見失って情報化時代を先進的に生きることを臆していては、人類の進歩も台無しです。ものが豊富にあってもそれらを恐れて手にしないのと同じです。人々は豊かな暮らしを求めますが、多くの情報を手軽に取得できるというのは、そのこと自体が豊かな暮らしです。だまされるのが怖いからと、携帯電話も持たず、インターネットも活用しない生き方を選ぶのは、自ら豊かな暮らしを放棄していることです。最近の若い人たちは、物欲にしか興味がない低能な資産家の経済支配によって、重労働低賃金にあえいでいます。それでも彼らが迷妄し道を踏み外さないのは、金銭や物に恵まれなくても情報というものに豊かであることができるからだと思います。低収入でただ働くだけで、さらにネットやスマホがもたらす情報さえも絶たれてしまったとしたら、彼らこの世の中に生きがいさえも見いだせないでしょう。

 情報はまた、人と人とをつなぐ重要なツールです。人が孤立することなく仲間と共にあるために情報は用いられるべきです。
 子供や未成年者は、錯綜する数々の情報を正しく判断するには経験不足であったり、知識が足りなかったりするといった考え方により、情報から遠ざけられることがよくあります。子供や未成年者を有害な情報から守るという点においてこれは正しいと思います。暴力描写や性描写の過激な演出をされた画像映像作品やビデオゲームに年齢制限を設けることも必要です。ただ、その必要性について社会的に議論がなされず、規制に対しても評価されていない現状には問題があると思われます。
 子供はいつまでも幼くはありませんし、未成年者もやがて成人に至ります。年齢制限つきの情報に触れて良い年齢に至ったとたんに大手を振ってそれらの情報を取得し、精神的な衝撃を受けたり情報を誤認したりしても自分で責任を負えと言われても、持て余してしまいます。身近に相談できる理解者がいたり、あらかじめアドバイスしてくれる親や兄弟や先輩がいれば良いのですが、年齢制限つきの情報というものは、なかなか厄介なもので他人に相談しにくい要素が少なくありません。たとえばアダルト作品に興味を覚えてもそのことを身近な人に相談するというのは容易ではありませんよね。
 しかしながら、情報を誤解することによって損失を被ったり、社会的な弊害をもたらすに及んだりすることは少なくないので、経験豊かな人に相談できると過ちを小さくすることができます。アダルト作品では男性主体の性表現に偏りがちで、それを基準にして女性に接すると失敗します。アダルト作品では日常的な性表現だけでは観客の興味を引き付けたり引き止めたりすることはできないので、非日常的あるいは非現実的な表現が多用されます。そのことを承知せずに、それをお手本にせっせとSEXテクニックを磨いても女性の好感を得ることは難しいでしょうし、軽蔑されてしまうことも少なくないでしょう。女性の気を引こうとせっせと自分すごいPRをしても、多くの女性はそんなことを望んでいません。アダルト作品が、もっと女性をヨイショする手管を盛り込んでくれると良いのですが、それでは観客を満足させられませんしね。
 まぁ、失敗を重ねて学ぶしかないのでしょうかね。

 情報のもたらす価値について記述するつもりが、情報の弊害や怖さを語ってしまいましたが、上記を逆に捉えて、正しい情報の重要性に気づいていただけたらと思います。情報のもたらす弊害を恐れるあまり、有益な情報さえも遠ざけてしまうことは大きな損失です。それに情報を誤認して失敗したり、恥をかいたりすることは、皮肉にも良い勉強になります。恥をかくことが人生経験ですらあります。失敗や人に尋ねることを臆するなとは、古くから言い伝えられたことでもあります。
 電脳ネットワークによる情報の氾濫の弊害ばかりに目を向けないでください。情報化時代はサイバー犯罪等の新しいタイプの犯罪を世にもたらしましたが、古いタイプの殺伐とした犯罪が減少したのも事実です。市民生活に有益な情報が迅速に伝達されるようになったおかげで、公共マナーも向上し事故の抑止にも役立っています。
 電脳ネットワークによる情報の管理は、人々のプライバシーを脅かせているとも言われます。確かに通販等を利用すると買い物の傾向が自動的に調査され、あなたにお勧めなんてメールが届くようになりますし、街頭の防犯カメラや駅の改札機に搭載されたカメラが、人々の移動を監視しています。それを超管理社会であると批判することもできますが、現行の管理は人々の暮らしの安全に貢献しているものの、人々の移動の自由を束縛してはいません。ネット通販等の利用で、買い物の傾向に応じたお勧め商品が表示されるのも、買い物の自由を束縛するものではありません。売り手に購買傾向がばれるのは不本意だと思うかもしれませんが、お勧めは機械的に行なわれているものであって売り手が管理しているものではありません。売る側にしてみれば、対面売りの方がはるかに購買傾向を把握できます。お勧めを上手く利用すれば、目当ての商品を効率的に探すのにも役立ち、購買の自由度が向上するくらいです。もっとも自制が効かなければ無駄な買い物をするはめにもなりますが。
 権力者が一方的に人々を管理するのではなく、ネットワークが自動的に管理するタイプの管理社会では、人々の安全や相互理解といった公共性が大きく向上します。人々は管理されることによって、より安全に、より自由に暮らすことができるのです。その理由の子細について述べるとまた長くなるので省きますが、スマホやパソコンのある生活、手軽にネット通販やネットオークションが利用できる生活に、従来よりも不便で窮屈であると感じることは多くないと思います。そう感じる人は、情報化社会に適応する努力をしてくださいよ、人間は進歩し続ける生き物ですよ。
 ネットワークを絶たれ、テレビやラジオにも厳しい報道管制が敷かれ、外の情報が入って来ないような暮らしは、ひじょうに不安で殺伐としています。自由もなくなり健全な精神を維持することさえ難しくなります。そのことを思えば、情報のあふれる時代がどれだけ恵まれているかが判るはずです。恵まれるのは良いけれど、人を惑わせたり陥れたりする余計な情報まで飛び込んでくるから困る、なんて不平を言っている方、そんな声ばかりが増えて行けば規制が厳しくなる一方です。利便があれば弊害もあることも学んでください。それに弊害から身を守るのは目や耳をふさぐことではありません。多くの情報にアンテナを巡らすことで自衛も身に着くものです。
 人間社会は、権力者の世の中から民主化の方向へ進化して行きます。みんなが情報を持ち寄ってみんなで築く社会に時代は推移して行きます。それに乗り遅れないようにしましょう。

情報の流れ(5)
情報の弊害

2014/11/12


 前項で情報のメリットについて述べましたが、ここでは弊害について見てみます。情報の弊害というと、詐欺やペテンといった他人に損害を与えるものを連想されるかと思いますが、情報は個人を陥れるばかりではなく、企業や団体、そして社会そのものに害を及ぼし、腐敗や堕落、社会不信と人間不信を蔓延させます。これは情報化社会が産んだ弊害ではなく、古来より人間社会に内在するものであり、テレビやラジオや新聞がマスメディアと呼ばれるようになった頃から急速に社会全体をむしばむようになりました。
 マスコミいわゆるマスコミュニケーションとは、マスメディアが媒体となって社会に情報伝達を行なうものですが、コミュニケーションとは言うものの情報伝達は一方的で、人々は専門家の発信する情報をもっぱら受け止めるしかありません。そして報道の専門家の思想は、経済本意の単純で俗悪な性格のものです。真実の報道という使命感は、売り上げへの影響、同業他社との競合という営利主義から、人間の行ないを醜く彩るという社会に対する裏切り行為に変貌してしまっています。
 たとえば、高校生がモノの取り合いで口論となり、それが増長して暴力に発展し死亡事故が発生したとします。被害者が亡くなるか否かの差は、実際には大きなものではなく、たまたま頭の打ち所が悪かったといった不運が、死亡事故という大きな事件を招いてしまったわけです。ことの真相を報道するなら、高校生同士が口論となり、互いに手を出すけんかに発展してしまったことから、運悪く頭部を強打し、それが原因でひとりが死に至ったという内容になるはずですが、マスコミは、それでは記事としてインパクトが弱すぎると判断します。
 昨日、某高校で生徒同士が争い、ひとりが死亡するという悲惨な事件が発生した。けんかの原因はモノの取り合いということで、些細な動機で若者がなぜ命を落とさねばならなかったのか、加害者は警察に殺意はなかったと話しているということだが、真偽のほどは判らない。というふうに感情的な表現に脚色されます。読者あるいは視聴者の関心をさらに引くために、キレやすい現代の若者、といった見出しで、過去の死亡事故例が列挙されたり、平和ボケがもたらす人命軽視の実情といった評価が付け加えられたりします。マスコミに踊らされた読者や視聴者が、それに乗じて、最近の高校生は恐ろしいとか、何を考えているか解らないと、高校生を総じて敵視するという愚行に至ります。いい年ぶっこいたジジィが、こうした報道を真に受けて、最近の若いもんは、なんて顔をゆがめているのを見ると、どんなに人生経験を積んでもアホはアホのまま、バカは死ななきゃ治らんのかと、溜め息が出ます。
 筆者は鉄道の駅という大勢の人の集まる場所で、日夜大勢の人間を見ていますが、高校生はおおむね良い子たちです。群れるとお行儀が悪くなる子たちもいますが、集団心理は年齢を問わず同じで、それこそジジィのハイキング客の集団のマナーの悪さ、酒グセの醜さは手が付けられません。新聞でも文化欄等では、高校生の善行が報道されたり、夢に向かって努力するさまが小さな記事になっていたりしますが、それが話題になったり、高校生に対する一般的な評価に反映されたりすることはほとんどありません。
 マスコミは人を悪く言い、評価を下げることにしか興味がないようです。それが民衆の関心事であり、人の善行を尊ぶ人間はいないと考えているようです。人がどんなに努力しても、どんなに善行を積んでも、マスコミが人の粗を探し出し、それを脚色して流布し、世の中が腐敗していることを主張し続けます。
 そりゃ、日本は資本主義社会です。超絶な資本競争が認められ、人と人とが競い、格差社会を構築することを旨としていることは解っています。殺伐とした憎悪や嫉妬が国の原動力であることも理解しています。ところが、表向きでは道徳を重んじ、自由平等を理想とし、差別をなくそうなんて言っているわけですから、まるで質の悪い冗談です。
 こうこと言うと、世間は"青い"とか"大人になれない"とかいう表現で単純に片づけてしまい、臭いものにフタをし、面倒から逃げ、ウソを吐くことを恥じないのが大人だと主張して譲らないわけですが、社会規模の壮大な本音と建前は、世の中を腐敗に導くばかりです。

 情報の弊害は、報道の悪意ばかりではありません。商戦の中にも巧妙に盛り込まれており、人の心を醜くむしばみます。美白や美顔といった化粧品のCM、着るものをスリムに見せるというファッション広告、ダイエット商品の告知、そしてそれらにまつわる人の平均や標準の定義。
 人をルックスで評価したり見下したりしてはいけない、ということは道徳として定義されており、万人の知るところではありますが、多くの人がマスコミに乗せられて美しきを奨励し、醜きを見下します。平均身長や平均体重といった過酷な数値を、それこそ義務教育の頃から叩き込まれ、個人が平均からどれだけ優れているかあるいは劣っているかを思い知らしめます。ファンッション誌には、モテるルックスがどういったもので、どうすればモテ顔に近づけるかがもっともらしく語られています。これに乗せられるそこそこ顔の読者は良いお客さんであり、あきらめて乗って来ない者はクズというわけです。
 女性が自分を綺麗に見せようとすること、可愛いあるいはかっこいいファンションに興味を持つことは自然で健全なことです。男性が美人に魅せられ、可愛い看板娘のいるお店に惹かれるのもおかしなことではないでしょう。しかしそれが女優基準、アイドル基準で語られることには問題があります。アニメのコスプレのように、なりきりごっこであれば文化として成り立ちますが、女優やアイドルを基準にして美醜競争が加熱しすぎては、世の中に差別や悪意がはひこるばかりです。
 筆者個人について申せば、160cmという身長は、男子としてはあまりにも低く、悲観的な人生を送らざるを得ないと周りからしばしば忠言され、成長促進にとせっせと牛乳を飲めと助言されてまいりました。親もこれでは嫁さんも来ないと心配しました。親に心配かけるとは親不孝者です。結論からもうせば日夜攻め来る牛乳に対するストレスから背が縮み顔がゆがみました。
 しかしながら、筆者にとって背が低いことはまったく苦痛ではありませんでした。ルックスが良くて自惚れているように見えるのも、巨漢でノッシノッシ歩くのも憧れではありませんでした。長身のせいで腰痛に悩まされたり、スポーツカーが狭すぎて長時間ドライブが苦痛だったりすることもうらやましくありませんでした。中高生あたりの頃から筆者がモットーとしてきたことは、"目指せ小型高性能"で、一見して貧弱で能力に乏しいように見えるが、ここ一番で力量を発揮できるような、そんな人間でした。そのためには男臭ムンムンの長身イケメンはむしろ無用の要素でした。そもそも筆者は酒と煙草と男が嫌いですし(笑)。
 しかしながら世間は、それを放ってはおきません。それが難義でした。哀れみや侮蔑、同情といったお節介が日夜降りかかり、人と接するのがひじょうに煩わしかったです。哀れまれても侮辱されても、平均値を大幅に下回る身長は治りません。それでは嫁も来ないと言われてもどうにもなりません。人間社会は様々な人間がいて多岐にわたる分業によって1人では達成できない変化と進歩をものにしています。すべての人が他の動物のように一様であれば、文化も文明も存在しません。だからいろんな人間がいて良いはずなのに、平均や標準という恐ろしい凶器が、それに満たない者を攻撃しにかかります。
 本当に恐ろしいものです、平均や標準という考え方は。そうした基準を実生活に持ち込まれるのは差別であり人格否定です。筆者は若い頃、周りからよく、生身の女に相手されないゲス野郎だからアニメの架空の女にしか興味を示さないとか、そんな容姿では街を歩くのも恥ずかしかろうとか、寂しい人生だとか、日々そうした罵詈雑言を聞かされました。標準を上回る人たちにとっては、平均以下の人間の存在が迷惑であるようです。
 みんながイケメンで、みんなが自分を着飾ることに余念がない世界は、彼らの理想なのかもしれませんが、それは実現しません。様々な人間がいていろんな個性が存在しなければ、人間社会の高度な分業は成立しないし、イケメンが大好きな服飾文化も生まれません。それにみんなが同じイケメンなら、イケメンの概念の存在しません。
 それでも世間は、小型高性能を目指すことで満足しているなんて人間を認めませんし許しません。取り柄のないクズの負け惜しみだと言って攻撃してきます。ほんとうざいです。自分より劣る者を見つけて見下さなければ成立しない自意識とは迷惑なものです。醜い者が迷惑というなら文化も進歩も捨ててサルの世界にでも行ってください。

 平均や標準、理想といった概念は、人を惑わせ陥れます。マスコミの商戦に使われる過剰な美の追求は、それを人間の理想であると定義することによって、人々を競わせ醜い者という定義を作り、人が人を見下すように仕向けます。映画スターやモデルを用いたCMは、現実ではありません。スターやアイドルは、一般人が手の届かないような美を演じるために、普通の暮らしを犠牲にしています。それは演じるものであり虚構です。人間が文化の歴史と共に培ってきた虚構の世界と、現実を混合すると、世の中は混乱し妬みや憎しみで満ちあふれます。
 筆者はオタクで、美少女アニメが大好物です。可愛い女の子キャラが大好きです。でもそれは現実には存在しない可愛さです。最近はK-POPにも興味を持ち、生身の女性が演じるアイドルを見るわけですが、彼女たちが美形でしかも絶品の笑顔を持つことはたいへん好ましいのですが、一般の女性がみんなそうであったら、アイドルの意味がありません。現実社会で重要なのは人当りの善し悪しです。

 マスコミやCMが一方的に垂れ流す情報の多くが、過度に経済本意に傾倒したもので、人々をそそのかしたり陥れたりするものです。詐欺やペテンのような具体的な被害がないだけにたちが悪く、社会そのものをむしばみ、差別や過当競争、妬みや憎しみを蔓延させます。社会の常識そのものが変質してしまっていることに多くの人々が気づきません。無益な競争や争いは我々の暮らしを陰湿で殺伐としたものに変え、それを食い物にしている権力者や資産家を喜ばせるだけです。
 こういうと、資本主義を否定する反社会分子みたいに思われるかも知れませんが、イデオロギーを否定しても権力者を拒んでも、明るい未来を目指す役には立ちません。日本の現行のイデオロギーは言論の自由、思想信条の自由を旨とする開放的で明るい概念に基づいています。ただ、経済本意の情報を垂れ流すのも、さじ加減を考えずに増長するばかりでは、社会はますます混乱し、やがてそれが権力者や資産家の尻にも火をつけることになりますよ、と言いたいのです。そしてそうならないためにも、情報を流される側も、なんでも盲信して鵜呑みにする態度を改め、自分の価値基準をきちんと持つことが大切です。
 つまり、マスコミが垂れ流す情報をペテンにするのも真っ当にするのも、受け止める側の力量にかかってるってことです。社会を支えているのはけきょく民衆なのです。

情報の流れ(6)
絶対と相対

2014/11/12


 人間社会を行き交う情報には、有益なものと有害なものがあるのは当然のことです。世の中には善い行いをする人間ばかりではないのと同じです。こうした事実は、いわば常識なのですが、どれが有益でどれが有害な情報なのかということが困難であったり、情報に内在する悪意が見ぬけなかったりすることに問題があります。見抜けなかったゆえに被害や損害を被り、人間不信に陥ったり世の中に希望を見いだせなくなる人が増えて行くということは、たいへん悲しいことです。人と交流することを拒む人が増えて行くということは、すなわち正しい情報も滞るということで、人間社会は正常な機能を失ってゆきます。世の中が狂ってゆくのです。
 前項でマスコミの情報の弊害について述べましたが、マスコミにとっては事件を誇大に脚色したり、犯罪者を悪く評価したりすることは、売り上げを伸ばすというメリットのために重要です。錯綜する幾多の情報の中から、商品として発信する情報に注目を集めるための手段であり、マスコミの営利性にとっては有益なことなのです。その情報を受け止める側が、マスコミの誇大表現に踊らされて、加害者が高校生なら今時の高校生は残忍だ、平和ボケしていて物事の善悪も判らない、というふうに高校生全体を敵視するという短絡的で愚かな評価に達するところが弊害なのです。この事例の見方を変えると、人生経験を積んだいい年をした大人が、マスコミの誇大表現を額面通りに受け止めてすべての高校生を見下すとは、今時の古い者は能無しだ、平和ボケしていて物事の善悪も判らない、ということになります。このように情報に踊らされてやたら他人に悪意を持つことが、群集心理として世の中に影響を与えていることが問題です。受け手にこのような悪意があれば、マスコミが誇大な表現をひかえたところで、結局のところは高校生敵視につながってしまいます。
 ひとりが悪行に手を染めると、その者が所属する団体全体が悪くみられるというのは古くから言われてきたことがらです。それが群集心理というもので、言わば常識であるというなら、人間全体が愚かで学習しないと言わざるを得ません。
 筆者が子供の頃、日本という国は、路上や公共施設にゴミをまき散らすのが当たり前でした。映画館でも自分の食べたものの空き袋を足元に置いて帰りましたし、駅構内の線路は灰皿と化していました。それがマスコミを通じた公共マナー向上の呼びかけにより改善され、放置されるゴミがずいぶん少なくなりました。今では自分のゴミは路上に残して帰るものと考える人はあまりいないでしょう。
 同じように情報の受け止め方というのも進歩し改善されてゆかねばなりません。そうでなければ住みよい社会は実現しません。ひとりが悪ければ同胞すべてが悪い式の感情論的な概念は、古い時代には良かったかもしれませんが、情報が多様化し錯綜する時代には改められなければなりません。
 情報の価値は一定ではありません。時間の推移、あるいは立場のちがい文化のちがいによって変化します。同じ情報がある人間には有益であっても別の人には有害になる、正義の価値観と同じです。正しいとされる情報もいつまでも正しいとは限りません。そのように流動的に価値判断の変わる性格のものを、我々は受け止め処理してゆかねばならないのです。これはヒトが進化して言葉を持つようになった時から背負ってしまった宿命ですから、何ぴともこれから逃れられません。

 情報の価値には、どんどん変わって行くものもあれば、まったく変わらないものもあります。同じ情報でも人によって変わる度合いも異なります。先端技術を担うような仕事では、常に最新の考え方(価値判断)を把握する必要があるでしょうし、伝統工芸を生業とする仕事では、古式に根ざした考え方を守ってゆかねばならないでしょう。
 個人の暮らしの中でも、変わらない価値観とどんどん変わって行く価値観があります。生活様式も好きな食べ物も、変わって行く部分とそうでない部分があるでしょ?
「むかしはこんなところに信号なんてなかった」と道路事情の変化に腹を立てるジジィも、最近では水分補給をせずに長時間歩くとぶっ倒れます。ジジィの若い頃は、運動の際に水を飲むとバテると言って水分補給はひかえたものです。むかしは水を飲んで運動すると横っ腹が痛くなりました。現代においては日に当たることよりも水分不足が熱中症の原因です。
 専門家が素人に出し抜かれたり、大企業が小さな会社に大敗を期したりする現象は、マニュアルやベーシックへの過度な辛抱によって時代の変化へのレスポンスが低下することによって生じます。膨大なデータを参照して作成したマニュアルや、長年の経験から培われたベーシックを見なおすというのは用ではありません。マニュアルやベーシックの存在は、専門家を短時間で効果的に養成します。専門教育を受けた者の多くは、エキスパートに到達しますが、独学では何倍あるいは何十倍の時間がかかり、多くが挫折します。しかしながら人間を取り巻く環境は自らの進歩によって変化して行くので、エキスパートと言えども日々の学究を怠ると、先入観にとらわれず斬新な発想の素人に敗北することになるのです。

 時代と共に進歩し、自らの環境をどんどん塗り替えて行く人の営みとは、面白いものです。明日はどう変化するかも予測できません。人間社会とは様々な思惑を持ったいろんな個性の集合体なのですから。
 では、このつかみどころのない変化の中で、我々は何をどう判断して対処して行けばよいのでしょう。その判断も状況に応じて変更しなければならないとしたら、そもそも判断すること自体が脅威になってしまいます。
 そうした状況下で、可能な限り効率的にあるいは建設的に物事を判断し、強い意志を持って生きて行くひとつの方法として、筆者は物事を相対的に考えるということをよくやります。
 そもそも相対的という言葉をよく理解していないのですが、筆者は絶対的の対語として相対的を用いています。絶対的であることを疑うことによって相対的に考え、いろんな可能性を考慮してみるわけです。選択肢を増やして情報を吟味しなおしてみようってわけです。
 絶対的という概念は、価値観が不動であるというもので、火は熱いに決まっているとか、チビよりノッポの方が大きいに決まっているというようなものです。一方、相対的という概念は、何々に対してこうである、条件が何々であれば結論はこうであるというふうに、価値観が何かに相(あい)対して決定されます。たき火の火は400℃ていどで、我々の日常生活にとっては熱いですが、1000℃を越える溶鉱炉ではたき火の温度はずいぶん冷めた温度ということになります。人間の身長の測り方は直立した時の足のかかとから頭のてっぺんまでですが、カエルの場合はそういう測り方はしません。アメフクラガエルという地中性の手足の短いカエルと、アマガエルを並べると誰がどう見てもアメフクラガエルの方が大きいですが、アマガエルが後足を伸ばすと、総全長はアメフクラガエルを越えます。それでもアメフクラガエルの方がチビだとは誰も感じないでしょう。筆者は人間としてはチビですが、人間の大きさをカエルのように頭胴長(人の場合は座高)で計るならば、八頭身の美女に勝ってノッポさんになることができます。火が熱いという概念も、相対的に表現するならば、日常生活の中では熱いと表現し、人の背丈も座高ではなく身長では彼の方が大きいというふうに表現しなければなりません。
 20世紀のはじめ、理論物理学者のアインシュタイン博士は、相対性理論を発表しました。物理の法則は絶対ではなく、等速運動する座標系という条件内において不変であるというのがその内容で、物理的に物事を観察したり計測したりするのは、同じ慣性系ならばという条件づけが必要であることを述べました。しかし宇宙の中では場は一定ではありません。恒星の重力場に捕らえられた星の角運動でさえ、たとえば彗星のような超大な楕円軌道をとる天体では、太陽に接近するときには加速し、遠ざかる時には減速しながら公転軌道を維持しています。同じ慣性系の中ではという条件は、宇宙的には特殊なので、最初に発表された特殊相対論と呼ばれました。では加速する系を含めあらゆる場に通用する法則はないのかと模索し、加速や異なる重力場での効果を含めて一般化した一般相対論にたどり着きました。それぞれ異なる場の効果を計る物差しとして光速度不変の法則が用いられました。媒体を必要とせずに直進する光は、光源を離れた瞬間にマックス速度の秒速30万キロに達しており、その後等速を維持し続けます。これを基準にすればあらゆる場の効果を計れるではないかということですね。光も大きな重力で曲がるし、レンズで屈折するじゃないかとおっしゃるなかれ、屈折しても速度は維持します。また、光速度不変の法則に疑問を抱く人もいますし、光の速度を越える速さの尊台を示唆する考え方もあるようですが、とりあえず現状では相対性理論はもっとも制度の高い理論でして、従来の古典物理学の時代に比べ、計測の精度が桁違いに向上しました。そのおかげでパソコンが順調に動作していますし、ナノテクノロジーも進化しつつあります。
 場の条件を考慮しなかった古典物理学では計測の精度を上げられなかったように、物事の価値判断においても条件を考慮しなければ、閉塞的な状況下で堂々巡りする結論から抜け出せません。ライオンとシマウマを比較した場合にも、ライオンの方が絶対的に強いとは言えません。地球上でより多くの個体数を有する(より繁栄している)という観点ではシマウマの方が圧倒的に強いです。
 思考の堂々巡りから脱出するために、発想の転換という言葉がよく用いられますが、考え方あるいは観点を変えるのに、物事を相対的に見るというやり方は具体性もあって有効です。
 相対的に見る(考える)とは、ひらたく申せば、物事は何かに相(あい)対して存在すると考えることです。何々という条件ならこうであるとか、何々に対してはこうなるというふうに、原因と結果を対にして考えるということになります。
 上述の火やカエルの話しは言葉のお遊びではありますが、あれは物事を相対的に見ることの本質を突いています。そして物事を相対的に見るとは、情報の価値判断を相対的に行なうということと同義です。

 筆者は、もう20年くらい前から相対的な価値判断ということに注目してまいりました。「日常相対論」というタイトルで随筆を書こうとも考えたほどです。面倒そうなのでいまだに実行に移していませんが。
 物事を相対的に考える、情報の価値判断を相対的に行なうという習慣によって、情報に惑わされたり、有益な価値を見落としてしまったりという損失をかなり回避することができますし、他人の意見も聞きやすくなります。他人が意見を翻してもその人に不信感を抱く前に原因を考えてみようという気になります。情報の氾濫への恐怖も減ります。
 絶対という判断はなるべくひかえる、答えは1つじゃないし、不動でもない、現在の判断や答えがなぜそうなのか、何に対してそうなのかを考えてみる、そういう習慣を身に着けることによって、情報を少しでも有益なものにすることもできますし、隣人や仲間との信頼関係を築く助けにもなります。
 むかし、情報の氾濫にどう対処するかについて知人と話し合う機会があり、物事を相対的に考えるという話しをしましたところ、彼はひじょうに共感し、暮らしの中でさっそく実践して行くと宣言しました。ところが価値判断に注意深くなろうとするあまり、決断に迷いがつきまとうようになり、断行力が低下し、優柔不断に陥ってしまいました。過ぎたるは及ばざるがごとしで、注意深くあり過ぎるのも考えものです。絶対なんて存在しないと思うあまり結論を導けないというのも、絶対が存在しないという絶対的判断に陥っているということなのです。妥協や曖昧さも思考の中に動員しましょう。

外部記憶

2014/11/21


 生き物が暮らしてゆくための基本的な情報は、遺伝情報としてDNAに蓄積されています。クモが巧妙な巣網を張ったり、鳥が巣を作るのも遺伝情報に依るものです。高等な動物では、脳幹が発達していて、生態的に状況に応じて様々な対応ができるようになっています。さらに高等な動物では大脳が大きくて、学習して得た情報をここに蓄え、それに従って高度な行動が行なえます。進化的な哺乳動物では、狩りや収穫の仕方を親から学習します。高い社会性を持つ動物では、群れ社会での学習が発達していて、同じ種類の動物でも暮らす地域によって生活パターンに差異が生じます。
 哺乳動物は、学習した情報を動作で子や仲間に伝えます。子は親のやることを観察して真似ることによって狩りや収穫の方法を覚えます。鳴き声や身振りによって食料や危険の情報を仲間に伝える動物もいます。鳴き声や身振りのパターンが先天的に決まっていて遺伝情報として受け継がれるものもあれば、個体の工夫によってそれが行なわれるケースもあります。イルカやクジラといった海洋哺乳類は、ひじょうに多くの情報を鳴き声によって仲間に伝達するそうです。クジラの中には数十分に及ぶ長い"歌"を奏で、海の中の様々な情報を仲間に伝え、その情報網が世界中の海を網羅するネットワークになっているとも言われています。人間よりもはるかに大きな大脳を持つクジラは、長い歌を覚え、それを忠実に再現した"歌"を奏でることができるそうです。それはクジラの言語のように言われたりもしますが、人が用いている言語のように学習によって習得しなければならないものではなく、遺伝情報として先天的に会得しているものなのでしょう。それにしたところで、長い進化の歴史の中で磨かれ語彙が増えていったのでしょう。
 人間の用いる言語も、もともとは先天的な発声が始まりだったのでしょう。驚きの声や怒りの声、悲しみの声といった、刺激に対する反応のような発声で、最初の頃の人類はコミュニケーションをとっていたことでしょう。それが物や状態に特定の名前を与えるようになって人間の世界観はまったく別のものになりました。たとえば野原や河原に転がっている固くてコロコロしたものを"石"と名づけてそれが言語として定着すると、人間にとって石は石でしかなくなりました。動物にとっては固くてコロコロした状態に過ぎず、踏んづけると足が痛いとか、蹴ると音がするとか、個体ごとにあるいはシチュエーションごとに感じ方が変わり、その本質がどうなのかについては興味の対象ではありません。踏んづけて足が痛い状態が重要なのであり、相手が石なのか木の根なのかはどうでもよいのです。しかし物に名前をつけてしまった人間にとっては、人間界においては、石と木の根は別のものであり、石は石であり木の根とはちがうものになってしまいます。日本の古い魔術の世界では、物に名前をつけることを呪縛と解釈します。人によって石と名づけられたそれは、言霊により石以外のものではなくなってしまうのです。魔術には様々な効力がありますが、それは人と人との間に力を発揮し、人のいないところには存在しません。
 言語の進化にともない、物の名前もどんどん細分化してゆきました。石も硬い石やもろい石というふうに表現によって分類されるようになり、石器時代、石造建築時代になると、宝石や花崗岩、玄武岩といった、用途に応じた別々の石として区分されるようになってゆきました。言語の進化は文明の発達と表裏一体のものであり、技術文明は言語による魔術のようなものでした。
 初期の言語は、口承によって人から人へ伝えられ、人はそれを後天的な学習によって会得しました。発音には個人差がありましたし、聞き方にも個人差がありましたから、言語は世代や距離を隔てるごとに変化してしまったりもしたことでしょう。方言はそのひとつの例といえるかもしれませんね。
 話し言葉を文字という記号に置き換える文化が育つまでは、人は口承によりあらゆる情報を伝えていました。その高度なものでは、部族の歴史や生活の知恵を長い物語として作成し、それを伝承することで、先人の暮らし向きや行ないを子孫に伝えました。文字文化の中で暮らしている我々にとっては、正確さを欠くかなり非効率な情報伝達に思えますが、口承による情報伝達は文字文化がかなり発達してからでも盛んに行なわれて来ました。文字は話し言葉のすべてを完璧に再現できるものとは限らず、口語の方が表現力も情報伝達能力も長けていました。我々が文字表現を万能のように思っているのは、口語の文字表現への依存度が高いからでしょう。日本でも文字表現がかなり忠実に話し言葉を再現できるようになったのは、言文一致が散文文学において達成された極最近になってからのことです。世界には、ひじょうに文字文化が発達していても文字の読めない、読む必要を感じず学習しなかった人たちがたくさんいます。

 後天的な学習によって会得する言語というものを生活の根幹に置き、言語でものを感じたり考えたりするようになった人間は、社会生活においては大変な労力を費やして言語を習得しなければならなくなりましたが、情報伝達の精度がどんどん向上し、技術文明も進歩しました。建築土木技術や科学技術が発展するには、文字表記や数学が不可欠で、文字と話し言葉は社会生活を支えるのに不可欠なものとなってゆきました。
 文字表現を会得した人間は、自分では覚えきれないものをメモっておくという外部記憶を発達させました。人間顔負けの頭脳を持つクジラでも記憶内容は頭脳の中に記録したものがすべてですが、外部記憶の技術を持つ人間は、覚えきれないものは紙か何かに記録しておいてとっとと忘れてしまい、必要な時に記述内容を確認して思い出すという暮らしの高度化効率化に成功しました。
 人間の外部記憶の媒体となるものには、文字の他に記号や数字、図形といったものがあり、それらは歌や楽器とともに芸術にまで発展しました。
 人間は、存在しないものを想像によって産み出し、それを音や絵、文章で再現し、そうした作り物に感動したり教訓を得たり、実体験をも越えることがらを学習したりすることができるようになりました。コンピューターの進化に伴い、バーチャルリアリティ(仮想現実)というものの実現が現実味を帯びてまいりましたが、それをウソの世界と批判する意見も少なくありませんが、人は古来より現実よりも虚構の世界に生きてきました。どんなに想像力の乏しい人でも、現実だけを見ては生きて行けませんし、そうした生き方では向上心もなければ物事への理解さえ及びません。理解とは正解を見つけることと思ったら大間違いで、真理へどれだけ近づけるかという自分なりの解釈であり、解釈へのアプローチには試行錯誤に伴う想像力が必要不可欠です。

 従来型の人間の外部記憶と言えば、文章や図形でしたが、機械文明以降、写真、映像、録音といった電子的に記録を残す方法が発達しました。そしてコンピューターの登場がそれらを格段に使いやすくかつ確実なものに進化させました。今ではパソコンや携帯電話、スマートフォンといった電脳端末が我々の身近に当たり前に存在し、文字や図形、写真、動画、音声の記録を容易に行なえ、しかも正確かつ迅速にそれを伝達したり、公共の場に発信したりすることが可能ですし、個人が扱える情報の量とそのストックも莫大な量になりました。
 筆者が若いころ、文章の記録と保存は手書きに依っていましたし、写真や映像、音声の記録にはなかなか大そうな機械が必要でした。記録メディアである磁気テープ、カメラのフィルム、そうしたものの管理もなかなか面倒なものでした。それがパソコンの登場でCDやフロッピィディスクといった1つの媒体に何でも記録できるようになり、いまではそれさえも旧式のメディアになりつつあります。今では手のひらサイズのスマホがあらゆる外部記憶を記録し、それを内蔵の爪の先くらいのカードに大量に保管しています。それで足りなくなれば自宅のパソコンのハードディスクに簡単にコピーできます。
 筆者の現在の暮らしでは、写真のアルバムも日記も、エッセイや小説もすべてパソコンの中です。そしてそれら多くの外部記憶は、筆者の若いころのそれに比べるとケタちがいの情報量で、記録したことさえ忘れてしまっているようなものも少なくありません。
 筆者が高校生の頃、手書きの同人誌を複製して10人ばかりに配るのに大変な労力がかかりました。筆者が20代の頃、ワードプロセッサを使い出版を印刷所に依頼して同人誌100部ばかりを頒布するのに多くの人でと日数、十数万円の費用が必要でした。郵送等で配布するにも多くの経費を必要としました。ところが、現在では月に何十という写真付きの記事を苦もなくブログにし、アクセス解析を見てみますと1月もすれば2000件を越えるアクセス数が認められます。同人誌100部を頒布するのが半年に1度がやっとだった頃に比べると、すさまじい情報発信能力です。しかも1月にかけた経費は300円のブログ管理費のみ。そして月に2000アクセスなんてブログとしては極めて貧弱なものです。アクセス数イコール読者数ではありませんが、同人誌に置き換えれば読まないまでも手にとってくれた数に準ずるものと言えるでしょう。あの頃は同人誌を売れないまでも手にとってもらうために、書店に置くにも即売会に持ち込むにも多くの経費と手間が必要でした。

 現代に生きる我々は、すさまじい情報量の外部記憶を自在に操る生活を当たり前のこととしています。個人が記録して行く外部記憶だけでも莫大な量なのに、ひじょうに大人数の外部記憶に容易にアクセスできます。ものを調べるのに図書館通いをしていた頃に比べると、その何十倍もの情報を家にいながら瞬く間に取得できます。図書館まで赴いて目当ての情報の記載された本を見つけて借りて帰るまでの時間に、どれだけの情報を取得できることでしょう。もう何十年も図書館に行ってませんが、図書館通いをしていた頃よりも得られる情報はケタちがいに大きくなっています。
 人間がこのような情報の扱い方をするようになってまだたかだか20年ほどでしょう。携帯電話やパソコンが充分に普及し、誰もがその恩恵を当たり前のように生活に取り入れるようになってからは、まだわずかな時間しか経っていません。長い長い人類の歴史の中で、壮大な情報の海が一般家庭に行き渡ったのはついこの間のことなのですよ。我々は数千年の間誰も経験しなかった超情報環境を当たり前に利用しているわけです。
 このことは、人類をこれから急速にそして急激に換えて行くことでしょう。情報が資産であること、情報が力であることをもっと多くの人々が理解するようになれば、様々な社会不安が解消されてゆきます。情報化社会になり、資産家はますます効率的に財産を増やし、格差社会はどんどん増長し、未来は暗澹としていると多くの人が信じて疑わなければ、そのような未来が実現するでしょうが、世の中はみんなが古い考え方にとらわれているわけではありませんし、権力によって経済を支配するよりも、もっと確実で安定した経済支配、人々の文化(暮らし)の集大成が経済をリードして行くような社会が現実のものになることは、それほどあり得ないことでもありません。そしてそうした新たな社会は一般大衆のものの見方考え方から大きく隔たったものでもありませんし、新たなシステムに人々が順応するのにもほとんど時間がかからないでしょう。未来が明るいと信じる心が、必ず世の中を変えます。

変化の時代

2014/11/22


 我々現代人は、変化の時代に生きています。
 19世紀のイギリス産業革命(工業化、工業革命)以降日本でも蒸気船や蒸気機関車が走るなど、世の中が革命的に変わる出来事が相次ぎましたが、それでも庶民の暮らしは馬車での移動や親から子へ着物や遊び道具が受け継がれるなど、大筋において江戸時代から大きく変わることはありませんでした。20世紀になって飛行機が実用化され日本にも旅客機が就航し、テレビ放送が始まり、庶民の暮らしが大きく変化するのはそのあたりからです。第二次世界大戦の終結は、日本に民主主義という新たなイデオロギーをもたらしましたが、本格的な文明の変化の波が我々庶民の生活を飲み込んで行ったのは、1960年代以降のことです。
 大昔から連綿と続いてきた変わらない生活、変化があってもひじょうにゆるやかで部分的な変化であったものが、1960年代以降は劇的に変わることとなり、その変わり様は人類がかつて経験したことがないようなものでした。我々現代人は、人類がかつて経験したことがないような劇的変化の時代を生きています。
 近代社会において、人々の暮らしを大きく変えたものは、物と情報の移動手段の変革です。鉄道網の充実により、手紙や品物が遠隔地にまで届くようになり、電報は情報の伝達速度を格段に速めました。自動車が近隣エリアの運行に利用されるようになると、産業レベルの輸送のみならず個人的な郵送も効率化しました。鮮魚が数時間で大都会にまで運ばれ、手紙や小包が数日で日本中至る所に届き、伝言が電報によってその日のうちに相手に届いてしまうなどという世の中を、人々はこれまで経験したことがありませんでした。
 鉄道が誕生してまだたかだか100年ですが、それが本格的な庶民の移動手段となり、郵便物の輸送手段となり、それに自動車輸送が加わって、鮮魚があっと言う間に都会にまで運ばれ、宅配便なる迅速で細やかな輸送システムが充実してきたのは、かなり最近の話しです。
 筆者が幼少の頃、自家用車はまだポピュラーなものではありませんでしたし、鉄道からようやく蒸気機関車が姿を消し、新幹線が東海道を走ろうかという状況でした。筆者の親の世代では蒸気機関車がディーゼル機関車に代わり、それがさらに電車に代わりといった変遷を経験していますし、祖父母の世代では、鉄道が庶民の手の届く乗物になったことが画期的なことでした。
 それ以前、筆者の曾祖父の世代になりますと、江戸時代から連綿と続いてきた暮らし向きにそれほど大きな変化はありませんでした。日本古来の文化に西洋の服飾文化や建築文化が徐々に流入しつつあるものの、人の移動は足か馬で、庶民は生涯のうちにそれほど遠距離の移動は経験しませんでした。庶民の文化は大筋において親から子へ受け継がれる江戸時代からのものに支えられていたのです。
 1960年生まれの筆者が幼少期を過ごした日本は、日進月歩で人々の暮らしが変化してゆきました。家庭用のテレビや電話機が1家に1台普及する時代が来ると聞いたときには、いつの未来や? と思いましたが、それを聞いた翌年には筆者の貧乏所帯にも電話とテレビがやってまいりましたし、数年後にはテレビがカラーになりました。東海道新幹線が開通し、東京オリンピックがテレビ中継され、交通網も蒸気機関車が大阪駅から姿を消し、国鉄のディーゼル機関車も電車にどんどん置き換わってゆきました。街からは路面電車がトロリーバスに置き換わり、それも短命で姿を消して地下鉄の整備が始まりました。
 1970年に大阪で日本万国博覧会が開催され、ソビエト(ロシア)のガガーリン少佐が地球は青いぜ、といった証拠や、アメリカのアームストロング船長が拾ってきた月の石ころが展示されました。万博の前に拡がっていた広大なハス畑は住宅地に変じ、物価が高騰してタコ焼きやお好み焼きが10円銅貨では買えなくなりました。ふと気づけば家にステレオだのテープレコーダーだのといった物々しい近代機器が存在し、自家用車までやって来ました。アパート暮らしがいつの間にか2階建てのマイホームに変じていました。
 筆者が高校に通うようになった1970年後半には、テレビ画面を操作できるビデオゲームが出現し、数年後には花札を作っていた会社が家庭用ビデオゲーム機を開発しました。
 1980年代にはパソコンが急速な進化を遂げ、1990年代にはOSが統一されて一般家庭への普及が始まり、インターネットやカーナビが開発されました。21世紀が明けると、ブロードバンド回線が充実して、パソコンは世界を網羅するネットワークに常時接続された家庭用端末という位置づけになりました。それまでマニアックなホビーだったものが家庭の常識になり、商取引の中心になりました。
 そして近年、携帯電話といわれていたものが、スマートフォンという小さなパソコンに進化し、人々は有線ネットワーク環境にアセスしなくても、いつでもどこでも電脳生活を普通にできるようになりました。
 最近のブログや個人のサイトを見ておりますと、すさまじい取材手腕と高度な評論能力に愕然とします。プロの記者や評論家との差異は、それで稼いでいるかいないかの違いしか見当たりません。同様に小説やアニメや音楽といった芸能でも、プロ顔負けの仕事をしたり、プロを超える収入を得ている人がいたりと、プロ・アマの線引きが曖昧になりつつあります。科学技術の進歩は、人間そのものをもここまで変えてしまいました。
 そしてそして、科学技術の進歩は、人々に健康と長命をもたらしました。筆者が高卒で会社に入ったばかりの頃は、50過ぎの定年前の人はヨボヨボのじぃさんばぁさんでした。ところが最近のじぃさんばぁさんの猛烈ぶりはすさまじいです。筆者自身もまさか50過ぎてアニメを見続け、アイドル歌手(K-POPですけど)にハマッていようとは、若い頃には予測できませんでした。その頃の自分の老人像と言えば、庭で盆栽でもいじりながら演歌か民謡を口ずさんでいるイメージでしたが、実際に年取ってみると、盆栽にも演歌にも一向に興味がわきません。高校生の時から基本なにも変わらないのです。この大人になれないぶりに自分で自分に戸惑います。
 健康面に関しては、成人病の低年齢化、肥満、精神疲弊の増大が社会問題になっており、科学技術の進歩が健康をもたらしたという点には多くの人が意義ありではないかと思われます。でもそれは事象の表面を見ているだけだからです。つい最近まで、日本人は江戸時代からあまり変化のない暮らしをずっと続けてきました。栄養も食事量も不足がちな食生活を先祖代々送ってきたのです。生きてゆくのもそう楽なものでもなく、娯楽やそれに避ける時間も多くはありませんでした。筆者の祖母は自分の親を見て、ただ働くだけの人生だと言っていました。貧しい食生活と精神的ゆとりの乏しい暮らしぶりに、人々は今よりずっと早く老け込み人生わずか50年とも言われていました。筆者が幼少の頃でも、子供の栄養不足が問題で、学校給食の高栄養価、肝油といったサプリメントの支給に学校が取り組んでいました。今より栄養が不足している子供たちは頻繁に風邪を引き、洟(はな)たれ小僧が子供の代名詞でした。それが戦後急激に高カロリーの欧米食が出回るようになり、先祖代々栄養不足に耐えてきた体が、いきなり栄養過多に遭遇したわけです。太って当たり前、肥満は正常の証しじゃないですか。それでも太れない人の方が健康に対する不安は深刻です。太れないで悩んでいる方に、肥満傾向の人が「スリムでいいね」なんて平然と言うのを見ていると、バカの蔓延ぶりにあきれます。その安易な言動で相手をどれだけ傷つけているか、まったく分かっちゃいないのでしょう。
 科学技術がもたらした健康面での弊害は、技術を悪用して格差社会を増長させようとする社会システムによるものです。機械化によって人件費を節約しよう、より多くの作業を押しつけようという人を人とも思わぬ権力者の愚行が招いたものです。それにより精神疲弊や難病の増大、健康管理の不備が蔓延しました。しかしそうやって人が人を見下し陥れる社会もいつまでも続きません。消費の低迷のツケは、途方もなく大きく膨らんで権力者に返ってゆきます。
 変化の時代に、我々が学んだことは科学技術を旧式の社会システムで行使し、権力者を育成するとどうなるのか、経済競争を増長させると環境や資源がどうなるのかということです。そして学んだことを今後に生かせるのが人の能力です。それができない、やらない、人を自ら愚かと認めてはばからないのなら、それを人とは呼びません。
 

報道の悪意

2014/11/24


 新聞やテレビ等の報道には、多分に悪意が含まれています。高校生が殺人事件を起こしたら、最近の高校生は恐ろしいと、高校生全体を避難するような表現をします。政治家の政策にも次の選挙を意識しているとか、政敵を牽制しているとか、権力争いが当然のこと、争い蹴落とし合うことが政治家の本分であるといった表現をします。ニュースキャスターは紳士的な顔をして、競争や格差を増長させること、人間の醜さをクルーズアップすることに余念がないように見えます。
 犯罪や権力争いが減少し、人々が平和に暮らすようになったらマスコミはどうするのでしょう。人の不幸や醜い部分が少なくなったら、ニュースキャスターや新聞記者は失業するのでしょうか。そうなることが怖くて、人間は醜いものだと訴え続け、政治家の権力争いは何においても大切なのだと論じ続けるのでしょうか。
 争いをあおり、他人の不幸をめしのタネにするなんて、立派な仕事もあったものです。
 しかしながら、正義のために悪を露顕させ報道しようとするジャーナリストもいるでしょうし、人々の善行をもっとクローズアップしたい記者も少なくないでしょう。命懸けで巨悪に立ち向かうジャーナリストもいるでしょうし、取材活動の中で人の情に触れ、心を洗われることだってあるでしょう。
 では、結果として凶悪な事件やスキャンダルばかりが目立ってしまうのは、やはり世の中が善行よりも悪行に満ちあふれているからでしょうか。
 そうではありません。世の中は人の善行であふれています。別項でも述べましたが、ほとんどの人間が善人で道義を重んじるから、セルフサービスの業種が成り立つのです。悪行が及ぼす損害が大きすぎれば、スーパーマーケットも駅の自動改札も成立しません。商売人はマンツーマンでしか物を売れず、駅には多数の係員を配置するしかなく、人々はひじょうに高い買い物をし、高額な運賃を支払うしかありません。
 マスコミの報道が悪行の方に傾倒するのは、それが特殊なことだからです。善行に満ちた社会では人間の善行が当たり前で、それにニュース性がないのです。ニュース性がない出来事を報道しても誰も関心を示しません。今日も大勢の人々のマナーのおかげで、スーパーが収益を上げ、鉄道も定時運転していると報道しても、誰も関心を示しません。そんなこと常識であり当たり前のことなのです。
 善行が、道徳を重んじることが常識であり当たり前である社会とは、考えてみれば不思議なものです。人の目を盗んでこっそり悪事をすることは不可能ではないのに、大勢の人々がそれをせず、そのおかげで社会のシステムは円滑に回り、高度な社会が成り立っているわけですが、考えてみれば世の中のひとりひとりがしっかりとした自覚を持ち、身勝手な欲求を自制し、理性的に道徳的に行動するというたゆまぬ努力を続けているわけです。みんなが思い思いに好き勝手をやって維持できる社会、保てる安全と平和なんてありはしません。

 人々の善行や道徳心を、法律や権力への恐れによるものだと考える人もいます。悪いことをして罰せられるのが怖いからやらない、会社をクビになって収入がなくなるのが怖いからせっせと働きルール違反もしない。法律があって警察力が目を光らしていなければ、世の中は無法地帯になる。それも本当かもしれません。
 でも人を善行に促すものは戒律や畏れだけではないでしょう。守りたい家族があり、叶えたい夢があり、人の役に立ちたいという欲求があり、社会的役割を果たしていることへの充実感があるからこそ、悪事に手を染めない、それも本当です。愛する家族が幸福に暮らすためには、夢を実現するためには、世の中が乱れていては叶わないのですから。
 戒律や畏れが社会の秩序を維持していることも否定できませんが、法がしばしば畏れの対象である権力を守る方向に傾倒し、差別や格差、貧困を産めば、犯罪が増大します。秩序の番人が犯罪を産む原因になってしまうのです。乱世はしばしばそうやって訪れます。

 戦争がなく平和な社会でも、人々は人間は欲深く愚かで醜いものだということを口にします。マスコミが鋭利目的が過ぎるあまりに、火に油を注ぎます。多感な若者たちの目にも、それが真実のように映るでしょうし、平和や社会秩序が大勢の人々の良識と努力によって維持されているなどと思いもしないでしょう。
 世の中の高度な社会システムが、人々の善行によって正常に運営されているのに、人々は日常的に人間の愚行や醜さを口にし、滅びを予測します。世の中バカばかりだ、人間の欲望にはキリがないから争いが絶えない、だから人はいつかは滅びてしまう。
 筆者には、そうした声が人々の希望のように聞こえます。人類は数千年も前に壮大な都市国家を建造する技術を獲得し、同時に大規模な戦争を展開するための火器を手に入れました。しかしながら戦争で人類が滅亡に瀕したことはありませんでした。筆者が子供の頃に世界人口は今の半分ていどで、これがあと10億も増加すると食料が尽きると言われていました。核兵器が開発された時にも、一瞬にして地球を灰にできる火器を手に入れた人類は、滅亡へのパスポートを手にしてしまったと言われました。石油も以前の計算ではそろそろ枯渇しているはずですし、地球温暖化もそれが人類の悪行のせいなのか、自然にダメージを与えるものなのか、解らなくなって来ました。中生代の恐竜全盛期は今よりもさらに温暖化が進んでおり、海面が上昇して海岸線を覆い広大な大陸棚を形成していました。陸地においても海洋においても、生物は大繁栄していたのです。
 我々が学校教育で習う人類の歴史は、戦争の繰り返しということになっていますが、じつは戦乱は局地的に散発的に繰り返されただけで、現在の状況とそれほど変わらなかったのではないでしょうか。戦争を宿命とし兵士を英雄に仕立て上げることが資本主義の競争社会を肯定するのに都合がよいからなのではないでしょうか。人類の歴史が戦乱の繰り返しであったなら、古い建造物や芸術作品の多くが残っているのはなぜでしょう。飛び交う砲弾をくぐり抜けながら人々は城を築き、絵を描き、音楽の公演を聞いたのでしょうか。
 人類の悪行が善行に優るのだとしたら、人間社会は成立するのでしょうか? よく言われるように人間は愚かで、欲望にはキリがなく、いずれ滅びるのが宿命だとしたら、存続への努力をする必要があるのでしょうか。有史以来大規模な火器を行使した戦争が繰り返されたのに滅亡に瀕したことはなく、民主化が進み、科学技術が世界を網羅する情報網を築くことに成功したというのに、我々は何も学ばず、滅びるしかないというのでしょうか。
 政治経済のレベルでは、人々は果てしなく争い、巨悪が繁栄し、国と国とが武器を向けあっていますが、文化のレベルでは国境なんて存在しません。インターネットは世界中の人をオンラインでつなぎ、武力でなく話し合いで物事を解決する機会を作りました。そこに希望はないのでしょうか。
 世の中が腐敗し殺伐としていると感じるのも、考え方ひとつではないでしょうか。マスコミは悪意の報道しかしない、人間はバカばかりだ、今どきの高校生は恐ろしい。一握りの悪例をとらえてそれがすべてだとする考え方が、世の中を腐敗混濁したものにしているのではないでしょうか。新鮮で品質の良い果物を、小さな小さな傷ひとつで腐っていると決めつけるようなものです。その傷が見る見る大きくなって果物をたちどころに腐らせてしまうと信じるか、小さな傷など果物の鮮度になんら影響するものではないと信じるかで、同じ果物に対する評価もちがってきます。どちらも一概に間違いであるとは言い切れないものの、悪い評価は美味しく食べられるものをも不味いものにしてしまいます。どうせなら美味しくいただいた方が得ですよね。

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索引


目次

スネさん リーザさん けもの 庭虫
雑虫 クモ 直翅系 半翅系 膜翅系 鱗翅系 鞘翅目 毒虫 魚たち 無脊椎
両生類 カメたち 絶滅動物 くさばな 庭草 雑草 高山植物 飼育と観察 ヒト □飼育動物データ




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